未来の社会学。資本主義の衰退、消滅。それ以上にユダヤ人からユダヤ的世界観が離れることは人間社会に衝撃を与える。
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 『これからの知的生活
未来における知的生活の風景とその意味を語る。知的生活の変化に時代の変化も見れるのだ。
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未来の社会学
 たとえ未来がどのように変化しようとも畏れてはならない。
我々はこの大地で生きるのではなく活きるのである。
この世界で生きることは確かに苦しくもある。なれどまた奇跡でもあるのだ。

 
● 21世紀、22世紀の大きな変化
 
 21世紀から22世紀にかけて起こる重大な変化は以下の2つである。

   @ 資本主義の衰退と消滅
   
A ユダヤ人のユダヤ的世界観からの別離

 資本主義は、21世紀半ば以降から衰退を始める。それは目には見えないが
 着実に衰退を始める。もちろん21世紀中には消滅しない。
 21世紀も資本主義はその主役である。
 しかし22世紀中には資本主義は跡形もなく消え去ってしまう。

 資本主義が消滅する22世紀において、それ以上の大きな変化がある。
 それこそあのユダヤ人の間からユダヤ的世界観が離れていくことである。
 22世紀になるユダヤ的世界観はユダヤ人の手元を離れていく。
 それ以前の21世紀後半には、ヨーロッパの人々の間、つまりユダヤ的世界観を
 標榜するキリスト教の間からユダヤ的世界観が離れていくのだ。

 確かに資本主義の衰退、消滅は人類に大きな影響を与えるが、ユダヤ人から
 ユダヤ的世界観が離れる影響に比べればとるにたらないと言える。
 それほど、ユダヤ人からユダヤ的世界観が離れる影響は大きい。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ



 
● 資本主義の原動力@

 資本主義は21世紀の中盤以降から徐々に衰退を始める。
 というのも資本主義を資本主義ならしめる原動力が力を失うからである。

 資本主義とは何か?それは
資本を増強すること。

 資本とは何か?それは人間が
価値ありとみなすもの。

 価値とは何か?それは以下のようなものである。
 
人間の生存に欠かせないもの(食料、水、衣服、住居)
 
希少価値であるもの (金属、宝石、資源(石油、石炭))
 
人間が手を加えたもの(芸術、漫画、サービス、広い意味での製品 etc)

 この中で特に重要であるのが最後に述べた部分である。
 
人間の手が加わることである。
 人間が手を加えたものというのは、人間の創造力、創意工夫、労働など
 人間が何かしら関わって生み出されたものなど全ての意味を含む。

 マルクスも人間が手を加えたものに価値が発生することを理解していた。
 後は、それを
いかに数値化して表現するか?であった。
 どのように定義するかの問題が残った。

 マルクスは
人間の労働時間の長さに価値を置いた。
 人間の生み出すものには質の違いがあることをマルクスは理解していた。
 しかし労働の質を数値化することは、できない相談でもあった。

 労働時間の長さならば、わかりやすく数値化が可能であったため、マルクスは
 労働時間の長さを採用した。当時の情勢もそれにある程度適していた。
 確かに機械が導入され、圧倒的に人間の生産力を上回ったが、それでも
 まだまだ人間の労働が必要な時代であった。

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● 資本主義の原動力A

 労働者の労働時間の長さを基準に国家まで作ってしまった社会主義、共産主義
 はその後、ことごとく失敗した。

 労働者の生み出す製品の質が問題になった。
 マルクスもこの点は、充分に理解し、また指摘もしていた。
 だが社会主義者や共産主義者はことごとく見ない振りをした。
 労働者の生み出す製品の質の低下に社会主義国家、共産主義国家は頭を
 悩ますようになった。
 共産主義者や社会主義者が無視をしたのも、マルクスはそれらを消極的に
 指摘しているからだ。
 マルクスは確かに指摘した。なれど消極的に指摘した。

 マルクスが消極的に述べた部分にこそ共産主義が滅びた要因が眠っている。
 マルクスが消極的に述べた部分こそは、共産主義が立ち行かなくなった要因
 のいくつかが含まれている。
 (そのいくつかを、ここで述べると長くなるので以下のサイトを参照)

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 *マルクスは確かに資本主義の危険性は指摘した。
  なれども、まさか共産国家ができるなどとは、マルクスは夢にも思って
  いなかったに違いない。
  マルクス自身、共産国家が樹立されるなどとは本気で考えていなかった。
  というよりも、さすがに人々はそこまで馬鹿ではあるまいと思っていただろう。


      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の資本主義

        稲穂黄金の未来の経済学者へ


 
● マルクスが労働の質ではなく時間にこだわった理由

 後年、マルクスを批判する人の多くが、人間の生み出すものの質の差を問う。
 ある人が描いた絵は数億円になるが、絵心がない人が書いた絵は一銭にも
 ならないと述べることとなった。
 確かにそれはそうなのであるが、しかし現代でも労働者の労働時間の長さは
 ある一定の有効性はある。
 現代でも
時間給で働くからだ。

 これは人間が生み出す製品に対して支払われる代金というよりは、
 例え、能力がなくても1人の人間を拘束することの代価の意味合いがある。
 人は人を一定時間、拘束することには代価を支払う必要性を認識している。

 マルクスが労働時間の長さに着目した点は、全てが正しいわけではないが
 あながち間違いというわけでもない。

 さらにマルクスには、以下の確信があった。
 
いずれ、あらゆる人々の作業の質の差はなくなる。と

 機械がどんどん入り込み、人々の仕事はどんどん分業され、さらに単調へと
 変化していく。その流れが進むと人々の仕事の単価はどんどん低くなり、
 最終的には、人間、個人個人の能力差などによる労働の質の差の開きは
 どんどん小さくなっていく。マルクスはそう考えていたからこそ、労働者の質
 ではなく労働時間を重視した。

 この点におけるマルクスの考察は、現代においても無視はできない。

 確かに、デフレ経済が進む先進国において、仕事はどんどん便利にかつ
 システマティックに変化していき、人間の個人個人の能力差を埋めるべく
 仕事環境が整えられてきてはいるからだ。
 あの人にはできて、あの人にはできないという仕事の数がどんどんと減って
 きているということだ。

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  * 同じ蕎麦(そば)のおいしさであっても、手打ち蕎麦というと何か価値が
     あるよう人は思うものである。 同じ蕎麦でも、その過程に人間の手が
     加わっていると、そちらの方が人は価値があると考える。


 
● マルクスの予感@

 マルクスは、機械が精密に働いて製品を大量に生み出すことの意味を
 誰よりも知っていた。機械が人間の仕事の価値を減らして、その分だけ人間は
 機械を利用して長時間働き生産しなければいけないことを理解していた。

 機械の導入が人々の仕事を単純化して、ますます賃金を下げていくことも
 誰よりも理解していた。
 その意味でマルクスは確かに現代的な側面を持っている。
 現代のデフレ社会の様相を誰よりも的確に把握しているといえる。

 マルクスには1つの確信があった。
 商品に
価値が発生する為には人間の手が加えられる必要があることを。

 だからマルクスは労働者の労賃にこだわった。
 人々は製品を生み出すまでの中に、人間の手が入れられているかいないかで
 価値を最終的に付加するかの判断をすることを知っていた。
 人間が介在し、人間を拘束することの代価を人々は認めるものであると
 いう確かな確信がマルクスの中にはあった。

 大量に生み出された製品が、仮に人間の手(労働、創意、工夫)からまったく
 離れて機械のみで大量に生産され続けるならば、その製品の価値は低下の
 一途を辿ることを、マルクスは良く理解していた。
 
