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『大企業の経営者の話は聞かない方が良い16の理由』
大企業の経営者は彼らの経済的成功がこの世界に適合していると考える。本当は資本主義に適合しているに過ぎない。
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歴史の欠点 |
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歴史にも欠点がある。それは学として不充分であることだ。
その不十分さが歴史学に誤解をもたせ、あらぬ方向へ人を導かせる。
● 半人前の歴史学
学問と名がつくものの中でもっとも正当性をもたない学問が歴史学である。
歴史学は学問として成立できない。
というのも学問はある根拠を元に、そこから論理の鎖によって展開される。
論理の鎖によって形づくられ、繋がれて1体系を形成する。
歴史学には最初の根拠が存在しないのだ。
また根拠を想定しても、論理の鎖が存在しないのだ。
歴史学は学問としては半人前なのである。
もちろん経済学のように不安的な基礎を持つものもあるが、それでも近代の
経済学は資本主義下という前提の上で何とか学問としての体裁を整えてきた。
もちろん経済学においてはその基礎が良く揺さぶられるが。
これに引き換え歴史には体系付けを行う為の土台がない。基礎がない。
仮に土台があったとしても、そこから導かれる論理の鎖がない。
歴史にできることは、ある文明とある文明を比較をして、その差に注目すること
などに限られる。後はこういう事実があったということになる。
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● 歴史の価値
歴史学は、不安定な土台しかなく、変化する理由を探しても推測の域をでない。
どういう根拠でそのようになったかを言い尽くすことなど不可能である。
学問であれば、時間を超えてその研究成果が現在にも生かせるもので
あるが、歴史においてその時代により評価は異なり、過去に辿り付いた
認識が実は現代では正反対であることなどしばしばである。
その意味で歴史は時代、時代によって塗り替えられていくとさえ言える。
しかし、いつの時代でも歴史(学)が他の学問と同等に並んでみなされるのは
歴史が我々人類の共通の意識を扱うからである。
歴史によって我々は過去の人間とも共感できる。
この理由により、この理由のみが歴史が他の学問と並べられる理由である。
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● 目的論に走りやすい歴史学
学として成り立たたない歴史をそれでもひとつの学問として作り上げることは
できないだろうかという欲求は昔から多く存在する。
そう思いたい気持ちはわからないではないが、これはできない相談である。
歴史は過去についての解説に過ぎず、未来に向けて何か対応できる確実な
ものを1つも含んでいないからである。
未来に何が起こるかは誰にも予測できないし、仮に予測できたとしてもその
対処は非常に難しいからである。
これに比べると科学は正確無比さを発揮する。
同一の条件下において起こりえる現象は、条件が整い次第が確実に起こる。
世の中のあらゆる工業製品、機械、電子機器の存在は、現象の正確さを基礎
にする科学によって成立する。
これに比べると歴史は未来に対して確実にこうだと言えるものを含んでいない。
歴史を学問と打ちたてたい欲求は、人々を目的論に誘いやすい。
この世界に何らかの目的があるならば、歴史も学問として体系づけることが
可能ではないか!?ということが頭に浮かびすい為である。
そうしてまったく才能のない学者連中が、目的論に凝り始めたのだ。
この世界には目的などはないのに、目的があることを前提に語り始めて、
今日はあの目的明日はあの目的と迷妄の学者連中が騒ぎ始めた。
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● 最終目的論を語る愚かな者達@
いつの時代も愚かな者達は最終目的論を語る。
この世界には目的があって、最終目的地がいつの日か訪れると考えるのだ。
このように考える者たちの多くは文科系出身者に多い。
自然科学の素養がまるでない連中である。
自然科学の知識が少しでもあれば、この世界に目的があるなどという
考えを抱くことなどなくなる。
事実、この世界に目的はない。
仮にこの世界に目的があることを前提に考え始めた場合、おかしい点が次々
と浮かんでくるものである。
自然科学を学んでさえいれば、以下の問いが当然のように出てくる。
@その目的をもたらす要因は何か?
A何ゆえ、その要因は時間の形式に沿って進むのか?
B仮に最終目的を達した暁には、その後、作用は何を意味するのか?
