科学の欠点 量子力学の探求に入った現代の科学において、特に重要な弱点は見当たらない。あるとすればその周囲にこそある。
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科学の欠点
 量子力学の探求に入った現代の科学において、特記すべき大きな欠点は
 見当たらない。あるとすれば科学を取り巻くその周囲にこそ存在する。

 
● 科学者の欠点@

 元来、科学者の欠点といえば、
唯物論に偏りやすいという事であった。
 そもそも科学それ自体が唯物論と歩調を合わせるものである。

 唯物論者は、こう考える。
 ”この世界の本質が物質であり、この世界は物質からなっている”

 科学を志す者にもまた唯物論者が多く出る。
 科学もまた物質を基点に始めるからである。
 物質は我々の表象上で作用として表される。科学者はこの作用を研究する。

 この世のあらゆるものが物質の作用によって説明できるものだと考える科学者
 は確かに、いつの時代もたくさん存在する。

 機械的な作用で、この世界が全て説明できると考えた科学者は、色々と
 無茶な説明をひっぱりだしてきた。
 その1つが宇宙空間にはエーテルがあるというものであった。
 光を説明する為に、粒子の震動によって伝わると考えたわけである。
 これは物の見事にはずれて、エーテルは否定された。

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● 科学者の欠点A

 そもそも重力などの自然力は、その原因をこれ以上、説明できるものではない。
 自然力は、これ以上その原因を問えない。
 
 近代において、そのことも多くの科学者に理解され始めた。
 現代の科学者において、唯物論者は少なくなった。
 科学が、光の探究、そして量子世界の探究に入ったことが特に大きい。
 量子世界が見せる様々な事が、現代の科学者から機械論的な世界観を
 取り除いている。

 それえゆえ現代の科学の進む方向に大きな不安は見当たらない。
 科学者の多くも、機械論的な考えをする者は、少なくなりつつある。

 また優れた科学者の中には、なかなか深遠な面を醸しだす者もいる。
 近代ではニールス・ボーアがあり、現代ではロジャー・ペンローズ博士である。
 共に、時代的探究者のレベルに入っている。

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● 敢えて指摘するならば

 科学の欠点を敢えて指摘すれば、以下が存在する。

   @
広がりすぎる空想
   A
インテリジェント・デザイン(ユダヤ的世界観の科学への流入

 数学は、根拠から帰結へと向かうので誤診が入り込む余地はない。
 それに引き換え、科学は帰結から根拠に向かう為に、そこに誤診が入り込む。
 
 
科学において誤診はつきものである。
 間違えずに、進めるものなどはいない。

 科学は抽象的な表象をフルに利用できるので、さまざまな空想をもつ事が
 できる。その幅の広がりが武器なのだが、如何せん根拠からだいぶ離れる為に
 空想のその範囲が広くなりすぎるのだ。
 結局、まったく根拠のないものまでも考えてしまうということになる。

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● 広がりすぎる空想

 科学において、
空想が広がりすぎるきらいはある。
 例えば、素粒子などの話になれば、空間を越えるとか時間を越えて移動する
 ような素粒子があるかのような話が直ぐに飛び出てくる。

 そういうことを主張する人は、そもそも時間や空間、因果律が適用されると
 いう意味をまるで理解できていない。
 どのように空想しても良いが、空間や時間をこえることが物質であれば、
 物理学は根底から崩されることになるのだ。
 保存則がどうこういうレベルではなくなるのだ。

 量子世界の中で、その振る舞いが理解しがたい面が出てきて、科学者を
 不安にさせるのだが、それをたくさんの空想で埋め合わせをしようと
 しているといってよい。
 たくさんの空想をしても、何を根拠に考えるべきかを見失っているのである。
 
 例えば、現在、
多世界解釈多世界宇宙のような話が出てくるが
 これは
空想の産物であり、話が行き過ぎている

 250年前に、これに関連した内容をカントは述べている。
 『  仮に、この世界が、まったく
作用しあう事ができない空間によって、
    いくつかに分けられ、隔たっている世界なのだとしたら、我々の脳は、
    そういう世界を表象することはできない。 』


 この世界は、そういう空間によって分かたれた世界などではないのだと
 カントが明確に述べている。

 
       真の哲学者と呼べる人々の知性たるや驚嘆するばかりである。
        200年以上前に、多くのことがカントに考えられて語られている。

                
                    
