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『これからの知的生活』
今後の未来の知的生活と
それを味わうための生き方!
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数学の欠点 |
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科学の女王として科学の進歩に大きな貢献してきた数学。
科学・建築・土木・工学などの全分野の発展に寄与し貢献してきた数学。
そんなメリットの多い数学にも欠点がある。ここではその欠点を述べよう。
● 思考は停止している。
数学の証明を追っているときにその思考は停止している。
思考は死んでいるといっても良い。
数学的思考は論理の鎖をたどっている。
そのとき脳は考えることをやめ、階段を一歩一歩無言で踏み進む。
一歩一歩慎重に、階段から足を踏み外さないことだけに注意して進む。
数学の証明の道筋は枯れた道でもある。
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● 感受性も死んでいる
数学が得意だということは上記の思考が死んだ状態を好むことにある。
論理の鎖をたどるとき思考は停止する。
そんな状態を好めば好むほど感受性が欠ける。
芸術的な感受性が豊かな人が数学も嫌うのにもわけがある。
芸術的な感受性がある人が数学に浸ってばかりいれば感受性を
間違いなく殺してしまうのはいうまでもない。
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● 芸術センスはまるでなし
そもそも数学的思考に適しているということ自体、その人の美的感受性
のなさを表現するものとなる。芸術センスはないといえる。
一流の数学者で一流の芸術家などはいない。
レオナルドダビンチは芸術の創作のために科学的な仕組みに興味を
抱いたが、それはあくまでより良い創作を望むための探究心なのであって
実際に数式や物理法則から入るのではなく、イメージ(絵、デッサン)から
入りその根拠を数学に求めていたということである。
あくまで主役は芸術であって、彼は決して数学者や物理学者には
ならなかっただろう、なろうと思わなかっただろう。
心の奥から好きになることはできなかっただろう。
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● 生理的な毛嫌い
よって数学には一種の生理的な毛嫌いがついて回る。
画家や音楽家、果ては創造を有する職業について回る人には
一種の数学嫌いが存在する。
美しい風景をみるときに、美しく表現する彼らの眼が受ける喜びを
脳の思考が邪魔するといえる。計算してどうしてこの世界の美が表現でき
ようか!という素直な思いが数学嫌いにつながっている。
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● 数学活動と音楽鑑賞
そもそも数学者の中で音楽が好きな人がいるならばそれは、あまりにも
数学が美的活動からは程遠い為に、せめて生きているうちは美的世界を
味わいたいという思いが音楽を聴くことに繋がっている。
音楽が慰めとなるのである。
数学をすることがあまりにも美的感受性の機会を奪うので音楽を
聴くことで慰められるということだ。
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● リップサービス
良く大学教授が大学案内のコメントで、数学は美を追及するなどというが
これほどまがいものの発言はない。
数学をすることが美を追求することなど決してない。
真相をいうなら正反対だ。
図形の美しさと数学者の美的センスは別物である。
数学で扱う図形が結果として美しいからといって、それを扱う数学者が
美しいなどということは決して言えないだろう。
まあこれは教授のリップサービスだろう。
芸術のセンスを活かすことのない,その意味では枯れた道をこれから歩む
若者に少しでも華やかに見せてあげたいと思う教授のリップサービスといえる。
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● 文才力のなさ
数学者にはおおむね文才力がない。
文才力は創造力と結びつく必要がある。また芸術的な面も必要である。
一流の数学者で一流の詩人などは見たことがない。
一流の数学者で一流の芸術家など見たことがない。
一流の数学者で一流の小説家など見たことがない。
物書きくらいにはなれるだろうが一流と呼ぶには程遠いレベルである。
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● 1つの例外
そんな文才力、芸術力がまるでない数学者において1つの例外がある。
文才力があり、芸術的センスにあふれていただろう数学者がいる。
その名はレオンハルト・オイラー。
18世紀最大の数学者である。
複素数の分野を切り開いた、オイラーの定理 その人である。
オイラーは数学だけに限らず、あらゆる分野への洞察を備えていた。
もちろん哲学の成果にも敏感に反応した。
数学者には、深遠さという言葉とは、無縁とさえ言えるが
オイラーだけは例外である。彼の洞察力はあらゆる分野に向けられていた。
レオンハルト・オイラー
科学者の中で、オイラーほど、天才カントに鋭敏に反応した者はおるまい。
たいていの数学者は、専門の数学以外には何らの洞察も有さない。
なれどオイラーはまったく違った。
オイラーの洞察力の広がり、深さは、他の数学者を圧倒していた。
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● オイラーの証明方法@
オイラーは数学が、直覚的表象2と抽象的表象の
2つによって形成される事を強く意識した。
もちろんオイラーが活躍していた時代には、ショーペンハウアーが生まれて
いないので、表象と数学に対する明確な認識をオイラーは持つまでには
至らなかったが、それでも強く意識した。
オイラーは数学というものが直覚的表象2と抽象的表象によって作られて
いる事を強く意識した。だからこそ彼の証明は、論理的につめていって、
最後は図形にポンと落とす形で終了させるのだ。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の科学者
』
● オイラーの証明方法A
オイラーの様々な公式は、それを求める段階においても実に美しい。
図形というア・プリオリな認識に最後は帰結させることで、人間の脳は、
その証明に、実によく納得できるのだ。
彼の証明は、わかりやすく、かつ明快であり、エレガントさが漂うのは
これゆえなのである。
いつの時代もオイラーに魅了される数学者が出るのも、これゆえである。
オイラーであれば、数学以外の分野に進んでも、間違いなく一流の書き手、
作り手になったであろう。
彼はまあ、例外である。
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● 老年期の暇つぶし
ざっといままで数学の欠点を述べてきたが、最後に良い面を述べておこう。
数学は老年期の暇つぶしになるということだ。
ゴルフのように年をとってもできるのが数学である。
格闘技は圧倒的な力の出力を要請する。
しかしゴルフは格闘技のように圧倒的な力の出力を要しない。
それと同じように数学は芸術のような神掛った直観や内面の強烈な高揚感を
必要としない学問である。
であるので年をとっても長く楽しめる学問といえるのが数学である。
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