その目的に向かわせる要因(原因)は何であろうか?
という問いがまずあってしかるべきである。
さらに何ゆえ、その目的が時間の経過に沿って達成されるのは何ゆえか?
という問いもでてきてしかるべきである。
最終目的地が訪れた後に作用し変化したものは何を意味するのか?
という問いもあってしかるべきである。
最終目的地を想定するのは勝手だが、その最終目的地が来た時にそれ以後
は何の変化も許されなくなる。なぜなら、最終目的の後に作用したならば
それが新たな最終目的になるだろうからである。
この世界に最終目的を掲げれば、その最終目的が達成された暁には、
この世界には何の作用も起きてはいけないことになる。
氷のような世界にでもなれ!ということか。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の浅はかなる者達
』
● 時間と物質@
自然から真摯に学んでいるものは、物質が直接、時間の影響を受けない
ことを肌で感じ取る。自然から学ばなくても科学的知識、科学の実験を通して
物質が時間の影響を受けないことを理解する。
物質の変化は、時間の経過より起こるのではなく、ある作用によって
現象が発動することを嫌でも理解する。
物質は時間の経過などに直接、影響を受けない。
物質が影響を受けるのは、あくまで作用(原因)に対してである。
物質は作用によって変形、変化する。
仮に作用がなければ、物質はそのままの姿であり続ける。
100年でも1000年でも、一万年でも、時間の経過などまったく気にせずに
物質はそのままの姿で有り続ける。
物質は作用(因果)によって変形変化する。
これを否定すれば科学など成り立たない。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の物理学者へ
』
『 稲穂黄金の未来の科学者へ
』
● 時間と物質A
自然科学の知識がない文科系の者達の多くは、それが理解できない。
時間が経過すれば物質は勝手に変化すると考えるのだ。
だからこういう連中は直ぐに時間に期待する。
時の経過が何かを生み出してくれると考えているのだ。
こういう連中にとっては10年よりは100年が、100年よりは1000年
が何かしらの効果があると考えるのだ。
この間違った考えから発しているのがユートピア論者である。
時間の経過に期待するから、時間の流れに沿ってこの世界は目的に向かって
進んでいくと考え始める。そうしてその要因として絶対者や神、絶対精神や
絶対理性などというものを想定して、成し遂げてくれると考える。
物質は時間の影響をまったく受けないのに、これらの絶対者、絶対精神は
時間に影響を受けて何かをもたらすらしい(笑)。実に愚かな考えである。
迷妄であり愚鈍であるから、基礎的な真理にさえ気付かない。
人類の大部分は迷妄と愚鈍の内にある。
しかしそれ以上に日本の大学哲学は酷い状態にある。
いまだにこの世界には絶対精神があって、その精神が示す方向へこの世界は
進んでいると考える連中がいるのだ。
こんなことを語る大学教授がまだいるのだ。
その数も決して少なくないのである。
皆、自然科学の基礎が欠けた者達ばかりである。
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● ユダヤ的世界観と歴史学者
学者の中に、歴史を学問として何とか一人立ちさせたいと思い始める者がでる。
この世界には目的にあればそれも可能ではないか、歴史学として形になるの
ではないかと思うようになり、挙句の果てに目的論に飛びつくのだ。
こういう連中は、各自その目的を夢想する。
ある者達は、その最終目的をユートピアの到来と考える。
ある者達は、より適した経済制度や社会体制の到来だと考える。
ある者達は、何かしらのイデオロギーに沿った体制の到来だと考える。
目的の世界像が個々で異なるだけで、共通に目的論が宿っている。
こういう連中が神の意図や絶対者の思惑、絶対精神などを充てにするのも
その目的が何ゆえに遂行されるかの説明に困るからである。
こういう連中ときたら、真剣に考えることをせず、また考える力もないから、
自分達に一番都合が良い、絶対者を直ぐに持ち出してくる。
こういう連中がシンパシーを感じる思想こそ、ユダヤ的世界観である。
この世界に目的論を見出す輩の頭の中にはユダヤ的世界観が宿っている。
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● 宗教と歴史学者
ヨーロッパにおいて絶対神を掲げるキリスト教指導者層にとって、歴史に
目的を見出す目的論者の主張はなんとも都合の良いものであった。
目的論を語る歴史学者の話を聞いた宗教関係者は小躍りして喜んだ。
この世界は絶対者によって作られ、すべての営みが神によって計画されて