イマヌエル・カント

 真に哲学者というのは、数百年前にこういうことを考えているものなのだ。
 稲穂黄金が哲学者という言葉を使う時に、想定しているレベルがつまりは
 こういう知の化け物と言える深遠な者達を想定して述べているのだ。

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● インテリジェント・デザイン

 確かに科学者の中には、根拠から離れすぎて、空想になりすぎる者達が
 でてくるが、それでも、ある程度までは許容範囲である。
 色々な空想を持つことは、悪いことでもないからである。
 それでも話が行き過ぎると、雑多な考えがあれふてしまい、わかりにくくなる。

 それはそれとして、現在の科学界において、もっとも深刻なことは、科学の基礎
 の部分に
超越的なものが入り込み始めたということだ。

 
インテリジェント・デザインである。
 ある何者かによってこの世界は計画されているという考えである。
 ある何者かは、いわなくても、絶対者が連想されている。

 神の計画によってこの世界はもたらされたという考えが科学の最先端の本場
 であるアメリカに入り込んできた。特に学校教育に入り込み、
 その中で、生物学において特に強調されるようになってきた。

 これらのことを信仰として、宗教として語るならばまったく問題ない。
 なれど、これらのものを科学の基礎に入れてはいけない。
 これらのものは、学問の対象ではなく、あくまで信仰の対象である。

 学問であるなら根拠律を有する4つの表象のいずれかを導きの糸として
 つながる必要がある。
 絶対者なるものは、根拠律を有する表象から、まったく出てこない。

 神は論理の対象ではなく、あくまで信仰の対象である。
 超越的なものを科学の基礎に入れてはいけない。
 いずれ、神の意図に矛盾しない研究結果のみが採用されかねない。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来のユダヤへ
        『 稲穂黄金の未来の宗教家へ


 
● 物理学の大道

 
物理学の大道とは何かといえば、ある時間に、ある場所で
 
ある作用が起こった時に、それがどのような規則に基づいて行われて
 いるかを求めていく道である。

 我々の直覚的表象にあがる様々な現象は、因果律によって規定されている。
 因果律こそ、その時間、その場所で起こる変化に適用される。

 自然現象は、時間と空間と、因果律が適用された直覚的表象の上に現れる。
 その1つの系が、どのように複雑に見えても、それは複数の中の可能性から
 結果的に、1つが選ばれている。

 だからこそ、物理学もその系の現象が、方程式で関係をあわせるように
 ある値に収束させていくことが目的となる。
 不確定性原理であれ、シュレーディンガーの方程式であれ、ボーアの
 コペンハーゲン解釈であれ、この道を歩んでいる。

 であるから世界がいくつにも別れたとか、知りえない複数の世界があるなどの
 多世界解釈をいっても、まったく正統にはなりえない。

 じっくり自然を観察し、地道に進む意外はない。
 あなたが科学者として、大きく前進する事を望むなら真正面から進む事である。
 ある時間、ある空間にて、起きている現象が、他の何らかの影響を受けて
 そのように変化している、まさにその
条件を見つけ出すこと
 科学者の仕事である。

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 ● 問題は科学ではなく、その周囲にこそ存在する

 科学は、経験的に確認していくのだから、徐々に進歩していく。
 大きな問題は、科学者には見当たらない。
 現代の一流科学者の多くも、自然を安易にみていない。

 問題は、
科学を取り巻く周囲にこそある。

 一番の問題は、
哲学学者のあまりのレベルの低さにある。
 ここ200年の哲学の落ち込みは激しい。

 真剣に考えることはせずに、思いつきと思い込みの輩が多数をしめている。
 絶対者や絶対理性、絶対精神を持ち出して、哲学が始まると考える時点で
 既に、考えることを放棄している連中が存在する。
 こういう連中ときたら、何を根拠に進めるべきかをまるで理解していない。

 真剣に学問に取り組まず、考えない者達が、いわゆる神の意図に飛びついた。
 根拠の意味がまるで理解できていない。
 絶対者を掲げ、何も学ばず、大上段から他の人々を見下ろすことは、
 さぞ、気持ちが良かろう。
 大学哲学は堕ちるに堕ちた。

 19世紀を境に
科学と哲学が大きく別れ始めた
 正確にいえば、まったく至らない哲学(学者)は、科学者に見放されたのだ。

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● 科学に見捨てられた哲学

 19世紀になると、哲学は、科学に見放されたのだ。
 哲学学者のあまりのレベルの低さに、科学者はあきれかえったのだ。
 そうして20世紀になると、哲学学者は、科学者に完全に無視され始めた。