 マルクスの労作『資本論』 
  
 彼はユダヤ的世界観から抜け切ることはできなかったが、それでも良く書き上げた。

 
機械のみよって生み出された製品が溢れれば溢れるほど、その製品の価値は、
 原材料に近い値段になっていくとの確信がマルクスにはあった。
 そしてまさにその状況が2050年以降に訪れる。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の資本主義
        稲穂黄金の未来の経済学者へ



 
● マルクスの予感A

 資本に価値を与える為には、多かれ少なかれ人間の手が加わっている
 ことが必要であることを、マルクスはその著書の中で指摘している。

 マルクスはそのことに気づいていた。
 だからこそ人間である労働者の労賃にこだわった。
 製品に人間の手が加えられなくなれば、人々はその製品に原材料費、
 生産費(電気代)以外の価値を見出さなくなる。

 マルクスは以下の著書でその意味を
さらりと書いている。

 
賃労働と資本
 ” もし労働者が、機械によって働く場から、全て追い出されたとしたらば、
  それは賃労働がなければ資本たることをやめる資本(主義)にとって
  いかに
恐ろしい事態に直面するだろうか! ”

 資本論
 ”同じ生産部分のなかで機械が普及してゆくにつれて、機会の生産物の
  社会的価値はその
個別的価値まで下がる。剰余価値は資本家が機械
  によって不必要にした労働力から生ずるのではなく、
逆に彼が機械に
  つけて働かせる労働力から生ずるのだ。


 マルクスはさらりと述べている部分にこそ確信が潜んでいる。
 マルクスが論理的に語っている部分は、あまり優れているとは言えない。
 なぜならマルクスは最初に結論が頭にあって、後はそれに辻褄をあわせて
 論的に語ろうとしていたからだ。
 マルクスが
直感的にサラリと語っているところはことごとく的を得ている。
 (このことはマルクスがユダヤ人であることと無関係ではない。)

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 ● マルクスについて一言

 21世紀の中盤以降、製品を生み出すことに人間が関わらない事態になる。
 全ての仕事はシステムとロボットによってなされる時代がくるのだ。
 多くの分野でその状態になるのだ。
 
 人の手が加わらない時代がくる。
 この状態こそ、確かにマルクスが畏れていたものである。
 なれど、これだけでは資本主義は衰退することはない。
 資本から、あらゆる人間の手が離れても資本主義は滅びることはない。

 ここで一言マルクスについて述べておく。
 マルクスは決して頭は良くなかった。どちらかと言えば頭は悪い。
 なれど彼の頭脳としては、やれるだけのことをやり通した。
 その点においては立派である。

 また、マルクスは、人間が手を加えたものに価値が発生することの核心を、
 ある人物から教わっている。
 ただし、マルクスはその人物の名前を終生述べることはなかった。
 その人物が、ユダヤ的世界観を忌み嫌っていたからだ。
 だがマルクスはその人物を、憧れの眼差しで眺めていた。

 マルクスは、誰よりもユダヤ人を愛していたし、誰よりもユダヤ的世界観に
 親しみと愛着を持っていたのだ。マルクスの頭からユダヤ的世界観が
 消え去ることなどは終生なかった。

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 * マルクス死後、共産主義へと邁進する多くの人々の熱気は、誰にも
    抑えられなくなった。迷妄と愚鈍に火がつくと、容易に消し去ることなど
    誰にもできなくなる。
    社会主義国家、共産国家の出現は、近代の人々がいかに迷妄と愚鈍で
    あったかを証明するものである。


      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の資本主義
        稲穂黄金の未来の経済学者へ



 
● マルクスの核心部分@

 ある製品を作るのに最初に機械を導入した資本家は、製品を生み出すたびに
 確かに利益を得る。始めは利益を独占する。
 しかし、いずれはライバルが現れて同じ製品を安い値段で出し始める。
 そうやってライバルと競争をしていったあげくに辿りつくのは、機械自身が
 生み出した製品1つ1つの中には、資本家の利益は見出せなくなるということ。
 その生み出された製品の中には、資本家の儲けは結果的に一銭も見出すこと
 が出来なくなるということである。

 それでは資本家の確実な利益はどこに見出せるのか!?
 それこそが
人間である労働者1人1人が作業した中
 資本家の利益が見出せるということだ。
 反対にいえばそこにしか利益を見出せない。
 これこそがマルクスが述べたことの
核心部分である。

 資本家が、自分の儲けを確保できる場所は、いずれ結果的に人間の労働の
 中にしか見出せなくなる。
 機械が自動で製品を生産したとしても、ライバルとの競争によって結局は
 機械を維持する電気代と原材料費、運送費などの諸々を足した部分の費用
 と同額の価格に、製品の値段は近づいていく。
 そこに資本家が受け取るべき儲けは見出せない。

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 ● マルクスの核心部分A

 資本家が豊かになる為には、人間の何かしらの労働が必要である。
 なぜなら、1人1人の労働者の労働の中に資本家の利益があるからだ。

 マルクスにとって資本とは、人間が何らか関わって生まれたものであった。
 人間が関わっていなければ、いずれ人間自身がそこに価値を見出さなくなると
 いうことがマルクスの念頭にあった。
 マルクスはその考えを土台にして、新たな経済学を構築しようとしたのだ。
 そこで使われた論的な説明は、結果ありきの説明であった。

 資本家が、最初に機械を導入して利益を独占できる日々のことをマルクスは
 資本論の中で ”
初恋の時代” と表現している。

 マルクスは、時々、文学的な表現をすることより、文学とは無縁な生真面目な
 学者達の目には、時に魅力的な存在に見えたのかも知れない。

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 * ただしマルクスは頭は決して良くはない。
   マルクスが述べた内容が哲学と呼ばれる自体が近代の低みを物語る。
   あれは決して哲学というレベルではなく、あくまでも論文である。
   マルクスの論文という言い方が、妥当なのである。
   マルクス哲学などという人間は、真の哲学の高みをまるで知らないのだ。



 ● 資本主義の衰退@

 21世紀も半ばになれば社会は、ネットワークによって結ばれ、人々の意識的な
 情報を収集する。意識的な情報だけでなく無意識の情報までも収集される。
 その情報が人類に有効に働き、多くの人々がその恩恵にあずかる時代がくる。
 21世紀には以下の3つのことが人間社会のキーワードになっている。

    
@ 超システム化
    
A ロボット化
    
B 国家のGoogle化

 ネットワークによって管理された社会=超システム化された社会があり
 各家庭にはロボットが置かれてその家の人々の雑用を支える。
 さらにそのロボットは情報を収集する。人々の無意識の選択情報である。
 検索サイトで検索する場合には人々は意識的に文字を入力して意識的に
 検索する。それに引き換えロボットは、人々の何気ない日常で選択する行為の
 情報を収集する。
  各家庭からそれらの膨大な情報が数箇所に集められて分析、解析される。
 それらの情報を国家が、国民のより良いサービス向上の為に民間にも
 利用する体制が出来上がっているのだ。
  超システム化された社会では、人間が出来る仕事は限られる。
 
 だが
人間が働かなくても良い社会が来たとしても資本主義は衰退しない。
 それだけでは資本主義は衰退を始めない。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来世界2
        稲穂黄金の未来世界3
        稲穂黄金の未来の日本へ



