歴史の本質  その主役はあくまで人間である。どのような環境でも人間が人間として生きたことを伝える。
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大企業の経営者の話は聞かない方が良い16の理由
大企業の経営者は彼らの経済的成功がこの世界に適合していると考える。本当は資本主義に適合しているに過ぎない。
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歴史の本質
 歴史とは人類全体の共通の意識である。
 この今の、只今の瞬間の中に、永遠に通じる世界を見るからこそ、人間は歴史
 を語り伝えようと欲するのだ。

 
● 歴史の意義

 歴史の意義は以下にある。

 この大地で生きた人々が人間として生きたということを伝えること。

  この世界に生きる人間がいかなる想いで生きていたのか?
  人間がこの世界といかに対峙してきたのか?
  人間が何を大切にして、どのように生きてきたのか?


 それが歴史の意義である。

 歴史を学ぶことは、過去に存在した人々が様々な困難にあいながら
 時に勇敢に、時に臆病風に吹かれ、時に信じられない程の偉大さを発揮して
 生きたのだということを理解することにある。


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● 歴史と環境①

 歴史家とは、時間を超えた人々の思いを今を生きる者達に届けることにある。
 歴史家の語る物語は、今を生きる人々の励ましである。

 
時代時代によって人間を取り巻く環境は異なる。
 干ばつに襲われ、貧困にあえぐ時代もある。
 戦によって命が奪われ、人々の間に多くの不信感が充満する時代も多くある。
 その結果、社会的な価値観すら大きく変化したりもする。

 しかし、どのような環境であれ、その中で人々が困難を受け止め、決断し、
 対処して生きたことを歴史が教えてくれる。歴史は、過去に生きた人々が
 その時代にどのように生きたかを伝えることにある。
 歴史家は人間の真の姿を伝えるのだ。

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● 歴史と環境②

 歴史家は、時代、時代の人々の取り巻く環境を伝えはする。
 だがその
環境の差異を伝えることを目的にしているのではない。
 環境の差異はあくまでも脇役である。

 時代ごとに社会体制、政治体制、軍事体制、経済体制は異なる。
 様々に異なる環境の中で人間が何を大切に想い、考え、実践してきたかを
 伝えることが歴史の主たる意義である。

 その事が主目的ある。それがあった上での環境の差異なのである。
 それがあるからこそ環境の差異を伝えることに意義がある。

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 ● この世界と人間①

 いつの世にも多くの貧困があり多くの憎しみが存在する。
 また反面、豊かさもあれば、人々とのつながり(=絆)もある。
 時代によって人々の取り巻く環境は大きく異なる。

 経済的に豊かな時代にも多くの不条理がある。
 現在の21世紀ももちろん例外でない。

 科学が未発達な時代にはさらに多くの不条理があり不便さがあった。
 だが21世紀の現代では決して味わえない、濃密な人間関係や神への敬慕
 があった。 確かに時代によって人々の取り巻く環境は大きく異なる。

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● この世界と人間②

 
いつの時代にも多くの困難があり問題がある。確かにそれはそうだ。
 我々が生きるこの世界は、そのような面を持つからだ。

 人間が救いがたいように、この世界も救いがたい。

 救いがたい人間が、救いがたいこの世界を生きる時、それでもそこに
 人間の尊厳を発見すること。そこに人間の可能性がある。

   時に笑い、時に歌い、時に慈しむ。
   時に憎しみ、時に戦い、時に悲しむ。
   時に探求し、時に創作し、時に祈る。


 様々な苦難や環境の中で、それでも人間が人間として生きたこと。
 尊厳を持って生きたこと。苦しみながら決断し、その結果を受け入れたこと。
 その証を後世に述べ伝えること。それが歴史家の仕事である。


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 ● 不毛な議論=『歴史は繰り返す』①

 
歴史は繰り返す、繰り返さないという議論がある。
 学者の間で、しばしばそのような議論がなされる。
 これほど
不毛な議論もない。的外の議論である。
 そういう議論自体に歴史の本質は含まれてはいない。

 その議論は以下の話と大筋で代わりがない。
  テーブルの上に、ケーキ紅茶がおいてある。
   テーブルに座った彼は、どちらを
先に口に入れるか?