 19世紀を境に、科学は単独で真理に挑むようになった。
 現代に至るまでに、科学者の発展には、多くの科学者の奮闘・努力がある。

 深遠さをまるで感じさせない数学者ではあるが、彼らも頭脳を酷使して数学を
 発展させて大きく科学に貢献した。
 物理学者はそこそこ用心深い。自然を相手にするからだ。

 これらの優れた科学者達も、真の哲学者のレベルからすればまだまだでは
 あるが、それでも懸命に努力し、探求して多くの真理を得たのだ。
 現代の科学はその上に立っている。 

 科学者のこの努力に比べて、大学哲学ときたら、まったく考えることはせず、
 誤った思い付きと思い込みに終始し続けた。

 やれ絶対精神だ!やれ絶対理性だ!と馬鹿騒ぎする連中があふれ、この世界
 には認識が横たわり、その認識は発展段階にある云々などと、ふざけたこと
 ばかりを述べていた。
 どうも、これで世界が理解できた!と思い込んでいるようだ。
 実に愚かな連中であり、救いがたい連中である。

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● 科学者と哲学学者のその後

 この19世紀を境に、科学と哲学はその袂をはっきりと分けていく。
 科学が哲学を見捨てた瞬間でもあった。

 優れた科学者の多くは皆、誠実であった。
 真理の探究に地道に取り組んだ。その一歩一歩は大きな巨歩となった。
 科学は、独り立ちをして完全に哲学学者のお株を奪った。

 現代において、宇宙や自然など、この世界についてのあらゆる疑問に関して
 民衆は哲学学者に尋ねることはなくなった。皆、科学者に尋ねるのだ。

 迷妄と愚鈍の哲学学者の増大は、哲学をますます死の淵へと追いやった。
 その内、共産主義や社会主義を述べることが哲学などと勘違いする連中まで
 も出始めた。自然科学の素養もない連中が、これが哲学なのだと主張する様
 は実におぞましく、救いがたい。
   現代の日本の大学哲学は実に救いがたい。
 絶対精神や絶対理性などと語る大学教授がまだいるのだ。
 それも少なくなく、結構いるのである。

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 ● 哲学学者には哲学は難しすぎる@

 科学が深遠な領域に達しているように、哲学も200年以上も前に既に、
 深遠な領域に達している。
 カント、ショーペンハウアーの辿り付いた地点は実に深遠である。

 
哲学学者には、哲学は難しすぎる。

 現代においては、一流の科学者が、哲学を行うことが一番望ましい。
 哲学の深遠な道は、優れて鋭敏な者達だけが歩める道である。
 それにもっともふさわしいのは、哲学学者ではなく科学者である。

 現代において、哲学学者は、この哲学の高みに上ろうとは決して考えていない。
 最初から、無理だと諦めている。確かに彼らでは無理である。
 自然科学も学ばないし、数学、論理学、も学ばない者たちは多い。
 
 つまり文科系なのである。
 哲学は、あらゆる学問を広く吸収することも必要である。
 それも薄っぺらい理解ではなく、その学問の核心部分を理解することに
 努めることが必要である。学ぶべきことは驚くほど多い。

 特に、自然を観察して自然の声を聞くことも重要である。
 声が聞こえるほど、学問に努める必要がある。

 それらを経ないで、進んでいけるような生易しい道などでは、決してない。
 真の哲学の道は、あらゆる学問の中でもっとも厳しい。

 哲学の道は、一歩一歩、地道に進む道でもある。
 知的にごまかさない。 あらゆる分野の知識を総動員して、人間が知れる範囲
 で理解していくこと。常に上へと一歩一歩進む形而上学の道である。
 半端な覚悟ではまったく進めない道である。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来の哲学者へ


 
● 哲学学者には哲学は難しすぎるA

 日本の大学哲学の学者の中には、真理の道を進まずに、楽をしようとする輩
 が実に多く存在する。偽者、似非者が多数いるのだ。
 地道に歩くことを嫌がり、飛び道具を使って一気に進める道はないかと
 考えている連中が多いのである。

 そういう連中が、直ぐに頼るのが神の意図である。
 つまり絶対者や、絶対精神、絶対理性などを持ち込んできて、超越的な場所
 へ到達できるという考えに、直ぐに飛びつくのだ。