 
● 資本主義の衰退A

 人々が意識せずに選択した情報から、人々が必要とするものの情報が分析
 され、新たな製品が全自動のシステムによって生み出される時代がきた。
 21世紀中盤になると多くの人々の仕事はなくなっていた。
 世に生み出される製品に人間の労働が関与しない時代が始まりつつあった。

 だがそれでも資本主義は衰退を始めない。
 
超システム化、ロボット化、国家のGoogle化だけでは資本主義は
 衰退を始めない。

 さらに以下の条件が加わらなければ資本主義は衰退しない。

  (条件)  自然エネルギー > 全人類が消費するエネルギー

 
人類が消費する全エネルギーを自然エネルギーのみで充分な程
 賄え始めた時から資本主義は衰退を開始する。


 人類がいくらエネルギーを消費しようが、自然から得たエネルギーのみで
 充分すぎる程、賄えるようになった時から資本主義は、衰退を始める。
 その衰退に見た目には見えない。はじめ誰も気付かない。
 なれど資本主義は、ゆっくりと着実に衰退を始めるのだ。

 どこにも資本の増加が見込めない状態になる2050年。
 超システム化によって人間の労働が加われないで製品が作られる時代。
 さらにそれらのシステムを動かすエネルギーも自然エネルギーによって
 充分すぎる程、賄われる時代。
   たくさんの製品や商品は絶え間なく生み出されてはいく。
 なれど、人間自身がそこに経済的な価値を見出さなくなるのだ。

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  ● 経済的価値を見出さない時代=22世紀

 石炭や石油などの資源ではなく、太陽光、風力、地熱などの自然エネルギーに
 よって人類全体の消費エネルギーが満たされ始める21世紀後半。
 それから100年後の22世紀になると人類全体の消費量の何十倍、何百倍も
 自然から取得できるようになった。

 それらの無尽蔵のエネルギーによって、全自動システムで生み出される膨大な
 製品や商品。22世紀の人々はそれらの製品や商品に経済的価値があるなど
 ということは誰も思わない時代となっていた。

 22世紀の人々は、それらの
製品、商品に経済的な価値を見出さない
 それらの製品が役に立たないからではない。便利でないからではない。
 それらの製品は、非常に役に立ち、かつとても便利である。
 なれど、人間の手(工夫、想像、サービス)がじかに加わっていないからだ。

 現代の人々が行うサービスも22世紀には超システム化とロボット化によって
 人間の手を完全に離れている。
 これらを維持する為のエネルギーは充分すぎる程、有り余っている。

 資本の増大のいった場合に、その意味がわかるのは21世紀までである。
 22世紀も後半になれば、その時代に生きる人々にとって、資本の増大が
 何を意味するのかが、皆目、理解できないものとなる。

 何をもって資本は増大したといえるのか?
 それを判断するのはあくまで
人間なのである。
 有り余る商品、製品に価値を見出さなくなった22世紀において資本主義は
 完全にその原動力を失うことになるのだ。

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  ● 21世紀も資本主義の時代

 もちろん21世紀中盤から資本主義が衰退を始めると言っても21世紀中は
 資本主義の時代である。
  戦国時代が鉄砲の登場によって収束に向かい始めたが、と同時に戦そのもの
 の死傷者数も増え始め、戦が激しさをましたように資本主義が衰退を始める
 時に、その衰退とは裏腹に資本主義はその内なる競争意識を全開にして
 激しさを増す。
   この21世紀に生あるものは、誰もが資本主義下で生きることになる。

 22世紀に入ってもその時点で資本主義は消滅していない。
 資本主義は21世紀後半から確実に衰退をし始めているが、
 
資本主義が消滅するのは22世紀中である。

 戦国時代の終焉を示す関ヶ原の戦いが、まさに戦国時代がもたらした最大、
 最強の侍達による大戦であったように、資本主義が消滅する直前まで
 資本主義はますます激しさを増していく。

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● 資本主義の激烈な競争

 21世紀の中盤からゆっくり衰退する資本主義。
 22世紀中には完全に姿を消す資本主義。

 なれど、資本主義が衰退を始めてから最終的に消滅するまでの間、
 資本主義は
激烈な競争が展開されることになる。

 消滅に近づけば近づくほど資本主義の資本主義たる面が前面に押し出される。
 現在、この地上に生ある人々は資本主義の時代を生きるといってよい。
 
21世紀も資本主義の時代である。

 戦国時代末期に鉄砲が流入したことよって戦のやり方が非常に似通ってきた。
 その為、多くの鉄砲を手に入れる経済力と、大規模な組織を管理する能力が
 非常に問われるようになった。
 それに適応した戦国大名だけが生き残ることになった。

 戦国末期にもなれば各地を勝ち残った大大名が選出され、天下統一の
 最終段階に近づいた。
 戦国時代も終わろうという最後の大戦の関ヶ原の戦いにおいては
 数万丁もの鉄砲が使われたと言われる。
 それだけ多数の犠牲者を出したのだ。

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● 21世紀に先頭を走る国家

 人間が仕事をしなくても暮らせる世界と聞けば多くの人は楽園をイメージ
 するかも知れない。だが楽園どころか
地獄となる可能性すらある。

 下手をすれば人間の欠点をことさら強調して、混乱に拍車がかかるかもしれない。
 我々、人間は確かに救いがたい。
 
安逸と怠惰な日常は人間を真に駄目にするものだ。
 
 21世紀の前半から中盤において超システム化、ロボット化、国家のGoogle化
 の3つを素早く取り入れた国は他国に先んじるだろう。
 なれど
本当の課題はここからである。

 人間が仕事をせずとも生きていける社会は、人間社会を不安定にする。
 仕事をしない日常からはたくさんの問題が発生する。
 
 多くの人々が仕事をする必要がなくなった時に、人々の間から発生する問題に
 柔軟に取り組み、それを素早く取り除ける国家は世界中の国家の模範となる。
  
 それだけ世界中の、特に先進国は
同じ問題を抱えるからだ。
 それらの仕組みを
構築した国家が21世紀のリーダーとなる。

 上記を口でいうのは容易いが、実践することは容易ではない。
 その国家の実力が試される。
 つまり、その国に住む人々の力が試される。
 
 リーダーとなれる国家は、学問は洞察に富み、芸術は隆起し、社会に
 対する洞察力に真に優れている。
 そういう国家でなければ成し遂げることは不可能である。

 思いつきや思い入れなどでは到底太刀打ちできない。
 
人間の力がまさに求めらるのだ。

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● 資本主義の衰退と人々の不安の増大@

 資本主義が衰退を始める21世紀中盤。
 資本主義が完全に消滅する22世紀。

 21世紀中盤において資本主義はゆっくりと衰退を始める。
 超システム化によって社会が構築され、現代の人々の仕事の多くをロボットと
 システムによって実現される未来社会。

 後の問題はエネルギーだけであった。
 全人類が消費するエネルギーの数倍を自然エネルギーで賄える時代が
 到来したことにより人々の製品、商品に向ける目は無関心さが増えてきた。

 自然エネルギーで全人類の消費エネルギーを賄えるようになった時に、
 資本主義の原動力である資本の増大が不可能になる。
 その時、
資本が増大したという確信を人間がもてない為である。

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● 資本主義の衰退と人々の不安の増大A

 21世紀中盤以降、徐々に衰退する資本主義を尻目に人々の奥底から不安が
 押し寄せてくる。

     
資本の価値の増大
          ↓
          ↓   誰に対する価値の増大
          ↓   人間が価値あるとみなす物の増大
          ↓
     