 誰でも想像がつくだろうが、上記の彼が喉が渇いているならば、
 先に紅茶に手をつけるだろう。
 既に飲み物を飲んできたならば、ケーキから口をつけるだろう。
 甘い物を食べてきたならばケーキと紅茶の両方に手をつけないかもしれない。

 それでも彼が甘党ならば、ケーキから食べ始めるだろう。
 反対に彼が甘い物が苦手ならば紅茶に口をつけるだろう。

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 ● 不毛な議論=『歴史は繰り返す』②

 つまりこの話は、原因とその取り巻く環境が一緒ならばある程度、結果が
 予測できるという程度の話に過ぎない。

 彼の
性格と、彼の取り巻く環境により、彼の取る行動
 ある程度、予測できるということにしか過ぎない。
 それ程度しか言う事はできない。

 『歴史は繰り返す、繰り返さない』ということは、この話とまったく同じである。

 性格が動機(
原因)であり、環境が条件(作用)であり、とった行動(結果)
 ということになっている。
  彼と良く似た性格の持ち主が、同じ状態(条件)であれば、紅茶とケーキの
 どちらかを先に選択する行為は合致する可能性は高い。

 歴史の中でも類似した行為は確かに見られる。
 それもそのはず、いかなる時代の人間も同じだからだ。
 恐怖心もあれば、勇敢さも兼ね備えている。
 人間の性(さが)は時代を越えて共通である。

 しかしだからといって、まるっきり同じ人間は生まれない。
 また全てが同じ環境も2度と有り得ない。
 似た人間、似た環境があったとしても、異なる部分は存在する。
 そして、わずかな違いが、まったく正反対の結果を生むことだってある。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の物理学者へ


 
● 因果と歴史①

 川の上流のある場所から、葉っぱを流して、その葉っぱが下流のどのあたりに
 辿り付くかは予測できない。現代科学ではお手上げである。
 さらに、2回目、3回目とまるで同じ場所に葉っぱを投げ入れても、葉っぱが
 辿り付いた場所はバラバラなことが多くある。

 同じ状況で同じ条件であれば似たような結果になる可能性は高まる。
 なれどこの世界の複雑な因果の系は、そのわずかな差がとんでもない違いを
 生み出すことさえある。
 
ほんの少しの差が180度違った結果を生むことになる。

 確かに全ては因果で繋がっている。
 なれど、その複雑に入り混じる因果の系を人間の目で捉えることは極めて
 困難であり、人智では不可能であるとさえいえる。

 歴史もこれと同様である。
 人間が同じ動機によって、同じ行動が起こしても、もたらされた結果は大きく
 異なる。取り巻く環境が異なるからだ。
 また環境が同じだとしても、今度は人間の性格が異なり、結果が異なる。

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 ● 因果と歴史②

 歴史の流れは、川の上に落とした葉っぱが辿る軌跡を予測する以上に
 掴みがたいものである。

 川を流れる葉っぱあくまでも
作用=反作用が成り立つ世界の話である。 
 無機物の世界の話である。
 されど人間の行動は
作用≠反作用の世界の話となる。
 有機物の世界の話となる。
 無機物の作用=反作用の制限を越えた世界が有機物の世界には存在する。

 この世界では様々な因果が絡み合い、影響しあって次の世界の出来事が
 決定される。それら確かに因果の鎖に繋がれていて、次の事象を決定する。
 もたされる結果は様々に異なる。

 世の中の流れは
予測困難である。

 歴史は繰り返す、繰り返さないとの話をしばしば語っている者達は、
 この葉っぱのたどり着く先がまったく同じになるか、ならないかを永遠に話して
 いるようなものなのである。まあ、不毛な議論である。
 またそのこと自体、歴史の本質に触れる話でもないのだ。

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● 歴史を学ぶことの意義

 歴史から学ぶことで、その知識が現代において役立つことは確かにある。
 歴史を知ることは、長い人類の中での人間の叡智と可能性知ることになる。

 だからいって歴史を学ぶことで、現在や未来に対する万全の対策を得られるか
 というとそうはならない。

 どのように歴史から学んだとて予想もできない理由で国は衰退し滅びもする。
 過去に存在した多くの国々は
歴史に学ばなかったから滅んだのではない。

 歴史に学んだがゆえに歴史に飲み込まれることさえ多々ある。
 歴史を学ぶことは、未来に対する充分な予防策とは成りえない。

 
現在に対応する術(すべ)は、現在の中に回答の萌芽があり、
 それは現在を生きる人々に常に投げかけられている。

 歴史からそのことを学ぶのだ。


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  * 歴史を学んでいても確かに、国家は滅んでしまう。
    だからといって歴史から学ばなくて良いということにはならない。
    歴史から学ばない国はすぐに滅びることとなるだろう。


 ● 歴史に目的などはない

 当たり前のことを述べるが、川に投げ入れた葉っぱは、ある目的地を
 目指してそこに辿り着いたのではない。

 様々な要因によって、ある事象がその結果としてもたらされるのであって
 その
結果の為に原因が用意されているわけではないのだ。
 当たり前すぎるほど当たり前のことを述べている。

 これと同様に
我々人間の社会形態や国家のあり方もある目的地
 を目指してそこに進んでいるわけでは決してない。


 時代ごとの人々の判断や周囲の環境が様々に混じりあって、まるで偶然の
 ごとくに次の事象が決定され、社会の形態が変化していく。
 それがどういう形態になるかは、実際のところ誰にも分からない。
 人智の及ぶところではない。