 これらの連中ときたら、こういうオモチャを実にうれしそうに扱う。
 待ってましたとばかりに、それらの語っては、この世界の何がしかが把握できて
 いるのだと思い込んでいる。

 そもそも理性などは、抽象的表象に属するものである。
 抽象的表象には欠点があり、そこで利用される材料は全て、直覚的表象からの
 借り物であるに過ぎない。
 そういう理性に絶対を期待してどうするというのだ?
 何を根拠に据えて、語り始めようとしているのだ?
 こういう連中ときたら実に救いがたい。

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 ● 迷妄と愚鈍の世界の住人

 こういう連中ときたら、そうやって絶対者によって自分が高みに達したと思い、
 ”世界は●●である!” ”世界は認識の発展段階のプロセス云々” などと
 叫び、のたまうのである。断定的な口調で語るのが彼らの特徴である。

 これらの連中はそうして、真剣に学んでいる者達を大上段から見下ろしては
 悦に浸っている。どうしようもない者達である。
 再度言おう、こういう者達は、真に救いがたい。

 こういう者達が死ねば、迷妄と愚鈍の世界が待っている。
 これらの者達は、迷妄と愚鈍の世界に自ら、足を踏み入れて、そうしてその
 世界の住人になる。彼らにとってはそこが居心地が良く、結果、二度とそこから
 戻っては、これなくなる。
 迷妄と愚鈍の世界の住人が、フィヒテであり、ヘーゲルであり、シェリングであり
 ローゼンクランツである。
 現代の日本の大学哲学の教授の多くも、いずれこの世界の住人となる。
 これらの輩は、迷妄と愚鈍の世界に自ら、喜んで足を踏み入れるのだ。

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● 哲学を学ぶときの注意

 今後21世紀、科学者にとって、哲学的な知識を吸収することは重要である。

 だが
哲学を学ぶことは注意が必要である。
 なぜなら、哲学の名を語る偽者、似非者が実に多くいるからである。
 特に、日本の大学哲学の教授のほとんどは、これに該当する。

 もちろん、ほんの少数だが真剣に学んでいる者達もいる。
 だがそういう人であっても自然科学を学ぶ者は少ない。

 ここで哲学学者が学者とはしては大丈夫か、または偽者かの判断を教えよう。
 以下に該当する項目が多い者ほど、大丈夫なものは大丈夫であり、
 駄目なものは駄目である。

   
大丈夫な哲学学者
    @ 
カントをしっかりと学んでいる
    A 
自然科学を学ぼうとする姿勢がある
    B 
ショーペンハウアーから学んでいる
    C 
地道に学び、わからないものはわからないと認識している
    D 自然の深遠さを感じ取っている

 
 似非者、偽者の哲学学者
    @ 
カントは、自分に合わなかったなどという
    A 
自然科学を学ばず、つまりは完全な文科系である
    B 
マルクスの論文(経済学)を、哲学なのだと思い込んでいる
    C 
アホのヘーゲルやフィヒテ、シェリングなどを好むくせがある
    D 
超越的なもの(絶対者、絶対精神、絶対理性)を直ぐに持ち込む
    E 自然を安易にみる。(絶対者の贈り物とみる)

 真剣にカントから学ぶ者は少ない。
 似非者、偽者の哲学学者の多くが、恥も外聞もなく多くのガラクタ本を書いて、
 自分は哲学を語っているのだと思い込んでいる。
 そういう連中が結構いるので注意は必要である。
 まあ、相手にしないのが一番良いだろう。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の深遠なる者
        『 稲穂黄金の浅はかなる者


  ● 科学に貢献するのはやはり科学者@

 哲学は科学者にヒントを与えることはあるだろうが、それでも科学において
 大きな貢献はできるのは、やはり科学者である。
 なぜなら科学こそ、実験して検証してそれが真であるとみなすア・ポステリオリ
 を土台におく学問であるからだ。

 科学者は、日夜、努力する。
 モデルを考え、実験して、その結果を検証する。
 地道な作業が求められる。そうやって自然の姿の一面を捉える。

 わずかなことを証明するのにも、科学者は知恵を絞り、汗を流してきた。
 この道を歩み続けるからこそ、科学は他の学問よりも飛びぬけてその存在の
 大きさが際立つのである。