製品力の向上、製品が余る
          ↓
           ↓   人間にとって価値がある製品?
          ↓    ⇒
価値がある!
          ↓   人間がそこに創造性を加えているから。
          ↓
    
超システム化、ロボット化によって完全生産
           ↓
           ↓   人間にとって価値がある製品? 
           ↓   製品を生み出す過程に人間の手も加わっていないよ。
          ↓   ⇒ 
価値がある!
           ↓  限られた資源(エネルギー)を元に生み出された製品
          ↓
 
自然エネルギー人類の消費エネルギー
          ↓
          ↓   人間にとって価値がある製品?
          ↓    ⇒ 価値を失った!
          ↓   人間が手を加えていないし
          ↓   自然のエネルギーにより全て作られてしまうから
          ↓
    
人々の価値観の喪失
          ↓
          ↓    人々の価値観の主要な部分を占めていた価値観
          ↓    の多くが資本主義がもたらしたものであった。
          ↓    資本主義が衰退し、人々の中に空白が生まれる。
          ↓

 資本主義の価値観に浸り続け、その中で生活することに慣れすぎたことの
 反動が徐々に表面化し始める。

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● 超人の誕生と神の復活@

 21世紀の後半に人々の間から超人を待ち望むようになる。
 資本主義がゆっくりと衰退する中で、資本主義が生んだ価値観が揺らぐ中で
 人々はこの世界に人間として生きる意味を問い始める。
  それが人々から超人を希求させる。

 真の生き方を知らせてくれる人を待ち望むのである。
 さらに22世紀に入ると資本主義の衰退は顕著になり始める。

 現代社会において、多くの風習や価値観が資本主義を前提にして生まれた
 ものが多くある。大多数の人々にとってはそれが生まれながらにあるので
 当然のような価値観だと認識しているのだが、これらの価値観が22世紀に
 なると揺らぎ始める。

 その不安の中で21世紀後半に生きた人々は超人を希求するが
 それから50年以上の22世紀の中頃以降になると人々は神を求め始める。

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● 超人の誕生と神の復活A

  19世紀に資本主義が驚異的スピードで広がると、人々の内面から神を
 慕う気持ちが急速に遠ざかった。経済的利益のみを目指す人々はまさに
 その当時を生きた青年にこういわしめた。
 ”
神は死んだ!

 ニーチェは資本主義の流入による人々の価値観の変化を文学として表現した。
 今度はその資本主義が地球上のあらゆる所から姿を消し始める。
 人々の内面には価値観の空白が生まれる。
 そして22世紀の人々は神を求め始めるのだ。
 22世紀に”
神は復活する!

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の小説家へ



 
● ユダヤ的世界観からのユダヤ人の別離@

  21世紀に人々は超人を希求する。
  22世紀に人々は神を求め始める。
  資本主義の衰退と消滅は、確かに人類に影響を与える。

  だがユダヤ人の間から、ユダヤ的世界観が離れていくことによる影響に
  比べたならば取るに足らない。
  それほどまでにユダヤ人の間からユダヤ的世界観が離れていくことは
  すさまじい影響を世界に与える。
  
 その予兆は21世紀後半から出始める。
 ユダヤ人にでるのではなく、キリスト教圏のヨーロッパ人の間からユダヤ的
 色彩をキリスト教からはずす動きが活発化してくる。
 その原動力になるのが、科学の進歩である。
  近代においてもそうだが、科学の進歩が否定する部分はキリスト教の中でも
 ユダヤ的色彩が濃い部分である。
 21世紀の科学の飛躍がいやがおうにも意志の存在を明らかにして
 古代の人々が信奉していた古代宗教に対して理解を示し始めるからだ。

           動画           テキスト

      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ



 ● ユダヤ的世界観からのユダヤ人の別離A

 21世紀の後半にヨーロッパのキリスト教圏の人々からキリスト教の内部から
 ユダヤ的色彩を抜こうとする運動が活発化し始める。
 そして22世紀になるとユダヤ人の間から、ユダヤ的世界観から離れようと
 する運動が出始める。この影響はすさまじい。

 なぜならばユダヤ的世界観は迷妄と愚鈍の輩の頭に入りやすく固く結びつき
 やすいのである。中世から近代に至る過程で、そのボンクラ頭によって
 どれだけ優れた科学者、哲学者、探求者が迫害されてきたことか!

 ユダヤ的世界観は迷妄と愚鈍の輩をひきつけて離さない。
 そして人類の大多数が迷妄と愚鈍の内にある。

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● 未来の社会学者とユダヤ的世界観

 未来の社会学者は、ユダヤ的世界観と無関係でいられない。
 それほどユダヤの存在はこの世界に影響を与え続けてきた。

 
社会学者になる者はユダヤに対する充分な理解が必要となる。
 過去から現代まで世界の歴史の端々にユダヤ的世界観が関わっている。
 
 迷妄と愚鈍の輩がユダヤ的世界観にとらわれて、その迷妄と愚鈍さが人々の
 良識を破壊し、真理を駆逐して、あげくの果てに残虐へと変化した時代もあれば
 ユダヤ的世界観が世界に広まろうする欲求が、様々な国に様々な形で
 入り込み多くの問題を巻き起こしてもきた。 

 特に日本の社会学者にとってユダヤ的世界観の迷妄と愚鈍さを理解すること
 は重要になる。というのも既に日本においては数十年前にユダヤ的世界観が
 日本に上陸し、多くの局面でユダヤ的世界観が日本を好いたいせさせる方向
 に動いていたからである。
 
 この点について語ると長くなるので、以下のサイトに譲るが、一言述べておく。

  22世紀に、ユダヤ人からユダヤ的世界観が離れた時に、そこで巻き起こる混乱
 や騒乱、その他の影響を最小限に抑える役割が日本(人)である。


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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ



 
● 戦前の日本に入り込んだユダヤ的世界観@

 多くの人はまったく気づいていないのだが、明治末期、大正初期にユダヤ的
 世界観が日本に入り込んできた。
   この時代の人々の頭の中にユダヤ的世界観が入り込み始めた。
 軍部官僚や国家官僚の頭に入れば全体主義者、社会主義者となり社会主義
 政策を推し進めようと画策した。
 民衆の一部に入れば革命家、共産主義者をもたらすことになった。
 ユダヤ的世界観が流れ込んだ者達は、いずれかものへと変貌する。

   
@ ユートピア論者、神の王国、ハルマゲドン
   
A 唯物論者
   
B 最終目的論者
   
C 全体主義、共産主義、社会主義者
   
D 知性万能主義、絶対精神主義者

 ユダヤ的世界観は静かに急速に入り込んで迷妄と愚鈍の輩に取り付くのだ。

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● 戦前の日本に入り込んだユダヤ的世界観A

 戦前の日本には既にユダヤ的世界観が入り込んでいた。
 明治の末期から大正の初期にかけてユダヤ的世界観は入り込んでいた。
 
 ユダヤ的世界観が流れこんできたことに気付いた者がいる。
 
大本(教)出口王仁三郎である。
 近代の日本が生んだ世界第一等の神霊家である。
        
       
近代の日本が生んだ、世界第一等の神霊家、出口王仁三郎

 日本に悪が迫っていた事に、王仁三郎は誰よりも気付いていたし知悉していた。
 それらの悪の1つが、ユダヤ的世界観であった。
 王仁三郎がそれに
気づいたからこそ大本(教)は狙われた。

 さらに大本(教)こそ、もっとも日本なるものを体現していた。
 だからこそ大本(教)は徹底的にマークされ、徹底的に破壊された。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ
        稲穂黄金の未来の神霊家へ