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● 迷妄な者達とこの世界

 単純で迷妄な者達の多くは、すぐにこの世界に期待する。
 そうしてこの世界が何らかの目的をもって進んでいると考え始める。
 つまり
この世界には目的があると誤信するのだ。

 一部の者達は優れた国家に至ることがこの世界の目的だと考える。
 一部の者達は理想の楽園に至ることがこの世界の目的だと考える。
 一部の者達は、何がしかの思想(イデオロギー)の実現が目的だと考える。

 これらの浅はかなる者達は、すぐにこの世界に期待する。
 この世界に目的があれば嬉しいな!と期待するのだ。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の浅はかなる者達
        稲穂黄金の未来のユダヤへ



 
● 歴史家の目①

 この世界に生きる我々人間は、様々なことに期待し目的を持つ。
 それも致し方ない面も確かにある。この世界は救いがたい面をもつからだ。

 ある者達は
国家や民族に意義を見出す。
 命と隣合わせの軍人の中には、これに該当する人が多数いることだろう。

 ある者達は
宗教団体などの特定の団体に意義を見出す。
 己の中に潜む、苦しさや葛藤から救いだし、生きる意義を見出してくれた
 宗教団体に忠誠を尽す信者も数多く存在するだろう。

 
主義・主張やイデオロギーに意義を見出す者もいる。
 貧困や無目的、他人との喪失感の中で喘いでいた人が、デモや暴動の中で
 仲間とのと一体感を得られた喜びが、その主義・主張を支える原動力となり
 活動を続ける人もこれまた多い。

 
ユートピアに意義を見出す者もいる。
 彼らの絶対的な拠り所である絶対神の意向に少しでも沿う為にユートピア建設
 を待ち望み、祈る人々を過ごす人々も世界中には数多くいる。

 確かにこの世界に生きる我々には国家、民族、宗教団体、特定の団体、
 主義主張、イデオロギー、ユートピアなど様々なものに目的を見出す。

 それも致し方ない面もある。確かにこの世界は救いがたい面をもつ。
 しかし
真の歴史家は以下のことを明確に伝えることにある。

 理想的な国家建設や強大な国家、イデオロギーに沿った社会制度創設や
 ユートピアの建設、これらものは、この世界の目的などでは決してない。

 この世界の中で敢えて目的を見出すのだとしたら、それは我々の内部にある。
 
我々1人1人の人生の中にこそ目的が存在する。
 この世界の中で目的を見出すならば、それは人間の一生の中に存在する。

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 ● 歴史家の目②

 滅び去った国々には確かに優れた社会制度や政治制度が存在した。
 なれどそのような社会制度や政治制度に真の価値があるのではない。

 国家が衰退し、滅びるまさにその中においても気高く生きた者達。
 罵詈雑言、憎しみが満ちる地にあっても慈悲と愛の生涯を貫いた者達。
 不安や苦しみに負けずに、勇気を持って進んだ者達。

 我々は、歴史からその事実を知り、心から
共鳴するのだ。
 1人1人の人間の生涯にこそ価値が意味があることを知るのだ。

 この世界に目的を見出すならば、それは我々1人1人の一生の内に存在する。
 1人1人の一生の中にこそ価値があり目的がある。

 自然はこのことを素直に我々に教えてくれる。
 今年の夏に生まれる昆虫は昨年に生まれた昆虫と何ら変わりはない。
 100年後の夏に生まれる昆虫も同様だ。
 100年後に生まれた昆虫が、自分達は特別な昆虫だと考えたならば
 なんとも滑稽な話である。

 100年前の昆虫も100年後の昆虫も、今を生きる昆虫と同じ昆虫である。
 それらの昆虫が過ごす環境は毎年若干、異なりはする。
 台風が頻発し、波風に襲われる年もあれば、晴天に恵まれる年もある。

 されどこれらの昆虫は、毎年毎年、昆虫として懸命に生きている。
 その時、その時の今を懸命に生きている。

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● 同じ人間が生きたのだ①

  歴史を学ぶとは、現在の我々とまったく同じ人間が過去に生きたということ
 を実感することにある。現代の我々が迷うのと同じく、その人々も迷い、
 現代の我々が笑うのと同じく、笑うことを知る。

 
彼らは我々であり、我々は彼らである。
 同じ人間である。我々と同じ人間である。弱さも強さも同じように垣間見れる。

 この世界に生きる我々は、経済的な豊かさに目的を見出したり、はたまた
 社会的な名声や成功に目的を見出そうとしたりする。
 時代ごとに社会的に大事なことは異なる。
 名声、富、権力が立ち代わり現れては消え現れる。

 なれど歴史は時代を通して我々に訴えかけてくる。
 それらの社会的な価値を越えて、大切な普遍的な価値が存在するのだ。と

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 ● 同じ人間が生きたのだ②

  貧困の中でも絵を書き続け、偉大な作品を残した1人の画家の生涯に
 触れると我々は素直に心が打たれる。
 なれど富の獲得の為に生きた海賊や盗賊、または大商人の生涯に
 我々の心が揺り動かされることは滅多にない。
 もちろん
どちらも命がけの人生ではある。

