人間の一生
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人間の一生
人間は畜生にも神にも近づける。
人間にはその可能性がある。


 ● 神なるもの、仏なるもの@

 生きとし生けるものは、今、この時を懸命に生きる。
 この瞬間の刹那に獅子は獅子であろうとし、馬は馬であろうとする。
 鳥は羽ばたき大空を滑空する。魚は水の中で縦横無尽に移動する。

 与えられた命が、そのものであろうとする時に命は光輝く。
 人間もまた動物でもある。
 であればこそ、神なるものを忘れることはできない。

 また人間が動物と違うのは、記憶が与えられ、比較が可能になり、学問を発展
 させる知性を有したことでもある。
 動物の脳の上に現れた表象の世界。
 その表象の上に根拠を有して学問を構築した。

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● 神なるもの、仏なるものA

 あらゆる学問は、この表象上に根拠を有する。
 それが我々にとって知性の対象であり学問の対象である。
 人間は、知性を有したからこそ、脳の表象の彼方に仏を見ることも可能にした。
 
人間のみが仏を発見した

 あらゆる生命の上に仏なるものがある。
 あらゆる万物の上に神なるものがある。
 人間は神なるもの、仏なるものの2つを共に行じていく存在である。
                                
国宝の旅』より
   


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● 認識と苦悩

 明瞭な認識を持てば持つほど、比例して苦悩は増大する。
 もっとも明瞭な認識を有する天才になればこそ、苦悩は深い。

 動物には人間ほどの苦悩はない。
 もし仮に、サバンナに生きる動物に人間ほどの認識力があれば、
 多くの動物は自分達の置かれている状況に絶望することだろう。
 他の動物の命を奪わなければ、明日に命を繋げない弱肉強食の現実を前に
 して動物達は耐えられまい。
 自ら命を絶つことを選ぶだろう。

 動物においては知能が抑えられ、同時に苦悩が押さえられた。
 天上の神々が、サバンナに生きる動物に人間並の知性を与えて、
 それでいて弱肉強食の世界のままにいさせるならば、それは残酷である。

 地上において、もっとも苦悩を背負って生きる動物は人間である。
 
認識が増したゆえに苦悩も深い

 なれど、
それゆえにこそ人間は美しくなれる
                                   
世界の美術』より
    
   
この大地の上で人間が生きるという意味を古代人は知っていた。
    確かにこの大地がもたらす現実は、人間にも厳しい。それゆえに人間は悩む。
   なれどその悩みを払拭して、前に進む力を人間は有する。それを
古代人は信じた

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● 仏と慈悲@

 仏は生きとし生けるものに同情する。
 生きとし生けるものの上に慈悲の光を向ける。

 なれど、この世に人間が生まれねば、仏はこの世に現れでることは不要で
 あっただろう。
 人間がこの大地に存在したからこそ仏が現われた。、
 人間の内面から
迷いが生じたからこそ仏が現われた。
 人間の内面から
悪が生じたからこそ仏は現われた。

 人間がこの世に存在せねば、迷う動物など存在しない。
 動物は迷わない。その有り様に忠実にそうあろうとする。
 迷うことのない動物は、それゆえ一生涯を自然の中で懸命に生きる。
 確かに、そこにも神なるものがある。

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 ● 仏と慈悲A

 人間の存在によって迷いが生じ、悪が生まれる。
 悪が生まれるが、またそれだからこそさらなる上なる(神なる)へ進むことも
 悪に染まることも人間は選べる。
 悪の誘惑に屈しても、神なるものを忘れなければ、そこに仏が現われる。
 否、悪の中にまみれた人間の心の中に神が見出したときに仏の救いの手が
 現われる。

 人間は、畜生になることも神なるものになることもできる。
 人間はそれゆえ仏を発見したのである。

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● 動物と人間

 確かに人間も動物である。
 なれども、動物はどこまでも意志に忠実であり、彼らのわずかな知性は、
 すべて、その意志が衝動を満たそうと欲する時に従う。
 
 もちろん、人間でもそうである。
 人間もそれが食べたいと思うから、その知性を使用する。
 その商品を欲しいと欲するから、その知性を使用する。

 なれども人間において初めて、何かの欲求を満たす
以外に認識を利用する事
 が行われた。それが
芸術であり、それが学問である。
 動物は大学を持っていない。動物は美術館を有していない。

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● 意志と肉体

 
動物の知性は、意志に忠実に従う
 獅子に授けられた知性は、草食動物を餌として捕獲することに費やされる。
 また敵から守る為に彼らのわずかな知性は費やされる。

 バッファローに授けられた知性は、草や葉を食べる為に費やされる。
 また天敵から身を守る為に費やされる。

 彼らの知性が、彼らの意志に従うだけではない。
 彼らの肉体もまた、彼らの意志に忠実に従っている。

 獅子の顔を見ればよい。
 彼らの口は、顔全体の2分の1も占める。まさに彼らは餌を食らうために
 顔の半分も占める口を有した。その意志が顔に現われている。
                            『大自然の動物ファミリー』シリーズより
 