        稲穂黄金の出口王仁三郎


 
● 世界を一周したユダヤ的世界観@

 既にユダヤ的世界観は世界を一周した。
 中世のヨーロッパにおいて既に広まり、ユダヤ的世界観のキリスト教と
 対峙する必要に迫られた中東諸国では、ユダヤ的世界観に通じるイスラム教
 が大きく広がった。
  さらにユダヤ的世界観は、東へと流れロシアを共産国家をして、さらに中国
 でも共産党が暗躍した。
 そして日本にも入り込んできた。日本へは明治末から大正初期にかけて
 ユダヤ的世界観が入り込んできた。
 これらのユダヤ的世界観は表向きは
民主主義や人権の仮面を被っていた。
 これが後に日本から精神的弾力性を奪い
日本らしさをことごとく破壊した。

 ユダヤ的世界観に取り付かれた迷妄と愚鈍の輩は、日本なるものを悉く
 破壊していった。大本(教)は徹底的に破壊され弾圧された。
 ユダヤ的世界観に取り付かれた者達の多くは共産主義者や社会主義者へと
 姿を変えていった。共産主義はユダヤ的世界観が生んだ子供である。
 この点の詳細については以下のサイトに詳細に述べている。

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● 世界を一周したユダヤ的世界観A

 日本に入り込んだユダヤ的世界観は日本を滅茶苦茶にして日本をドン底まで
 陥れた。その延長線上に日本の敗戦もあるのだ。

 ユダヤ的世界観の虜になる人間の多くが社会主義や共産主義にシンパシー
 を感じた。日本を滅茶苦茶にしたユダヤ的世界観は日本からいったん離れた。
 戦後日本において幅を利かせ始めたのは、ユダヤ的世界観に頭を占領された
 社会主義者や共産主義者であった。
 
 日本から日本らしさを奪い日本を滅茶苦茶にしたユダヤ的世界観は、
 現在、どこに存在しているのだろうか?
 
アメリカ合衆国である。

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● アメリカ VS ユダヤ的世界観

 現在、ユダヤ的世界観はアメリカにいる。
 ユダヤ的世界観は、ヨーロッパから始まり、中東、アジア、ロシア、日本と来て
 現在は、アメリカに存在する。

 既にアメリカにおいて、その
予兆が出始めている。

 学校の初等教育の科学、生物学の分野において以下の考えが大きく
 取り上げられるようになったからである。

 
インテリジェント・デザイン、つまり神の意図が強調され始めた。
 インテリジェント・デザインとは、この世界には神の計画がありその延長上に
 人間も存在してうんぬんということである。

 この影響は、いずれ科学界を大きく揺さぶることになるだろう。
 というのも、この神の意図に沿った科学的結果のみが採用される危険性を
 はらんでいる為である。科学の基礎に超越的なものを置いてはいかないのだ。

 アメリカは確かに柔軟な国で、ユダヤ的世界観には簡単には屈しない国である。
 だがユダヤ的世界観は侮れない。
 世界一周したユダヤ的世界観はその後、どこにいくだろうか?

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● 再び戻ってくるユダヤ的世界観

 アメリカに存在するユダヤ的世界観はアメリカ社会を大きく揺さぶることだろう。
 そして22世紀、アメリカに存在したユダヤ的世界観はそこで終わりだろうか?
 それともさらに西に回ってイングランドに到達するだろうか?
 答えは否である。
 22世紀に、ユダヤ的世界観は
再び日本に戻ってくる。

 22世紀にアメリカにあったユダヤ的世界観は再び日本に戻ってくる。
 その時に日本(人)がユダヤ的世界観を認識し、それらに飲み込まれない為の
 深い洞察を得ていなければ、日本は再び多くの被害にあうのだ。

 22世紀に日本の、日本人の力が試される。
 深い洞察力が必要であり、広い学問が必要である。
 天へ通じる芸術が必要である。
 そして何よりも我々の友でありユダヤ人への愛が必要となるのだ。

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 ● 揺さ振られる日本と日本人   (2010〜2040年)

 ここでは今後、日本で数十年間に起こることについて述べる。
 これは限定的な現象であり、世界中に起こることのではなく日本だけで
 起こることである。
 ここで述べる内容は、未来の社会学者の趣旨には少しずれるが日本に起こる
 重要なことなので一応、書いておく。

 今後、数十年において
日本並びに日本人は、人々の繋がり分断される。
 日本の社会は崩壊寸前まで追い詰められることになる。


 何ゆえにこれが起こるのかといえば、日本ではまだユダヤ的世界観の影響
 が抜け切っていない為である。
  ユダヤ的世界観の悪影響は表面的には見えにくい。
 例えばそれは日本国憲法として保持されていたり、または共産主義者や
 社会主義者の中に存在している。
 戦後の日本において、多くの人々が無縁社会をもたらすべく暗躍してきた。
 当の本人達はその行為に気づいていない。
 だがそれらの行為はことごとく日本を弱めてきた。
 ユダヤ的世界観は根深く日本に入り込んだ。

 21世紀前半の日本に起こる状況は、日本はいやがおうにも追い詰められて
 ユダヤ的世界観の影響に気付いた人々が、それらを取り払う契機となる時代
 である。なれど、この時代に生きた人々は、後年振り返れば、大変な時代で
 あったと思い出すだろう。

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● 戦前の日本がもっていた国民の連帯意識@

 戦前の日本が持っていた国民の一体感。
 同じ家族のごとくにあると感じていた一体感。
 戦後はこれらのものがことごとく切られた。

 それは前に述べたようにユダヤ的思惑が入り込んでいるからだ。
 戦後日本人は、この一体感の喪失を補うべく、経済発展著しい会社組織の中
 にその一体感の居場所を見出した。
 これは擬似的な一体感ではあったがそれなりに効果はあった。

 その為に一時期、会社の肩書きや会社の付き合いが何よりも優先的なものに
 なっていた時代が確かに存在した。
  先祖との一体感、日本国家との一体感を失った日本人は会社以外にも
 連帯感を見出す必要があった。
 例えば地域社会との繋がりや、例えば出身大学との繋がりであった。
 しかし21世紀の平成に入り、それらの連帯感にも陰りが差した。

 経済は疲弊し、会社内の人員構成も出入りが激しくなった。
 地域でも移動する人が多く、周りは知らない人々になっていった。
 社会は、出身大学のコネなどまるで通用しない実力社会へと変貌した。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の日本へ



 ● 戦前の日本がもっていた国民の連帯意識A

  会社内での繋がり(肩書き、社員旅行)  ⇒ 経済の低迷
  出身大学の繋がり(同窓会、OB)      ⇒  会社組織の変化
  地域社会の繋がり(町長、町内会長)   ⇒  人々の移動


 戦後に人々の連帯感を代替であったこれらのもの全てが弱まり始めた。
 これから2010年〜2040年までの間、これらの擬似的な連帯感が徹底的に
 消滅することになる。急速に変化し、誰にも止められない勢いで迫ってくる。

 多くの会社では給料を定期昇給することもできなくなる。
 多くの仕事で契約社員によってなされる時代となる。
 一流大学卒業であろうが三流大学卒業であろうが職を失う時代が来ている。
 学閥などは、何の意味ももたなくない時代となる。

 人々は流動的に移動して、インターネットでの人々と繋がる。
 マンションの隣の人は知らなくても、外国に住む誰それは良く知ることになる。
 実の兄弟ですら本音で話し合うことなどなくなり、ネットで顔を一度もあわせた
 ことのない人々と本音で話すことが増え始めた。
 地域社会の繋がりが崩壊する時代となる。