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● 科学に貢献するのはやはり科学者A

 21世紀において科学者が哲学的な知識を取り入れることは必要であると
 稲穂黄金は何度も述べてきた。
 だが、間違っても、その本物の哲学を、哲学学者から教わろうなどとは
 思わないことである。
 科学者の方が何倍も何十倍も洞察力に優れ、知的に優れている。
 現代の哲学学者の多くが自然科学の知識が欠けており、ゆえに文科系である。
 脳を練磨することを知らないし、論理的に積み上げていく訓練をまるで知らない。
 日本の大学哲学は見るも無残な状況である。

 過去も現在も、日本の大学哲学においては、真に優れた科学者にヒントを
 提供できるだけの人物が見られないのである。
 残念ではあるが、これが現実である。

 思いつきと思い込みが哲学だと勘違いしている連中もわんさといる。
 これらの者達が学問といっているのは、つまりはお遊びなのである。
 日本の大学哲学は、救いがたい状態である。
 未来の科学者は、自分達の歩んできた道、養われし力を信じて進むのだ。

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● 科学者と哲学学者の差異

 優れた科学者の多くが、ショーペンハウアー根拠律を有する4つの表象の
 きりわけの重要性に気付き、おのおのが、その表象の最大領域、限界を
 探究することを始めた。
  物理学、数学において著しい成果が生まれた。

 この科学者達の奮闘に比べると、哲学は惨憺たる様であった。
 19世紀の哲学学者の迷妄さといったら目を覆いたくなるほどである。
 迷妄と愚鈍の輩がヨーロッパの大学哲学を覆った。

 キリスト教会の神の意図を擁護する自称哲学学者が、大学の哲学科に溢れて
 教鞭をとるさまは、まさに人類もここまで堕ちたことを物語った。

 昨夜は絶対者!今日は絶対理性!明日は絶対精神!などと思いつきと
 思い込みの愚鈍の連中が、神の意図を四方八方で叫び続けた。
 哲学は堕ちるに堕ちた。

 真剣に考えることをまるでせず、この世界には神の意図があって、この世界は
 その神の計画によって進んでいると叫ぶことは、低脳な者達にとっては
 まさに至福の時間であった。
 低脳な連中が優れた者達を見下せる唯一の時間であり、何の学問的研鑽や
 努力をなしに、大上段から神の意図、神の計画を述べることは、これらの連中
 にとっては何よりの至福の時間であった。

 さらに、現実的なご褒美がついた。
 神の意図を強調することは、教会関係者から絶大な支持を受けた。
 教会関係者からは、大学教授の職も与えられ、盛大な拍手が贈られた。
 彼らはそれに何よりの快感を覚えた。
 大学哲学は、これらの輩でいっぱいになった。

 まさに類は友の呼ぶのだ。


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● 超越的な力にすがる迷える者達

 愚か者達は、超越的な存在に辿りつけるのではないかと直ぐに誤信する。
 こういう連中は、何が論理的なのかすら理解していないのだ。
 確かに、考えることよりも、思い込む方が遥かに楽である。

 まったく至らない頭脳に宿るものといえば、お手製の夢の楽園であり、
 簡単にたどり着けるパスポートなのだ。
 超越的な世界へ、生み出せると勘違いをする。
 これらの者達の頭には、
ユダヤ的世界観が宿っている。

 神の意図を大上段に掲げて学問を語ってどうしようというのだ?
 この神の名が、あるときは絶対者となり、あるときは絶対理性となり、
 またある時は絶対精神となる具合なのだ。

 そうして、迷妄と愚鈍の連中は、神の意図がこの世界に横たわっていると
 主張し始める。この世界には認識が横たわり、この世界はその認識は
 発展段階にあるなどと愚かなことを臆面もなく言うのだ。

 もうこうなると手がつけられない。
 真に救いがたい連中である。
 彼らはそれで学問をしているつもりになっている。
 それでこの世界の何がしかが理解できていると思い込んでいるのだ。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来のユダヤへ


 
● 科学の立ちはだかる壁は高い

 この世界は、決して単純な世界などではない。
 既に科学が辿り付いた地点も、深遠である。
 多くの優れた科学者は、この世界の理解しがさを感じている。
 これから科学が容易ならざる道に進むことを皆、ヒシヒシと感じている。