    獅子の口の大きさは、2分の1を占める。

    彼らはまさに食らう為にあり、そのままの意志が顔に現われている。

 バッファローの角を見ればよい。
 彼らの角は、頑丈で大きく、天敵を追い払うためにこそ鋭い。
 彼らの頭蓋よりも大きい角を有する。
                                 
カラー動物百科』より
 
 
水牛の角は天敵を追い払うためにこそ鋭い。
 彼らはその角で天敵を
突き跳ね上げる。そのままの意志が頭蓋の上に現われる。


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● 動物の顔、人間の顔

 それに対して、人間に至って、知性が意志に反することがある。
 もちろん人間も動物であるから、その多くは意志に知性が従う。
 なれど、時にその意志を否定して知性が働く。

 
人間の口はあらゆる動物の口よりも小さい
 人間は、食べる為だけに生きているのではない事を示している。

 人間は天敵を払うための角を有していない。
 人間には餌を捕食するための強靭な顎も、鋭い牙も有していない。
 敵を追い払い、獲物を捕らえる為の鋭い爪も有していない。
 人間の生涯が捕食すること全てでないことを示している。

 それゆえ
人間の姿は美しい
 その意志の現れの肉体が、意志のみに従属していないことを示すがゆえに。

 人間の体は、動物のように意志に従っているばかりではない。
 知性が、それらの意志を越えて自由に飛び回る可能性をもつ。

      
          
   青年ダビデ像       ミケランジェロ

 人間の顔には知性の光がある。
 人間が食べる為だけにこの地上に生きるのではないことを暗に知らせる。
 もちろん、人間も動物であり、食べて寝て起きて生活する。
 なれども、それだけでないのが人間である。
 人間の顔には、
意志を乗り越えた知性の輝きを見ることができる。

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● 知性と悩み

 人間は、他の動物に比べて
圧倒的な記憶力を与えられた。
 記憶が過去と現在を比較することを可能にした。
 
 比較が論理の基礎であり、つまりは学問の基礎である。
 知性がまた、人間の取り巻く環境を大きく変えた。

 なれどそれゆえに悩みも増えた。
 動物の記憶力は弱く、
彼らは過去に縛られることはない
 また未来を思い煩うこともない。
 彼らは常に現在のみに縛られている。

 今に生きれる動物達のなんという朗らかさよ。
 人間は、動物を見ると心が慰められる。
 それゆえに古今東西の人々は、好んで動物を飼う。

 人間に与えられた圧倒的な記憶が学問を生んだ反面、
 
人間は過去を忘れがたく、未来を思い煩う
 今に今に、人間は生ききれない。

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● 子供と大人@

 過去と現在を比較することで学問を可能にした人間。
 
 しかしそれゆえに過去の出来事が忘れられずに心が縛られる。
 動物は過去の悲しみで、今の現在を無駄にすることはない。

 過去の出来事と現在を比較することで、未来に訪れる事を類推し、未来に対して
 いらぬ心配を作り上げる。
 人間は、まだ来ぬ未来に対しても思いわずらう。

 そんな人間にとって、もっとも輝ける時代がある。
 
子供時代である。
 彼らには、まだいかなる過去もない。
 それゆえに現在と比較することもなく、未来に思いわずらわさる事もない。
 子供時代の人間は、まさに
エデンの園に住んでいる。

 子供達にとっては、初めて出会う今こそがすべてである。
 過去をもたないゆえに未来を思い煩うこともない。
 子供達は、ただひたすら、目に映る世界の新鮮さに心がときめく。

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 ● 子供と大人A

 この世界が見せる
現実は決して甘くはない
 子供達だけで生き延びれるような世界では決してない。

 大人は、
子供達に早く大人になれとせかす
 確かにこの世界で生き延びるためには大人になる必要がある。
 なれど神々は、そんな危なっかしい
子供を何よりも愛でる
 神々は、この大地をうまく生きる大人よりも、この世界の中に喜びを見出す子供
 を何よりも愛でる。

 神々は、人間の大人に子供の中にある輝きを忘れない事を欲する。
 大人の人間もかつて子供であり、この世界の中に喜びを見出していた。

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● 自然と知性

 人間が、他の動物よりも優れた知性を有するからといって人間が別段、特別な
 存在というわけではない。人間も動物と同じである。

 ある時代には、人間も愚かになり、驕り、何か選ばれた生命のごとくに
 思い上がった時代もあった。
 人間の知性など、たかが知れている。 
 
 そもそも知性など不安定な土台の上にあるに過ぎない。
 知性など意志に比べれば、なんとも頼りない存在である。

 意志は自然が生まれる以前から存在したが、
 
知性は自然が登場してから、だいぶ時を経て生まれたに過ぎない

 ましてや自然は、知性などというものに特別な興味を抱いていない。
 種を保てるように生き物に知性を宿させたが、だからといって知性が優れた
 ものに対して、なんらの興味も抱かない。