 海賊も盗賊も大商人も、命がけの人生であったことは否定しない。
 ここで彼らの生涯を否定する気も毛頭ない。

 だが彼らの一生が、我々の心に感動を与えることはほとんどない。
 確かに彼らは彼ら自身の為に精一杯生きた。それはそれで否定しない。

 されど、この世界には自身を越えて人類の為に生きた人間もいる。

 自分自身の為に生きた人間も、自分を越えて人類の為に生きた人間も
 同じ人間であり、どちらも命がけの生涯であった。
 だがその2人が後世に残したものにはとてつもない差がある。
 我々、人間はそのことを良く知っている。

 時代時代によって、人々の生きる環境は異なる。
 なれど、その環境の差などは、結局どうでも良いことである。
 経済的な富や、絶大な権力、社会的な名声などどうでも良い。

 その与えれた環境の中で人間がどのように生きたか、それが問われている。
 この世界の上で生きた人間の本質が問われている。

 死ぬ間際に、残した富や名声、権力を手放すことを恐れ、執着するような人間
 は歴史からまるで学ばなかった人である。皮肉なことにこのような人間は、
 愚かな人間の例として歴史が伝えることとなることさえある。

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 ● 歴史家=ヘロドトス

  古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの著書を読んだ人はそれだけで
  
歴史家の資格がある。
  ヘロドトスの書著を読んだものは歴史の何たるかを知るからだ。

   
 
 ヘロドトスの著書『歴史』は実に面白い。静かに流れ、かつ躍動的である。

 人が時代を超えて生きる様を我々に鮮やかに伝えてくれる。
 ヘロドトスの書『歴史』には当時の情勢と、そしてその当時の人々が何を大事に
 考えて行動したかがはっきりと読み取れるからである。
 当時の人々の気質、誇りがしみじみと伝わってくる。

 その決断までには当然、迷いがあり、恐れがある。なれど、その上で決断を
 貫いた者がいる。当時の人々の姿がそっと静かに読者の心に届く。
 歴史の中心が人であることを伝える。

 ヘロドトスの書はいかなる時代の人々にも伝わる。
 ヘロドトスの書はまさに、生きている。

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● 古代遺跡と古代人の愛情①

 古代の人々は、人間の生と死について知悉していた。
 現代の我々では彼ら古代人にまったく及ばないのだ。

 現代に生きる我々は数十年先しか見えていない。
 せいぜい子や孫の代までの人々を心配し気にかけるのが関の山でである。

 しかし古代人は
数百年、数千年先の人類までも気にかけていた。
 彼らは、それ程、先までを見通す知性があり、その根底には
があった。

 この地上で人間が生きるという意味を、古代人は誰よりも知悉していた。
 彼らの愛は、数千年先の人類全体に投げかけられている。

 偉大な古代人が手に入れた多くの真理。
 生と死についての知識、この世界を人間が生きる意義などの情報を未来の
 人々に届け分かち合うという明確な意識が彼らには存在した。
 彼らはあらゆる手段を講じて、その知識を未来人に届けようと試みた。

    ①
紙(パピルス)に言葉で叡智を書き記す。
    ②
建物の壁や柱に言葉を叡智を書き記す。
    ③
建物に絵を描き、絵でその叡智を表現する。
    ④
建物に彫刻を施し、その彫刻で叡智を表現する。
    ⑤
建物の作りにて、その叡智を表現する。

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● 古代遺跡と古代人の愛情②

 その知恵を後世の子供達に分け与える為に、木片や紙に限らず、時間の経過に
 もっとも耐えると建造物の壁に、
文字を書いた。

 さらに千年後の時代に
文字自体の意味が失われても意味がわかるように
 文字の隣には
絵画を施した。 

 さらに時間の経過で、その絵画の色が剥げ落ちても意味がわかるように
 
彫刻でその意味を表現した。

 さらに長い時間によって彫刻が風化しても、意味が伝わるように
建物の形
 (造形)で情報を未来に届けようとした。
 建造物を全体として把握すれば、美しさとは同時に、古代の人々の後世の人々
 への叡智を伝えようとする愛が見て取れる。

   
  生と死、神への儀式、人間が大地を生きる意味、あらゆる叡智が壁画に描かれた。

 建造物の1つ1つに最新の注意が払われているのを見て取れる。
 古代の人々が掴み取った叡智、それを後世の子孫、後世の人々に伝えよう
 とする情熱があり愛がそこにはある。