いると考える一神教の宗教指導者層には打ってつけの歴史学となった。
一時、宗教指導者層と歴史学者が手を結んでいた時代があった。
しかし現代においてその迷妄の霧も晴れようとしている。
そこには、やはり近代の科学者達の頑張りがある。
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● 近代学者の見識の低さ@
つい近年も『歴史の終わり』という本を書いた学者がいる。
その著者が言うには、資本主義と民主主義をもって社会の形態はそこで
終わりといいたいようである。
なんとも浅はかな考えである。
まるで人類が資本主義や民主主義などの経済制度や社会体制を
生み出す事を目的に、この世界で生きているといわんばかりである。
確かに快適な環境は重要である。
衣食住が整えられることは軽視できるべきものではない。
だが人間はより適した社会制度や経済制度などを一番に考えていない。
だからより良い社会制度をもたらすことを目的になどしていない。
人間は食べる為だけに生きているのでもない。
人間は快適な環境を手に入れる為だけに生きているのではない。
この著者にはまるで以下のことが目に入らないらしい。
いかなる時代でも人々は、神を求め、宗教を求めてきたこと。
多くの人々が釈尊やイエスを真に慕い、その人の下に集っていること。
学者である以前に、この地上を生きる人間としての意味を知ることが大切
なのだが、近代の多くの学者には、そのことがまるで理解できないようだ。
また、さらにいえば資本主義で経済体制が決着するどころか、資本主義は
21世紀中盤以降にゆっくりと、しかし着実に衰退し始める。
22世紀には資本主義は完全に姿を消すことになる。
資本主義の原動力の部分が力を失うからだ。
19世紀以降、急速に世界に広がり始めた資本主義も、22世紀になると
いよいよその役目を終えるときがくるのだ。
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● 近代の学者の見識の低さA
学者であるから、ある仮定のものと学説を考え、主張を展開するということは
あって良いことなのだが、近代の学者の多くが、あまりに本質を見失って
いる感があるのは否めない。
古代ローマや古代エジプト、古代ギリシャの偉大な文明において、資本主義
という言葉すらどこにも見つけられないというのに、その偉大な文明に遥かに
劣る近代がもたらした資本主義が、経済体制の終局であるなどと良くも言えた
ものである。効率的に稼ぐことを基準に経済の価値を測っているのか??
まあ、そう考えたいのなら、そう考えてもそれはそれで良い。
もっともこの著者の考えが浅はかだと思えることは、我々人類の歴史が
より良い社会体制や経済体制を得る為にあるのだといわんばかりにある事だ。
資本主義や民主主義は、確かに先人達の多くの経験と大きな努力を経て
確立されてきた。それは否定しない。
なれど、人類はより良い政治制度や、より快適な社会体制を得ることを
第一の目的に生きているのでは決してない。
人類にとって政治制度や経済制度などの優劣は本質なことではない。
だから他の優先的な理由により、政治制度や社会制度、経済制度などは
簡単に変化することが起き得るのだ。
民主主義や資本主義であっても例外ではない。
なにげない理由で簡単に変化し、消滅するものである。
歴史を見れば宗教的な面に第一の意義を見つけて、経済や政治が二の次で
あることなどたくさんある。
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● 外的環境に救いを求める近代の学者@
ここ200年間の学者の見識の低さには呆れることが多い。
こういう連中ときたら、人間は外的な環境によって救われると考えている。
ある学者にはその外的環境が政治体制であったりする。
ある学者にはその外的環境が社会制度や経済体制であったりする。
人間の外に救いを求める連中は、さまざまな環境に期待する。
そうしてこういう連中はいずれ、多かれ少なかれ最終的な完成品を夢想する。
ある者にとっては”完全な政治体制”
ある者にとっては”完璧な法制度”
ある者にとっては”最高に効率的な社会”
そしてある者にとっては”歴史の終わり” となるのだ。
だいたい最終形の完成品≒ハッピーエンドストーリーである。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の社会学者へ
』
● 外的環境に救いを求める近代の学者A
これらの浅はかな学者連中ときたら、外部環境の充実が人間を救うと
真剣に考えている。そう考えているからこそ、その目的達成の為に人類が
存在するのだとさえ考える。
こういう学者連中は、偉大な文明から何を学んでいるのだろうか!?