 21世紀、科学の立ちはだかる壁は高い。
 科学だけでは乗り越えがたい面も確かにある。

 本来ならば、哲学がサポートすべきであるが、まったく至らない哲学学者が
 入ってくれば、余計な混乱をもたらすだけである。

 それだけ稲穂黄金は、哲学学者を信頼していない。
 反面、優れた科学者の力量を信頼している。

 絶対者、絶対精神、絶対理性などといっている語る連中が千人集まろうが
 万人集まろうが、なんらの真理にさえたどり着けない。

 本来であれば哲学が再び、その力を取り戻して、科学の下支えになるのを
 期待したいのだが、これは期待薄である。

 ただ哲学が真に復活する為の方法はある。
 哲学学者の多くが、真剣にショーペンハウアーからじっくりと学ぶことである。
 ショーペンハウアーの哲学を真に理解すれば、何ものかへと辿りつく。

 もちろん真に哲学を前進せしめるのは、天才のみである。
 天才のみが種子であり花を咲かせる。
 なれどその種子も、豊かな土壌ほど美しい花を咲かせる。
 学者はその土壌であるといえる。
 優れた学者が多くいるということは、それだけ豊かな土壌であることを物語る。

 花を咲かせるのは種子のみであるが、良い土壌であればあるほど、天才は
 綺麗な花を満開に咲かせるのだ。
 古代ギリシャや古代ローマがそうであったように。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の究極の科学
        『 稲穂黄金の究極の物理学


 ● これから200年間の哲学学者の頑張りいかんでは

 21世紀から22世紀にかけて、科学の発展は、現代に生きる我々には
 想像もできない程に発展するだろう。
 科学者と哲学学者の差も開くばかりである。

 しかし、今から200年間の哲学学者の頑張りいかんでは、300年後の
 24世紀に、哲学界にも至宝がもたらされるかも知れない。

  21世紀、22世紀の哲学学者の頑張りが23世紀の哲学界に大きな胎動
 をもたらせ、そうであれば24世紀に真の哲学者、つまり天才を生み出すだろう。

 その天才は、プラトン、カント、ショーペンハウアーに並ぶ天才である。
 現時点を見れば、哲学はまるで至らずに科学に大きな差をつけられているが
 この200年間で哲学を復活させれば、24世紀には、科学者を圧倒する程
 の真の哲学者がもたらされるだろう。
 古代ギリシャから数百年して、古代ローマの花が咲き誇ったように。

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● ユダヤ的世界観はなくならない

 ユダヤ的世界観を避けることは、学問を志す者には必要なことではあるが
 人類からは、ユダヤ的世界観はなくならない。

 なぜならば人類の大部分は迷妄と愚鈍の内にあるからだ。
 無理になくせば、それは大きな反動となってかえってくるだろう。
 
 今後も科学者は、ユダヤ的世界観と立ち向かっていくことが必要である。
 現代の科学の本場である
アメリカにユダヤ的世界観は入り込んだ

 数百年というスパンを経て、アメリカを飲み込むからも知れない。
 ユダヤ的世界観の流入は、世界中のあらゆる所で起きて、ユダヤ的世界観は
 勝利を得てきた。
  まるで、ウィルスのように感染して、あっという間に人々を洗脳した。
 そうして体全体に蔓延して、世界中に広がったのであるが、世界の人々の
 中からユダヤ的世界観に対する
免疫を持つ人々も現れよう。

 21世紀から22世紀にかけて、またユダヤ的世界観は、人々から離れていく。
 なれど、決して油断できない。
 なぜなら、人類の大部分は迷妄と愚鈍の内にあるからだ。

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● 信仰と科学@

 科学で理解できることなど、この世界の
ほんの一部に過ぎない。
 だから科学ですべてが理解できるなどとは科学者は言ってはいけない。

 科学も含めて、あらゆる学問に根拠を与えるのが、根拠律を有する表象である。
 その表象は4つ存在する。
 学問となりうる為に、これらの表象のいずれかの根拠から出発する必要がある。

 神や仏は、それらの表象の上のいかなる根拠からも導き出せない。
 だから、本来、神や仏を基礎にして始まる学問というものはない。
 神学は、人々がどのように神を行じ、仏を信じ、認識していたのかを述べは
 するが、神学自体が神を証明する何がしかではない。

 根拠律を有する表象を土台にして、そこから導きの糸で進んでいく行為が
 我々人間にとって知的正当性をもち、つまりは学問の対象である。。

 それでは神や仏は否定するものであろうか? 
である!
 根拠律を有する4つの表象のいずれにも、神仏があがらないからといって、
 それで
神や仏を否定することには、決してつながらない