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 ● 古代人の人類愛

 古代エジプト、古代ギリシャ、古代ローマ、それらの時代の建造物は、その美しさ
 と同様に、叡智を伝えようとする努力、
人類全般に対する愛が垣間見れる。

                         『(本)アサヒグラフ別冊、永遠のエジプト
   
  古代のエジプトの人々から、現代を生きる我々に対してのが含まれている。

 古代人はこう理解していた。
 建造物に掴み取った情報(=知恵、叡智)を埋め込めば、後世の人々にも
 その情報が届くだろう。後世の人々も、よほど愚かでない限り、その美しい
 建造物を破壊せぬだろう。

 その見識の上に、美しい建造物に文字、絵画、彫刻を施している。

 現代の我々はその事をはっきり理解していなくても、古代遺跡の前に立つと
 心の奥底がその意味を感じ取るのだ。
 だから古代の遺跡を見ると多くの人々が心の奥から感情が溢れでてきて
 時に抑えられないほどとなる。
 古代遺跡は古代の人々の親心であり、愛であり、情熱である。

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 * ここで一言述べておくが古代人の人類愛とは現代の人々が述べる人類愛
    などとは大きく異なる。そんな安っぽいものではないのだ。
    この地上を人間が生きる深い意味、その確信を前提にした人類全体に
   対する同情、この地上を共に生きよう!という強い励ましであり愛なのだ。
   現代人の人類愛の形を、古代人が知れば、古代人の体に虫唾(むしず)が
   走る事だろう。



 
● 永遠性と古代人

  古代の遺跡を見れば見るほど、古代人が日常に永遠を感じていきていた
 ことが見て取れる。
 
 古代の人々が未来の子孫に残そうとした内容の核心を知れば知るほど
 古代の人々が生と死を越えても存続し続けるもの、我々の生死とは別の永遠
 なるものを意識していたのが理解できる。
 
 真の芸術家が美の中にその永遠に通じるものを見るように。
 真の宗教家が衆生をその永遠性にまで高め、引き連れて導くように。

 古代の人々にとっては、永遠なるものを求める意識は日常的であり、常に
 離れがたい存在であったことが遺跡から伺い知れる。

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● 歴史とは人類の意識であり、ラブレターである

 我々人類において、ほかの動物と異なり、優れた記憶能力が備わり過去を思い
 未来に馳せることが可能になった。
 この記憶の幅が人間と動物の特徴を大きく隔てている。

 現代人にとって未来を馳せるのは数年から数十年先程度である。
 だが古代の人々は数千年先の我々までを意識して、その叡智を届けようとした。

 歴史とは人類の共通の意識であり
ラブレターである。
 人類が人類に対して残す応援歌であるといえる。

 200年前に歴史のこの点を詳細に述べたものがいる。
 
天才・ショーペンハウアーである。
 彼がその著書の中で書いた歴史の章は、まさに見事という他はない。

 
人類史上、最高の頭脳をもつショーペンハウアー。彼の前に人はなく彼の後に人もない。
  
 
ショーペンハウアーの深い洞察は、あらゆる分野に及んでいる。

 ショーペンハウアー以降に生まれた者達で、歴史とは何かを語る者は、
 皆、ショーペンハウアーから教わる必要があるし、また現に教わっている。

 『歴史とは何か』の著者である
E・Hカーも、ショーペンハウアーから学んでいる。
 E・Hカーはショーペンハウアーの歴史の章を何度も読んだことだろう。
 E・Hカーは学者であり、彼の本には余計なことが多数、書かれているのだが
 それでも彼が書いたいくつかの彼の核心部分の見解は、ショーペンハウアーの
 見解に沿って書かれている。

 E・Hカーの話には、余計な解釈や余分な説明など多くが含まれているが
 ショーペンハウアーが述べていた内容に、大筋に沿って展開されている。

 ショーペンハウアーの歴史の章を読めば、誰もが以下のように思う。
 
歴史とは過去に生きる人々と現在の人々の語らいであること。
 古代の人々は、未来の人々を励ますメッセージを投げかけていること。

 だからE・Hカーもこう発言した。”歴史とは過去と現在の対話”であると。

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 * E・Hカーは、ショーペンハウアから歴史について多くを学んでいる。
 しかしE・Hカーは彼の本『歴史とは何か』の中でショーペンハウアーの名前を
 一度たりとも出してはいない。彼のいくつかの主要見解をショーペンハウアー
 から教えてもらってながら、その名を出さないE・Hカーは不誠実でなかろうか。
 学者の悪い癖の1つが出たと思われる。


 
● 近代人と古代人の差①

 古代の人々とは、近代の人々よりも遥かに英明であり、優れている。
 それは残された遺跡、芸術作品を見ても明らかである。

 確かに近代人の方が余計で余分な、知識はたくさん持っている。
 書物の焼き討ち、建造物の破壊がなければ、大抵、時代が経てば経つほど
 知識は積み重なるものである。

 古代人に比べれば、近代人の方が余計な知識は確かにあるにはあるが、
 その知識の内容と質は、大きく異なっている。
 古代人の知識とはまさに
この世界そのものに関することである。
 人間の生と死。この世界で人間が生きる意味。死んだのちに人間がどうなるか
 など。またそれらを含めたこの世界とは。