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● 自然と意志

 自然の奥にある生きんとする意志。
 この地上に生きとし生けるものにうちに意志がある。

 生ける者達は、この欠乏の世界を生きる。
 これらの者達の中で認識の力が高まった人間は、この世界に仏を見出した。

 その仏によって、この大地に生きる者たちの上に慈悲の光が届く。
 この世界を生きる者たちへの同情があり愛情があり励ましがある。
 
人間は、この大地で仏を見出す役割がある。

 仏を見出した人間が、今のこの瞬間を懸命に生きる動物達のように、
 その生を肯定し、その中に神なるものを見る時、また神は見出される。

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● 思い、悩み、振り払い、進む@

 この地上に生きる人間は、誰もが思い悩む。
 何のために生きるのかを時に考える。
 どのように生きるかを時に思う。

 80年の時を生きてきたときに、その生涯を振り返り、結局、今までの人生とは
 なんだったのであろうかと人間は、思うものである。

 死ぬ直前まで、金や名声や権力を追い求め、その価値を信じて生きれたものは
 
滑稽である。
 そのものは、この地上での生の意味をまるで理解せずに死んだことになる。
 だがそれはそれで、ある面、幸せなのかも知れぬ。

 だが多くの人々は、いずれ気付かざる得ない。
 自分が信じて疑わなかった価値が、もはやこの地上のどこにも存在せず
 ただ、今は自分の
思い出の1ページに過ぎぬ事実に
 気づかざる得ない。

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● 思い、悩み、振り払い、進むA

 現世的な利益の為に追い求め年老いた者がその時になって、ただひたすらに
 ただひたすらにこの生を見つめてきた芸術家の作品に心奪われる事がある。

 その絵は確実に存在するように感じ、自分が歩いてきた歩みを知るものは
 自分だけに過ぎないことを実感する。
 
 なれども、これらの感慨はあらゆる人々が思うものである。
 あなただけがそう思うのではない。
 人間であれば誰もがそう一度は思うのである。

 この世界は移ろいゆく。
 人間が普遍的な価値だと決めたことさえ、あっというまに移ろいゆく。

 何が良くて、何が悪いなどとは決めかねる。
 前などまったく見えない。手探りで進む以外にない。
 どの一歩も同じ一歩であるならば、力強い一歩を踏もう。

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● 偉大な人々の足跡

 かつて、この大地の上に存在した偉大な者達も、この世界には存在しない。
 釈尊も老子も孔子も空海も最澄もイエスも皆、この大地から離れた。

 どれほど偉大な者であっても、生まれるものには、やがて死が訪れる。
 彼らも与えられた今の瞬間、瞬間を大切に生きた。

 彼らは我々に何を残してくれたのか?
 それは
人間の可能性である。

 偉大な者達の足跡は、彼らが偉大であることを知らせる為にあるのではない。
 そうではない。
 
人間の中に偉大さがある事を知らせる為にある。

 偉大な者達の有り様は、我々人間1人1人の中にも見出せるものである。
 そうでなければならない。
 その事を、今に残された我々は託されている。

 人間は、いつの間にかそれらを忘れてしまう。
 人類がそれらを忘れた時に、それを知らせる為に、偉大な人々は現われる。
 この地上に現われる。

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● 人間の可能性@

 
人間は畜生にも神にも近づける
 人間にはその可能性がある。
 古代に存在した偉大な文明は、まさにそれを証明する。

 確かに人間は救いがたい。
 人類の大部分は、迷妄と愚鈍の内にある。
 多くの悪が人間の内部から発せられ、人間自身が多くの問題を作る。
 
 我々が生きる大地もこれまた救いがたい。
 あらゆる所に欠乏が見え隠れして、あらゆる所から争いがおきる。
 それらに勝利することは、単に存続することでしかない。
 そうやって何とか勝利を続けても、いずれ死が訪れる。
 まるでそれらの勝利を帳消しにするかのごとくに死が訪れる。

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 ● 人間の可能性A

 
救いがたい人間が、救いがたいこの大地を生きる
 いずれ全てが灰となりチリとなろうが人間はこの大地を生きる。
 人間が人間の可能性を信じるかぎり、人間が生きたという痕跡は消えない。
 この大地の上に残された人間の痕跡を、人類が受け止め続ける限り、
 その痕跡は消えない。

       

 一歩一歩と前に進む時に、確かに我々は神に近づいている。
 人間のその中にこそ神を発見し、仏を発見できる。
 人間のその中にこそ神がいて、仏が存在する。

 人間を越えた世界への入り口は、確かに人間の中にこそ発見される。
 そう古代の人々は信じていた。

 天上の神々と大地の神々への光を浴びて、仏の慈悲に触れれるもの。
 その可能性を人間は有している。
 古代の人々はそれを信じるだけの力を持ち、それを信じる勇気を持っていた。

                マルクス・アウレリウス 古代ローマの哲人皇帝(121〜180年)
              
                                  『自省録
            ” 宇宙の
自然とは何であるか。
             私の
内なる自然とは何であるか。
             後者は前者とはいかなる関係にあるか。
              それは
いかなる全体のいかなる部分であるか。”

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