 なぜなら根拠律を有する表象の上にあがる物は、この世のほんの一部である。
 我々が知的に語れる範囲は、
この世のほんの一部であり、限られている。
 芸術も信仰も、知的に語ることからは対象外の世界を有している。

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● 信仰と科学A

 だからこそ信仰は信仰として存在するし、もちろん存在して良い。
 その点において、信仰は尊ばれる必要がある。
 神や仏、その他の超越的な存在は信仰の対象である。
 科学で扱える領域ではない。

 であればこそ、また信仰もその教義を科学に持ち込むことは避ける事である。
 宗教の土台は論じることではなく、信じることである。
 あくまで、信仰は
信仰の範囲で留まるべきである。

 もちろん、宗教もたくさんのことは論じている。
 人に説明する必要があるから当然である。

 宗教をどれだけ論理的に論じようが、ある所から論理的に論じる事はできない。
 それが宗教である。仮に、宗教が全て論理的に論じることができたとしたらば、
 宗教とはなんとつまらないものであろう。

 確かに、知的に語れる範囲には限界がある。
 なれど、その知的に語れることさえ、人類はまだまだ語れていないのだ。
 だからこそ今後も学問に勉める必要がある。

 人間が知的に語れる、その最大限の限界に人間は、近づけてもいない。
 人間には勉めてやるべきことがまだまだたくさんある。
 人類が知れることの多くが、まだまだ解明されていない。
 その領域の中で、最大限に進むことが、つまりは学問の道である。

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 ● 互いの態度

 
神はいない!などと、科学者が大声でいうものではない。
 学問が根拠とする表象にあがらないものなど、この世界には無数にある。
 科学とは、超越的な存在についてあれこれ語る何がしかではない。
 科学は、根拠律に従って進む、あらゆる学問の見本である。

 
神の存在を知的に証明できる!などと宗教家がいうものではない。
 神や仏は、学問の対象でなく、最終的には信仰の対象である。
 根拠律を有する表象の上のいずれにも神や仏はあがらない。
 それらを語ることは我々人類にとっては、知的な正当性を有していない。
 神や仏は、それら人間の知的作業を超えて、信じるか信じないか、まさに
 それが問われるのである。

 学問の基礎に超越的なものを入れてはいけない。
 現代のアメリカでは、科学教育の分野に超越的なもの(インテリジェントデザイン)
 が入り込んできた。
 科学の基礎に超越的なものを入れれば、科学界に混乱を引き起こすだろう。
 超越的な存在を否定せず、まことに都合が良い科学的結果のみが選びだされ、
 採用されかねなくなるだろう。

 宗教が信仰で留まるならば、科学がどれだけ真理を明らかにし、どれだけ発展
 しようが、それによって神仏が否定されることなどは決してない。
 (もちろん、宗教が勝手に科学に入り込んで、真理から離れた一方的な解釈を
  押し付けている場合には是正されるだろうが・・・)

 確かに、
科学と宗教は相容れぬものではある。
 なれど科学は、人々のもつ神なるもの、仏なるものを否定する存在ではない。

 我々人類もまたこの大地によって生かされている。
 我々の奥に、美の基準があり、我々はそれを好み、近づこうと素直に欲する。
 大地の神々が、人間の諸行に怒り、天変地変を各地に引き起こすこともあれば、
 天上の神々が時折、人間に力を貸して、美しい作品と奇跡をもたらす事もある。

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● その名は科学者

 科学は自然の上に現れる物について、どこまでも詳細に理解を深めるであろう。
 なれど自然そのもの、自然の本質自体の理解はまるで進まない。
 自然の奥に潜む何ものかについては、人類は理解できない。

 我々の知性では、自然の姿を完全に理解することはできない。
 我々の知性にも、欠点があり限界がある。

 今後も自然は我々に予想もつかない形で、真理を見せるだろう。
 多くの科学者がモデルを作り、それを何度も実験して、検証し、そうして
 またモデルを修正して、そうやって地道に進む。

 その一歩一歩は、小さく感じるかも知れぬが、それが積み重なり、いずれは
 他の学問を圧倒する程の高みへと到達する。

 思い込みを捨て、知的正直さを受け継ぐもの。その名は科学者。

 未来の科学者よ!君達こそ
自然の声を聞く代弁者たれ!

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