 この古代人の知識に比べれば、現代人の知識などはたわいもない。
 科学的知識の量が主に優位に過ぎず、それ以外は古代人に大きく劣っている。

 現代に生きる我々の多くが真に憧れ、真に敬慕し慕う偉大な宗教家や賢人達、
 つまり
釈尊老子孔子イエスプラトンゲーテなどといった人々が
 日々、意識していた内容と同じことを古代人の多くも意識し理解していた。
  古代人の中でも優れた人々は、それ以上を意識し理解していた。
 古代の人々の中でもっとも優れた人たちは、現代の我々から見れば、同じ人間
 には決して見えないだろう。まさに神のごとくという表現がピッタリであろう。

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● 近代人と古代人の差②

 真剣に学問を行った者、真に真理を探究の道に入った者には古代人の偉大
 さが素直に伝わるものだ。
 ギリシャ・ローマの圧倒的な美の彫刻、エジプトの叡智、愛を物語る建造物や
 遺跡の数々、それらのものは古代のエジプト文明以前に生きた人々の息吹、
 精神性を現代の我々に想像を掻き立てる。
  古代ギリシャ人、古代中国の孔子や老子、インドの釈尊が残した書物は
 まさに一文字一文字が輝いて、真に学問をする人々の心を捉えて離さない。

  学問や芸術に裏打ちされていない多くの大衆にとっても、古代の人々の
 偉大さは感じ取るものである。エジプトやローマ、日本でいえば平安時代が
 もたらした京の都などには、現代でも多数の観光客が訪れる。

 愚鈍で迷妄な現代の学者の本や主張などに、大衆は見向きもしない。
 現代の学者の中には、迷妄で愚鈍な者がいくらでもいる。
 何でも、この世界において、認識は発展段階(発展のプロセス)にあるなどと、
 とてつもなくアホなことを考えている輩がいまだに存在する。
 発展段階にあるならば、今日よりは明日が素晴らしいと当然考えるようになり
 そうして昔に生きた古代人を蔑み、近代人を持ち上げる。
 挙句の果てに、尊大な態度で古代人を見下すようになる。
 見ていて、こちらが恥ずかしく感じる程だ。

 この世界には絶対理性があり、世界のその意識は発展過程にあり、その為、
 未来こそが
(つまり時間の経過によって)、優れたものが生み出されていくと
 いう
アホな考えに取りつかれた連中は、真に救いがたい。

 これらの迷妄で愚鈍な輩の頭の中には
ユダヤ的世界観が宿っている。
 ユダヤ的世界観は迷妄で愚鈍で低脳な頭脳を捉えて離さない。

 日本の大学哲学には、これらのアホな輩がまだいるのである。
 それも少なくなく結構な数がいるのである。

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 * こういう愚鈍で迷妄な連中ときたら、100年前の花よりも100年後の
   花の方が美しいと本気で信じる連中なのだ。
   時間の経過万歳、未来はバラ色! が彼らの合言葉だ。



 
● 世界を見る力の欠如=近代学者①

 近代の多くの学者に欠けているものは、この世界を正確に見る力である。
 この世界を正確に捉える認識が欠如している。
 特に以下のことがまるで抜け落ちているものが多数存在する。

  ①
人間は外的なもので完全に満たされることなどはない。
  ②
人間は外的な目的を達成する為に生きているのでもない。

 人間は商品や食べ物、ブランド品など、外的な商品によって完全に満たされる
 ことは決してない。また同様に、より良い経済体制や社会制度、法制度によって
 救われるのでも決してない。

 ある商品を手に入れても、さらに他の商品が欲しくなる。
 巨万の富を手にして、欲しい商品をいくらでも手に入れられるようになると
 今度は、金では変えない人心を買いたいと望むようになる。

 一定の名声を手に入れれば更に名声が欲しくなる。
 虚栄心が芽生えて、留まるところを知らず、それに囚われてしまう。
 一定の権力を手に入れれば更なる権力が欲しくなる。
 征服欲が芽生えて、留まるところを知らず、それに囚われてしまう。
 一定の富を手に入れれば更なる富が欲しくなる。
 貪欲な飢餓の心が芽生えて、留まるところを知らず、それに囚われてしまう。
 富、権力、名声を手に入れて全ては満たされるかと思いきや、足元から欠乏
 が迫ってくる。心の奥底から欠乏の萌芽が立ち現れてくる。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の社会学者へ
        稲穂黄金の浅はかなる者達



 ● 世界を見る力の欠如=近代学者②

 また我々人類は、外的な何かの目的の為に、世界を生きているのではない。
 何かの目的を達成する為にこの世界に生きているのではない。

 学者の中には、より良い政治体制や経済体制、法制度を形作ることが人類の
 目的とばかりに考える人々もいるが、このような人々は真剣に生きるという
 ことをその人生において一度も感じたことのない証拠である。