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● 喪失感を徹底的に味わうことになる日本人@

 今後、数十年において日本人の喪失感はすさまじいものがある。
 擬似的に連帯感を演出してきたものがズタズタに切られ始める。
 それらは、もともと経済的利益の為に生み出されていたものである。
 その経済が縮小する日本において、連帯感の喪失を避けられない事となる。

 戦前の日本は、何よりも世界に誇れるものがあった。
 
国民的連帯感であった。
 
 数千年間、同じ大陸で生きてきた事。
 この日本で日本人と生きているアイデンティティは揺らぐ事がなかった。
 日本人の誰もが数代遡れば、多くの人々と親戚関係にあった。

 だがアメリカとの戦争に負けて状況は一変した。
 
戦後日本は戦前を否定し続けた
 戦前の日本を否定しつづけた戦後の日本。

 戦後日本が新たに作り出した擬似的な連帯感は、経済的成長がある間は
 なんとか、誤魔化しながらやってこれたが、経済成長が望めない時代になると
 途端に、その正体を露呈し始めた。
 戦後日本が新たに作り出した連帯感などは、ちっぽけな物に過ぎなかった。

 今後、21世紀の日本人は、このことを嫌という程、味あわせられる。
 これから数十年間に及び、日本に吹き荒れる嵐は、ほとんど全ての日本人に
 その意味が気付くまで、徹底的に、喪失感を味あわせることになる。

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 ● 喪失感を徹底的に味わうことになる日本人A

 
無縁社会が社会の至る所に押し寄せている。
 最初は、お年寄りの社会に流れ込んできて、その後で、年配の人々の社会へ
 と襲い掛かる。そうしてそれは若者の世代にも入り込み、若者を蝕む。

 今後、
数十年、日本は苦境に立たされる
 精神的にも、経済的にも、国際政治の舞台においても、あらゆることが
 今後、数十年間に訪れることになる。

 経済的価値観に寄り添って生きてきた人々、そこに連帯感を感じていた見出し
 ていた人々は、特に強い喪失感を味わうことになる。

 人々の不安に答えるべく存在する文学や芸術は、日本では貧弱である。
 戦後日本の
ヘナチョコ文学では、人々の悩みや苦しみ、葛藤を癒し、支えと
 なる何ものかになることは残念ながら期待できない。
 日本の学問も、非常な低さにある。

 不安に駆られた人々は、小説をはじめ、多くの本に救いを見出し始める。
 だが至らない小説や、浅はかな大学の学問などをいくら学ぼうが、
 人々の喪失感を埋め合わせするにはならないのだ。

 多くの
日本人が、そのことを真に実感するまで追い詰められる。
 それだけ21世紀前半の日本は追い詰められることになる。

 そして、いずれ
本物が人々から希求される時代となる。
 戦後日本が、戦前の日本に比べていかに至らないかを日本国民が心の奥の
 奥の奥底から理解するまで日本は追い詰められることになる。

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● 日本とは何か?日本人とは何か?の問い (2010〜2040年)

 2010年から今後、数十年間において日本並びに日本人が徹底的に
 追い詰められ、人々の連帯感が断ち切られるに従って人々は真剣に
 日本とはなにか?日本人とは何か?を考え始める。

 数千年の昔から現代まで、我々につむいできた命と精神性。
 その連帯感の喪失を経済の成長に寄りかかる事で目をそらしてきた戦後日本。
 日本社会の空中分解は、だいぶ以前から急速に進んでいる。
 大東亜戦争の敗戦以後から急速的な勢いで人心は分裂し、分断されている。
 日本自体が溶けている。
 
 それらの日本の溶解を前にして日本人は正面から向かうことはしなかった。
 直視するチャンスはたびたびあった。
 だが日本人の多くが目の前の経済的利益の獲得に忙しかった。

 直視することを避けて、経済的発展のみに力を注いできた。
 だがそれももはや限界である。

 頼みの経済も縮小の一途を辿る。
 国家のお金も底をつき、巨額の負債が積もり積もってきた。
 日本人の連帯感がズタズタに切られていて、人心を基礎とする政治でも
 不安定さが目立ち始めた。日本国民の奥底に不安がうずまいている。

 その不安の形は、まだはっきりと目には見えていない。
 だからこそ、人々は余計に不安になる。
 今後数十年間に、目に見えなかった不安が目に見える形で表面化する。

 この数十年間、日本人の不安と喪失はMAXへと高まる。
 まさに日本社会が空中分解している様に見えるだろう。

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 ● 再び、揺さ振られる日本と日本人

 連帯感の喪失から目を逸らすのに都合が良かった経済的成長も21世紀に入り
 デフレが基調となり、100年デフレの様相になると人々の関心は経済から
 離れ始めた。人々は生活の維持の為に経済を気にするが、経済に以前のような
 期待をかけることはなくなった。

 経済発展が著しい1960年代、70年代には、明日は今日よりも豊かだと
 いうスローガンによって人々は現実を見ないですんだ。
 
 給料が飛躍的に増えて、ボーナスの上がり下がりに一喜一憂する日本人。
 いずれは買いたいあの製品。それを思って今日を働いた日本人。
 経済成長に焦点を合わせることで、その背後で日本が失っていくものには
 目を向けずに、なんとかやってこれた。

 戦後日本は、本当に多くのものを壊し続けてきた。
 日本人が古来より受け継いできたことと無視し続けてきた戦後日本。
 それを無視したことによって発生した人々の連帯の喪失。
 それがあちらこちらに広がって、もはや手のつけられない所まで来ていた。

 21世紀に入り、デフレが定着し長期的に経済成長が見込めない時代になった。
 ここに至り、あらゆる所から人々の連帯感の喪失が表立って見え始めた。

 経済の発展によって見ない様に蓋をしてきた物の蓋が取れ始めた。
 21世紀最初の数十年、日本の人々は、連帯感の喪失にいやがおうにも
 気づかされることになるのだ。

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● 日本人らしさの喪失と人間の力の低下@

 戦後社会の中で起こっていたことは人々の連帯感の喪失だけはない。
 日本人そのものが、日本なることを理解できなくなっている。
 日本人とは古来より神祭りをして行ってきた人々である。
 その神祭りに対する認識もあっという間に人々の中から消えた。
 各地に残る祭りの多くも、それらの認識を欠いた形骸化されたままの形で
 残るのみとなった。

 この日本は戦後を分岐点として、日本らしさを真に失った。
 それらはまさに、日本人が世界に誇る日本人の美点であった。
 戦後、徹底的に破壊され続けた。

 神祭りする意義を失った日本人は、本来備わっていた人間としての力も
 同時に失うことになった。なぜなら日本のもっとも優れる人々はまさに
 その神なるもの仏なるものに集まっていたからだ。
 空海や最澄、法然や親鸞、道元や日蓮、一遍や栄西など、日本が誇るべき
 真の知識人、賢人はまさに日本の神祭りに無縁ではない。
  これらの仏僧を代表する者達こそ、まさに日本の上なる(神なる)姿を追求し
 そうあろうとした人々であった。
 それらの人々から離れることは、日本が長い時間をかけて積み重ねてきた
 叡智の結集から距離を取ることであった。