歴史上の偉大な文明、例えば古代ローマにあって、古代ローマ人の多くも
経済的な富や快適な環境は好みはした。
だが、それらが人生の目的だと考える人間はほとんどいなかった。
古代ローマ人も経済的な豊かさを天の恵みと好んだが、それを得るが為に
人間の人生があるなどとは考えなかった。
仮にそうだと考えていた人間がいたならば、そういう人間は古代人の間では
確実に軽蔑されていただろう。
古代の人々にとって、人間を救うものが外的な環境にこそあるのだと
考える者はいなかった。それだけの明確な意識があった。
救いは人間の内部にこそあると信じていたからこそ、あれだけ人間を美しく
彫刻で表現することが可能であったのだ。
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● 古代ローマ人に笑われる
”政治体制や社会体制を求めることが人類の目標” などということを
古代ローマ人が聞いたならば、皆、腹を抱えて笑うだろう。
古代ローマ人A 『 未来人は、どうも、より良い社会体制を求めることを人類
の最終的な目的にしているらしいぞ!』
古代ローマ人B 『 何だって? そんな馬鹿なことはさすがに考えまい!
聞き間違えではないのか? 』
古代ローマ人A 『 いやいやどうもそうらしい。
何でも民主主義とか、資本主義とかの社会体制や経済体制
を第一にして世が進み、それを持って歴史の終わりと
考える連中がいるらいぞ 』
古代ローマ人C 『 ははは(笑い)、それはまことか?
そこまで我々の子孫たちは堕ちたのか!』
古代ローマ人A 『 嘆かわしいが、どうもそのようだ!
ところでB君、君はこのことについてどう思うかね?』
古代ローマ人B 『 う〜ん。私はこう言いたいね。
人類の目的とは、愛の成就だと! 』
資本主義や民主主義を持って”歴史の終わり”などという話を古代の人々が
聞けば、腹を抱えて笑うことだろう。
しかし、そういうことを未来の人々が真剣に語っているなどと聞けば、古代人は
あっけに取られ、未来の人々の先行きを真剣に心配するだろう。
未来の人々は、そんなことを人間の生きる意味だと把握しているのかと。
この世界で生きる我々人類は、いつの時代も救いを求めきた。
あらゆる場所で、多くの人々は救いを求めてきた。
なれど、その救いは我々の内部にこそ求められるべきことは皆、知っていた。
古代の人々の中で、救いが我々の外部にあるなどと考えるものはいなかった。
(ユダヤ人を除いては)
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● ユートピア論者とイエス・キリスト
外部の環境によって救われようとする者はユートピア論者となる。
なれどイエスは、人々にユートピアを心待ちに待ちなさいなどということを
一言でもいっただろうか?否である。
イエスはこう言ったのだ。
『汝、隣人を愛しなさい!』と。
救いは外部にあるのではなく、あなたの心の中にあるとイエスは述べた。
遠い未来の楽園に夢をはせるのではなく、あなたの人生の今において、
現在のこの瞬間において、愛を示すことの大切さを教えた。
あなたの、その今の中に意義があるのだとイエスは教えたのだ。
その愛の力が他を救う力になることをイエスは知っていた。
イエスの生涯そのものがまさに愛であった。
人間の外部に期待を抱く者、つまり天の楽園を夢見る者がイエスに訪ねた。
『 天の父の姿はどのようなものなのでしょうか?』と。
それを聞いたイエスは驚き、また少しがっかりしてこう述べた。
『 あなたは私の中に天の父の姿を見ないのですか?』と。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金のイエス・キリスト
』
● 釈尊とイエス
釈尊もイエスも世界中の人々から常に求めれてきた。
人類に多大な影響を与え続けている。
そのことは未来の歴史家が忘れてはならないことだ。
その釈尊が民主主義などという言葉を一回でも使っただろうか?