 もちろん政治体制や経済体制、法制度を軽視して良いなどとは一言も
 いってない。それらのものは人類が大人数でよりよく生きる為に長い時を
 経て、形作ってきたことである。多くの労苦がそこにはある。

 これらのものは決して軽視して良いものではない。
 だが我々の一生の意味において見れば、本質では決してない。

 歴史からはそのことを教わるのである。
 世界にはたくさんの国があり、その国ごとの風習があり、法律がありルールが
 あった。その国独自の商売があり経済があった。
 また時代によっても、政治体制、経済体制は様々に変化していた。

 歴史はそれらの幾多の時代の中にありながら、それでも変化しないこと
 つまり人間が人間として生きたという部分にスポットライトを当てる。
 それらの環境にスポットを当てるのではなく、それらの中で真摯に生きた人間の
 生き様にスポットライトを当てるのだ。

 快適な環境は、確かにそれは良いものだ。 しかしどれほど快適な環境も
 それ以上の環境が提供されればそれに乗り換えるだろうし、その環境が我々の
 もっとも大事なものを阻害するのであれば、どれ程、良い環境であったとしても
 捨て去られるのだ。政治体制、社会体制、経済体制のより良いものを選ぼうと
 人間が選択しているつもりでも、些細な偶然によって、または人間の奥にある
 隠れた欲求に気づかずに、予期しない結果へと繋がることも多々あるのだ。

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● 必要最低限の理解①

 近代の学者は以下のことを心にとどめておく必要がある。
 
何ゆえに釈尊が生まれたのか?
 何ゆえに老子が生まれのか?
 何ゆえにイエスが生まれのか?
 何ゆえに空海がうまれたのか?
 何ゆえ、いかなる時代の人々もこれらの人々に関心を持つのか?
 

 学者である以前に、この世界を生きる人間として以下の必要最低限のことは
 理解することが必要だ。

 これら偉大な人々は我々に、より適した社会制度や政治体制、経済体制を
 もたらしたわけではない。豊かな富や権力をもたらしたわけでもない。
 それなのに彼らは、この地上を生きる人々の心を捉えて話さない。

 何ゆえ、釈尊は釈迦族の王子を地位を捨てて、国家を繁栄させ、切り盛りする
 道とはまったく異なる道へと進んだのか!?

 釈尊やイエスがこの世界で
人間が生きる意味を理解していた為だ。

 人間には救いがたい面がある。またこの世界も救いがたい。
 救いがたい人間が、この救いがたい世界を生きる宿命が我々にはある。

 
もし外的な環境によって、人間が真に救われるならば、釈尊も老子も
 孔子もイエスも外的な環境を充実させることに精一杯、力を注いだことだろう。

 なれど事実は異なる。
 釈尊もイエスも空海もそれとはまったく異なった生涯を送った。

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 ● 必要最低限の理解②

 多くの衆生でさえ釈尊やイエスの偉大さを真に知っている。
 学問をまったく行わない人々でさえ、その意味は感じているものだ。
 多くの人々は、これらの偉大な人たちに惹きつけられる。

 なのに中途半端に学問をかじった学者は、その中途半端さゆえに、この単純な
 意味さえ見失っている。

 釈尊や老子、空海やイエスなどの真に偉大な人々は崇める対象などでは
 決してない。この地上を生きた同じ人間として、見習うべき師として、また共に
 この地上を生きる友として尊敬し、親しみをもって付き合うべき人々である。

 釈尊は、この世界を正確に見抜いた。
 諸行無常、因縁因果、それに伴う人間の行動の悪因悪果、善因善果
 それらの真理を人々に理解させることで、人間としてより良い生をこの地上で
 生きることを望んだのだ。

 諸行無常の世で生きる人間が、この世界の法(理)を知り、良い種を蒔くことで
 良い実を得られることを知り、その両目が捉えるものに執着するのではなく
 その奥に永遠なる世界があり、そこに繋がってこそ、この世界を括弧として
 生きる力を得ることができると人々に問うた。
 1人1人が己の中に、灯明を灯せるようにいざなった。

 イエスとて同様である。イエスはより良い国家について述べたのでもなく
 より良い経済体制、社会制度について述べたのではない。
 イエスは、『汝、隣人を愛せよ』とその人々の心、その内面に問うたのだ。
 隣人を愛し、慈しむその行為に人間の成長があり、真の力があり、人間の真の
 救済があるのだと命を懸けて人々に示した。

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● 歴史と釈尊

 釈尊は釈迦族の王子として、その当時、誰よりも外的な環境に恵まれていた。
 食べ物、富、名声、権力、全てにおいて恵まれていた。

 だがそんな釈尊の心に、満たされることのない大きな空虚が生まれた。
 今日楽しく賑やかに過ごして人が明日は病気にかかりあっけなく命を落とす
 ことがある。何の前触れもなく多くの困難が訪れることもある。