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● 日本人らしさの喪失と人間の力の低下A

 戦後日本では、戦前まで続く神祭り、神なる者の意味を無視した結果、
 学問の大幅な低下、人間の力の大幅な力の低下を招いた。

 それもそのはず、神祭りはまさに日本の真に優れたる人々が関わり、それが
 2000年を越えて積み重なった重厚なものである。
 それを軽視すること、無視することは、どれだけマイナスをもたらすかは
 すぐにもわかりそうなものである。

 戦後の日本人は、神祭りを軽視した結果、大きな知的低下を招くことになった。
 それらを補う形で、戦後知識人と呼ばれた人々が出てきたが、如何せん
 レベルが低すぎた。
 これらの連中のほとんどすべてが、学問をまったく修めていなかった。

 戦後のわずか数十年の積み重ね、それもまったく至らない連中の戯言が、何か
 をもたらすことはなく、結果的に日本国家、国民の大幅な力の低下を招いた。

 その差は明らかであった。
 戦後日本が神祭りを軽視したツケは現代の日本にも影響を与えている。
 現代においても、日本で知識人と呼ばれる者達のレベルは貧弱である。
 日本における学問もまるで至らない。
 特に文科系の学問は、目も当てられないレベルとなっている。

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● 戦前日本と戦後日本

 本来は、精神性にあふれたこの日本がまさに危機に瀕している。
 日本人が歴代紡いできた精神性の高さは、優れた仏僧、貴族、武士など
 が残した芸術作品、学識から証明される。

 古来より真に偉大な人々を生み出してきた日本ではあるが、近代の低み
 ことに戦後日本のこの低さはなんということだろう。

 これが本当に、空海や最澄を生み出した国なのか?
 これが本当に、行基や一遍、親鸞や栄西、道元、日蓮などの優れた者達を
 生み出してきた国なのか?

 戦後日本の学問はまるで至っていない。
 戦後の日本が生み出してきた学問、芸術、文化などちっぽけである。
 まるで至っていない。芸術も見るべきところは特にない。
 小説や文学で心が揺さぶられるものはない。
 
 この国は国家の体をなさない状況になりつつある。
 日本人が日本なるものを忘れたときにこの国に人がいたとしても
 それはもはや日本人ではない。
 この国にとっても
21世紀の前半の数十年は正念場である。

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● 再度、どこまでも追い詰められる日本人@

 古来から日本人が大切にしてきた大家族を失った日本人。
 一族親戚との繋がりの喪失、氏神との繋がりとの喪失。
 地域社会との繋がりの喪失、産土神との繋がりの喪失。
 他人との繋がりの喪失、仏との繋がりを喪失。
 自然の中に神を見ることを喪失し、よって己の中に神を見出すことも喪失した。

 これらの喪失をなるべく気づかない振りをして、日本人は経済発展、経済成長
 だけ邁進した。バブルで浮かれ踊っていれば、その実態を見ないですむ。
 心の空虚さの広がりを見ないように浮かれ続けた。
  その頼みの経済成長が止まった。反対にゆっくりと衰退し始めた。
 長期的に目覚しい経済成長することは見込めない。

 いままで覆い隠してきた喪失感が、日本に押し寄せきた。
 多くの人々は孤独を感じ、不安を感じ始めた。
 独居老人、孤独死、核家族、1人の生活。子供なし。
 経済発展による給料の上昇がとまった人々の目に映る景色は、
 夢から覚めた現実の姿であった。

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 ● 再度、どこまでも追い詰められる日本人A

 孤独死、不安、連帯感の喪失、
 古来より大切にしてきた日本なるものを放棄した日本人が、経済的繁栄を
 失ってその重要さに気づいた。
 人々の一体感をかろうじて擬似的に演出してきたサラリーマン社会が長期的な
 景気低迷で崩れていくことになり、人々には連帯感の喪失が襲い掛かってきた。

 21世紀の今後数十年間、日本人は徹底的に追い詰められる。
 21世紀、前半、日本は徹底的に追い詰められる。
 擬似的に支えてきた会社組織のつながりは弱まり、

 人々の働き口は無くなり、さらに人々の連帯感の無さが露呈する。
 家族がいても1人暮らしを強いられるお年寄りが孤独死する社会となる。
 あらゆる年代の人々から、あらゆる地域から無縁社会と呼ばれるものが
 でてくる。それは元々存在していたのだ。ただ経済成長によって見えなかった
 だけなのである。
  お年寄りだけではなく、若者の間でも、社会の連帯の無さが露見する。
 今まで日本人がすがってきたものが、21世紀の数十年に破壊される。
 会社内の人々の有り様も、社会の変化で大きく変わってきた。
 夫婦のあり方も、社会の変化で大きく変わってきた。
 家族のあり方も、社会の変化で大きく変わってきた。
 人々がなんとか拠り所としていたものが、ことごとく壊されることになる。

 
この数十年、日本はどこまでもどこまでも追い詰められていく
 どこまで追い詰められるのかといえば、人々のつながりの大切さを人々が
 真に認識し、理解した時にそれがとまるのだ。

 古来から日本人が大切にしてきた日本なるものを、現代に生きる我々が
 再認識しない限り、この大地は日本人を徹底的に追い詰めることになる。 

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● 根無し草の増加@

 この20年間において
無縁社会が表面化してきた。
 だがこれは表面化してきただけで既に社会には広がっていた。

 少し前には親を面倒見ることを嫌がり、夫婦だけとなり、子供が生まれたら
 物心つく前から保育園に預ける時代となった。
 働くことに意義を見出し、0歳児を預けることになんのためらいもない人も多く
 生まれた。さらに夫婦共働きでお互いが会社帰りに別々に食事を取る時代。

 そうやって親とのつながりを切り、夫婦のつながりを切り、子供さえつながり
 さえ断ち切られる時代。
 自分達にこれこそが日本人の生き方だという深い確信がないからこそ
 他の主義に流される。資本主義に流され続けてきた。
 確かに資本主義は、社会を便利にしてきてはいる。
 だがそのことと人間が人間として生きることは大いに異なる。
 
 日本人として生き方が腹に座らない人間は、この世界にいれば生きるほど
 辿りつく先は無縁社会となる。
 今後、数十年間、日本人は徹底的に思い知らされることになる。

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 ● 根無し草の増加A

 戦前の日本が持っていたものは、人間が人間として生きるという意味であった。
 戦後の民主主義や資本主義などの政治体制や経済体制などは
 まるで本質のことではない。あなたの人生に何らの本質でも有り得ない。
 そのことに戦後の日本人の多くは気付かなくなった。

 これらの人々はこの世界を自分の足でしっかりと踏みしめて生きてないのだ。
 どれほど経済的に成功しようが、名声を得ようが、その心は虚無感と喪失感に
 満ち満ちている。
 経済的目標を掲げてそれに生き甲斐を見出し、何とかごまかせてきた時代は
 足早に過ぎ去った。

  現在の日本には、人々の虚無感と喪失感が満ち満ちている。

 なれど今こそ、戦前にもっていた優れたものを取り戻す時である。
 それを国民全体で取り戻す時が来ているのだ。
 多くの困難もあろう。多くの涙もあるだろう。
 だが今は、失ったものを取り戻すチャンスでもある。

 戦後になって失ってしまったものの大きさを国民の多くが心の奥底から
 理解するまでに日本人はこの20年間で
徹底的に追い詰められるのだ。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の日本へ



 
● 神と仏と人間と

 
とはなるものである。
 つまり人間にとっての神の存在とは、人間が本来めざすべき最上の姿、
 目指すべき高みを意味している。
 人間にとって
目指すべき理想の姿、それが神(上)なるものである。