そのイエスが資本主義などという言葉を一回でも使ったであろうか?
否である。
これほど人類をとらえて離さない人々が資本主義も民主主義の言葉を
使っていないのである。資本主義や民主主義などの経済体制や社会体制を
もたらすことが、我々人類の歴史などと思うこと自体、浅はかである。
人類はより良い、政治体制や経済体制を目的に生きているのではない。
真に学ばない連中は、どうしてもこのことがわからないらしい。
釈尊はその当時誰よりも裕福であった。釈迦族の王子として誰よりも外的な
環境に恵まれていた。なれどそんな釈尊の心に苦が経ち現れてきた。
その当時に手に入れられる商品を手に入れることが釈尊には可能であった。
だがそのような外的な商品や物、サービスでは決して取り除けないものが
あることを釈尊は知ったのだ。
外的にどれ程恵まれようが、心の奥から欠乏が近づいてきた。
人間がもたらしてきた商品が人間の心を救うことなどはできない。
だからこそ、釈尊の歩んだ道は、王子として国家を富ませることなどとは
まったく別の道であった。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の釈尊
』
『 稲穂黄金のイエス・キリスト
』
● 歴史を揺り動かすもの
確かに経済的に貧しいよりは、経済的に豊かなほうが良いだろう。
名声もないよりは有ったほうが良いとも言える。
権威もないよりはあったほうが良いとも言える。
空気で腹が満たされるわけでもないのは確かである。
快適な環境はないよりはあったほうが良いだろう。
だが我々が歴史を学んでいて、我々の心を捉えて離さない出来事は、
そのような豊かさや快適さからはほど遠く、反対に多くの困難な出来事の中で
当時に生きる人々がどのように思い、考え、行動し、対処したかである。
幸福な生き様を調べるよりも、苦難の中で決断し行動した姿に心打たれる。
歴史を学ぶことは、時間を超えて永続する何物かがあることを肯定することを
感じることにある。
つまり生と死を越えても存在する何かがあることを過去に生きた人間から
学ぶのである。
時代時代の億万長者の話など後世にはまったく残らない。
裕福で幸せなお金持ちの人生など誰もが興味を抱かない。
反対に魂を削って書き上げた作品を生み出す作家や、自然の息吹が残る作品
を作り出す芸術家の生涯については誰もが知りたいと思うものなのだ。
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● 人間の本質と歴史
何かの政治体制や、科学の発展で人間は満足がされることはない。
満足できる考える連中が、民主主義で歴史が終わりだとか、資本主義で
目標を達成したなどと考える。
こういう者達はまるで人間の本質がわかっていない。
この地上で人間が生きる意味について何らの予感も持ち合わせていない。
人間は、最善な政治体制や経済体制によって救われる何者かではない。
もちろんそれらのものは大事でないとは言わない。
おいしい食べ物も、快適な住まいも重要であるし、軽視できない。
しかしどんなにおいしい食べ物であっても三日三晩同じものを食べ続ければ
飽きが来るものである。
同様に、どれほど最善に見えた政治体制も経済体制にも飽きが訪れるものだ。
外的な環境が人間の心を救うものではないからこそ、それらの経済体制や
社会制度などが何気ない理由で、簡単にひっくり返ることがあるのだ。
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● 歴史家が残すもの
いつの時代も人々が歴史家に求めてきたものがある。
それは人間が元来から内面に有するものにある。
人間の情熱であり、行動であり、勇気であり、愛である。
肉体を有してこの地上に生きた人間の姿を伝えるもの、その名は歴史家。
我々が過去の偉大な文明の遺跡や建造物、芸術作品に出会うときに感じる
懐かしい感情は、人間の真の生き様を見せてやるのだという古代の人々の
想いをそこに発見するからである。
歴史から真に学ぶものは孤独ではない。
この大地を生きた人間の存在を知るからだ。
歴史家が遠い過去と現代を結びつける役割を果たしたとき、同時にこの時代
に共に生きる人々の横のつながりを結びつけることができる。
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