 その当時、誰よりも恵まれていた釈尊。
 だからこそ多くの人々が苦しむ姿を客観的に見れた。
 その出来事が釈尊の目を捉え心を捉えて離さなかった。
 常に避けがたく苦として彼に迫ってきた。
 釈尊は
諸行無常の世界と真正面から向き合うことになる。

 歴史とはまさにこの釈尊の意義を、形を変えて伝えることに等しい。
 歴史には人間の様々なドラマがある。
 ある結果を望んで行動したのに正反対な結果に繋がることも往々にある。
 大勢の人々が失意の内に死んでいくこともあるし、わずかな人々がこの世界と
 堂々と対峙して生きてもいる。
 歴史とはまさしく、人間が人間としてこの地上を生きたことを伝えることにある。

 より良い政治体制や経済体制を構築することが人類の目的などと考える学者
 は、まるで釈尊の意味が分かっていない。
 イエスの言葉は彼らにはまるで聞こえていない。
 
 外的な環境によって、人間が救われると考えている学者には、この地上を真剣
 に生きる人々の声は聞こえない。
 いかなる時代にも宗教があり、何ゆえ人間は神を信じたのか!
 学者の多くは、それに思い至ることがないのだ。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ



 ● 歴史と釈尊

 
人間は外的な環境によって救われるものではない。
 何かの制度や仕組みをもたらすためにこの人間社会があるのではない。
 人間があって社会(政治体制、経済体制)があるだけだ。
 人間社会は、人間の生涯をサポートする為にもたらされた脇役である。

     
人間の生涯  >  仕組み
                (政治体制、社会体制、経済体制 ・・・)

 何度でも述べる。 
 歴史から学ぶとはあらゆる時代に生きた人間の生涯を見つめることにある。
 もちろん、そこに生きた人々も外的な環境には影響され、左右された。
 だが、それらの様々な条件を超えて、貫きとおしたもの、人間として貫きとおした
 高みに対して、現代に生きる我々は拍手を送るのである。
 歴史とは、その時代の人々の生き様を見つめることにある。

 何かしらの
外的な環境で救われるならば、2500年前の釈尊は、
 その当時の誰よりも救われていなければならなかった

 釈尊はその当時、誰よりも環境としては恵まれていた。
 だがそんな
釈尊の内から空虚さが生まれ、苦しみが生まれた。

 多くの学者は、学者である以前にこの地上を生きる人間としてあるべきた。
 その意味を理解することの方が先決である。
 でなければ、あらゆる時代の人々が、何ゆえ釈尊を、イエスを真剣に求めたの
 かが、まるで理解できないまま、この大地を去ることになるだろう。

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 ● 歴史とはまさに人間の生き様の物語

 歴史を見つめれば、そこから見えてくるのは当時の人々の姿である。
 我々は異なる環境に生きた人間の生き様を歴史から知る。
 歴史を知ることを人間を知ることである。
 時間と空間を越えて、そこに生きた人々は我々とまったく同じ人間である。
  
彼らの欠点は現代を生きる我々の欠点である。
  
彼らの長所は現代を生きる我々の長所である。
 彼らの惧れは我々の惧れであり、彼らの勇気は我々の勇気である。

 現代の我々が昔の時代を生きた場合、どのように生きるかを歴史は教えて
 くれている。科学の進歩、社会形態、環境はあらゆる時代で異なる。

 様々な結果(出来事)は異なるが、その決断と行動に至る過程には人間が
 関わる。古代の人々は、我々であり、我々もまた古代人と同じである。
 2000年前に咲いた桜も2000年後に咲く桜の姿も同じであるように
 2000年前の人間も、2000年後の人間も同じ人間だ。まったく変わらない。

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● その名は歴史家

 様々な時代に、様々な環境の上で生きる人間。
 その人間の姿を真剣に見つめる者。それが歴史家である。

 歴史家はその人間の真摯な営みを後世に伝える役目がある。
 この大地で生きる人間はいくらでも愚かになり、時に賢明にもなる。
 望んでそのようになることもあるし、望まなくてもそうなることもある。

 この大地は人間に対して決して甘くはない。
 時に厳しい現実を見させる。

 極々、少数の偉大な者達が、人間がこの大地で生きる意味を語り、多くの人々
 を救済することもあれば、それらの声などまったく耳に入らない人々も存在する。

 この地上には様々な人間の様々な悲喜こもごもがある。
 その1つ1つの有り様は、いずれも人間にとっては真実の面を表している。
 愚かな一面も事実であるし、強欲な一面も真実である。
 慈悲と愛の一面もまた真実である。

 確かに人間には多くの欠点がある。
 これらの性質を有する人間同士が、内に問題を抱えながらも、共に協力して
 前向きに生きる様は美しい。その中にあっていかに1人1人の人間が人間の
 可能性を最大限に発揮してきたかを伝えること。
 歴史家とはまさに
人間そのものを見つめることである。

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