 なれど人間には多くの欠点を持つ。
 上なる姿を知っていても、それに向けて努力できる人は限られる。
 事実、多くの人間はまったくそれが実践できないし、時に逆行する者さえ
 多々存在する。人間は真に救いがたい。

 だから仏が生まれた。
 上なる(神なる)ものに近づこうとしない人間に対する許しが仏である。
 仏とは、人間に対する許しであり救いである。

 人間が上なるものへ向かうときに、人間ゆえの欠点ゆえに至らない面に対する
 許しなのである。
 人間は上なる姿を理解できても、それは中々実践できない。
 仏の存在は、その至らない人間に対する許しなのである。

 人間が上なる意義を忘れた時に、必ずと言ってよい程、上なる生き方を
 体現する人々が現れる。
 それが東洋においては釈尊であるし、中国においては老子、孔子である。
 西洋においてはイエスであるし、日本においては最澄や空海であった。
 近代日本では出口王仁三郎であるし、現代において深見東州さんである。

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● 神を失えば仏も失う。そして悪魔が近づく@

 
神なるものがないところに、仏なるものは存在できない。
 人間の上なる(神なる)ものへの不断の接近こそが、人々の心に仏を生んだ。
 上なるものへの理解を失えば、仏を失うことになる。
 
 神なるものが存在しない場所で慈悲を語れば、そこに悪魔が近づいてくる。

 内に上なる(神なる)もの宿さず、表面的に慈悲を語るものは、決まって悪魔
 の使いとなる。慈悲深い顔のその裏には悪魔が控えるのだ。
 人道主義を当初どれ程、掲げようが、その内面に神なる(上なる)ものを宿さなけ
 れば、いずれそれらの者達は悪魔と契約する羽目になる。

 その証拠に、内面に神なるものを宿さない連中で、人権や平等を声高に
 掲げた者達が作った国家、つまり共産国家や社会主義国家では、その後、
 多数の人々が血を流すことになった。

 その内に上なる(神なる)者を宿さない共産主義者や社会主義者の多くが、
 目的達成の為ならば人の命などまったく気にしなくなった。
 特権階級とし国民の上に居座り、国民を彼らの都合の良い道具とまで
 考えるようになった。

 共産主義国家、社会主義国家において弾圧、虐殺が日常茶飯事となった。
 社会主義国のソビエトの秘密警察、共産国家の中国での知識人への弾圧、
 他民族への侵略、弾圧。社会主義国家ベトナムの知識人への虐殺。
 カンボジアでの国民の大量虐殺。
 これらの国々で数十万人、数百万人という人々が虐殺されたのだ。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の神と仏と人間と
        稲穂黄金の天使と悪魔



 
● 神を失えば仏も失う。そして悪魔が近づくA

 もっとも上なる(神なる)意味を理解していた日本人。
 しかし、戦後の日本人は神なるものを失った。
 だからこそ同時に仏も失うことになった。
 
 それでも日本はまだ悪魔には飲み込まれていない。
 あらゆる所に悪魔の誘いがあるが、日本はギリギリのところで留まっている。
 日本の神々、仏が真に、日本の人々を愛しているからだ。
 神仏は人間を愛しておられる。

 だがそれとて、いつまで続く保証はない。
 自ら神を捨て仏を捨てた日本に住む我々に、いつまでも神のご加護や仏の愛
 は降り注がない。人間がそれを選んでいるのだ。

 21世紀の数十年、その意味に日本人が真に気付くまで日本人はあらゆる
 分野で追い詰められるだろう。神や仏が追い詰めるのではない。
 人間自身が、人間みずからがその状況を招き寄せているのだ。

 もう一度述べる。人間が上なるものへ近づこうと努力する。
 だがやはり人間にはそれができない面もある。
 その至らない面に対する許しが仏であり、救いが仏なのだ。
 仏にとって、人間の苦難はまさにほっとけないのだ。
 人間が神なるものへ向かうとき神々は応援し、人間の欠点には仏が救い手を
 差し伸べる。

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● 社会学者の役割

 人間はこの大地を生きている。
 確かにこの世界は欠乏の世界である。
 そしてこの世界をより良いものに変えようと奮闘する。
 
 だが我々はまた人間としてその生を生きている。
 人間にこの世界で生きるという意味を宗教家が知らせる。

 その理解が人々を真に協力へと目覚めさせる。
 大地に生きる為だけではなく、この大地で人間として人間の可能性を展開
 するべく協力しあったときに、マイナスに働く制度や仕組みをことごとく見抜き
 改善していくことができる。

  ローマのような偉大は時代こそ、人間の洞察が学問、芸術のみならずに
 社会全般について広がった。人間が人間らしく生きるために、それを後押し
 する制度や仕組みが随所に儲けられていた。

 社会学者はそれらの仕組みを維持し、またより良い物に変えていく。
 社会学者は、まさに人間の上なる(神なる)部分と、人間の欠点の両面に
 温かい眼差しを投げかけるものである。
 至らない人類には確かに仏が必要であったように人間社会にも社会学者の
 温かみが必要なのだ。

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● 社会学者の役割

 国家や民族などに最終的な目的があるのではない。
 ましてや最適な社会制度や政治制度をもたらすことに意義などはない。
 それらはあくまでも脇役に過ぎない。

 この世界であえて目的を探せといえば、1人1人の一生にこそ目的がある。
 そのことを社会学者は決して忘れてはいけない。

 日々に生きる人々が、人間の可能性を展開できるように人間社会のあり方を
 模索し提案するのが社会学者の役割である。

 時代背景によって求めらる社会の形態は異なる。
 人間の取り巻く環境は刻々と異なる。

 社会学者は
生もの(なまもの)を扱う料理人である。
 魚に旬があるように、季節に四季があるように社会の形態も変化していく。
 一流の料理人が、旬の季節にもっともあった、おいしいものを提供するように
 社会学も刻々と動く社会情勢、人々の価値観にあわせて、人間社会の有り方
 を提案していくことにある。
 正解はない。
 最高の料理も刻々に変化するその瞬間においてだけ存在する。
 どれ程おいしい料理も、同じものが3日も続けば飽きるものである。

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 ● 日本に生まれし未来の社会学者へ

 人間は人間の可能性の展開ばかりに気にかけることはできない。
 生きる為に日々の生活は重要であり、こちらも手を抜くことはできない。
 この大地は、確かに甘くはない。

 なれど日常の生活ばかりに注力して、人間の可能性の展開を見失うことは
 結果的に多くの人々の心の中から、不安と喪失を生み出すことになる。

 なぜなら人間の可能性を展開し、その存在を注視することが、この大地を
 生きた人々に光を当てることになるからだ。

 ただ生活の為に生きている者は、現在にのみ生きている。
 確かに動物は現在にのみに生きている。
 なれど、人間は現在だけでなく過去も、そして未来にも目を向ける存在である。
 それにより、この大地で過去に生きた人々、未来に生きるだろう人々との
 つながりを確信することができるからだ。

 戦後の日本人は、数千年間、この大地を生きてきた人々とのつながりを失った。
 それゆえ、現代の日本人の1人1人の心の中には、満たされることのない
 大きな喪失感を抱えるようになった。
  
 その
喪失感を埋める手段は、人間の可能性を展開することである。
 それを実践出来たときに、初めて
過去に生きた人々の偉大さ
 気付くからである。

 日本に生まれし、未来の社会学者よ!
 君達の仕事が本物ならば、
日本も蘇るだろう!

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の歴史家へ
        稲穂黄金の未来の宗教家へ







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