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『1995年以降おじいちゃんの時代が終わった 』
情報化の発展はおじいちゃんの強みを奪った。情報集中・情報独占の喪失をもたらした。そしておじいちゃんは自由の身になった。
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科学とは |
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科学とは何かを知りたければ、物理学とは何かをしらなければならない。
物理学とは何かを知りたければ、物質とは何かをしらなければならない。
ここでは科学の基盤について述べる。
● 科学とは
科学の中心に位置する物理学とは、物質の作用を探求する学問である。
正確に言えば、我々人間の脳が描く表象上で、物質は作用として登場する。
その意味で、物質とはどこまでも作用である。物質=作用である。
そして物理学=作用の探究の学問である。
科学とは、その物理学の成果を、この世界で利用し再現することである。
物理法則というものは、いつの時間でも、どの場所でも、条件が揃えば
必ず同一の現象が発生する。
この確実性をもって科学は成立する。
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● 自然力と自然法則
自然力とは、それ以上、理由を突き止めることができないものである。
例えば重力や電磁力などである。
科学が発達して、それが重力を引き起こす要因を様々に言う事はできようが、
重力そのものがどうやってもたらされたかは言えない。
そのような原因を問うことができない自然力が存在する。
その自然力が、この世界の因果の系に入り込むときに課せられるルールが
すなわち自然法則である。
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● 科学の2つの道@
科学には大きく分けて2つの道がある。
1つの道は、さまざまな現象から、それらに共通する原因を探していき、
そのいくつかの原因を、さらにそれよりも少ない原因に結びつけて、最終的に
1つの原因によって、表現する道である。
これが科学の中でも、物理学の進む道である。
もう1つの道は、そのような普遍的な1つ、またはいくつかの力から、
植物がもたらされ、生命がもたらされ、昆虫、動物、人間にまでつながった、その
流れの痕跡を探る道である。
植物、昆虫、動物など、これほど多様な生命の広がりが、何ゆえもたらされた
のかを調べる道である。
これが科学の中でも、生物学が進む道である。
この2つの道の間に存在する科学が、ばけると書く化学である。
化学は、物理学とも共有し、生物学とも共有する部分を持っている。
生命が生きるために行う吸収、消化、排出には、化学的知識が欠かせない。
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● 科学の2つの道A
科学はシンプルな原因に還元しようとする物理学。
無機物から有機物、そして生命という複雑で多様な結果をもたらした意味を
探る生物学。その2つを橋渡しする化学。
これらの3つを大きな柱にして科学は、構成される。
単純な原因へと進む 多様で複雑な様相の理由を探る
← ← → →
物理学 化学 生物学
工学 地学、医学
この3つと関係をもって派生されるものは多数存在する。
自然環境、気候を調べる地学、物理学の成果を応用し役立てる工学、
人体に特化した医学、などなど特化、専門化した形で様々に存在する。
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● 先験的感性論と科学
自然法則は、いつでも(時間)、どこでも(場所)、条件が整えば現象を再現する。
これこそ科学の強みであり、科学の正確無比はここにある。
またこの点は以下のことに関連する。
物質の本質には、時間と空間は含まれない。
物質に時間と空間のルールを適用するのは、あくまでも我々の脳である。
我々の脳が表象上に物質を表現する時に、時間と空間の形式を適用する。
世に名高い、カントの先験的感性論である。
カントの登場は、天才とは何かを人類に知らしめた
イマヌエル・カント
物質は、直接、時間と空間の影響を受けることはない。
200年以上前に、天才カントによって述べられた。
先験的感性論の正しさはこの点からも推し量られる。
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● 物理学と数学
数学は、ア・プリオリを基礎とする学問である。
物理学は、ア・ポステリオリを基礎とする学問である。
ア・プリオリとは、先天的に備わる認識のことである。
ア・ポステリオリとは、後天的に、経験により知りえたことである。
数学は基本的にア・プリオリの認識を土台にして始まる。
数学では、ア・プリオリな認識を土台にして論理によって積みあがっていく。
数学において、その正確さは際立つ。
物理学は、実験して検証して経験的に、それが正しい法則であると確信する。
物理学は、ア・ポステリオリの認識を土台にして、自然の法則を解明する。
万有引力を、我々人類は経験的に知った。
これからも科学の発展により、いまだ人類に知られていない自然の法則に
ついて人類は知ることができるだろう。
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● 根拠と帰結
科学は、根拠から推論して進んでいく学問ではなく、帰結から根拠へと
遡る学問である。それゆえに科学には、誤診が入り込む。
科学の進む方向
-----------------------------
× 根拠 → 帰結
○ 根拠 ← 帰結
だからこそ、科学には誤診はつきものなのである。
間違いをせずに進めたものなどはいない。
イメージモデルを仮定して、それを検証して、誤りは修正していく作業が
科学は必要となる。
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● 自然科学と誤診@
帰結から原因を探る自然科学においては、誤診が入り込む。
物理学において、自然法則が式どおりに成り立っていても、ある時期に
それに当てはまらない現象が起きれば、それを説明する為に、新たな式を
模索する必要がでてくる。
当てはまらないものが出てきたときには修正が要求される。
アポステリオリを基本とする物理学においては、こうやって式が作られる。
これはア・プリオリを基準とする数学と異なる所である。
数学は、根拠から帰結へと進んでいく。
よって数学には誤診が入り込まない。
数学においては、過去に正しく証明されたものが、未来において
ひっくり返されることなどはない。
2000年前以上に発見された三平方の定理は、現在でも現役であり、
オイラーの定理も、ガウスの発散定理も、とても有効なものである。
数学において、証明されたものは覆らない。
(証明そのものに間違いがあるのは、誤診と言うのではなく、失敗というのだ)
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● 自然科学と誤診A
ア・プリオリな数学と異なり、科学はア・ポステリオリを土台にする。
自然科学の発展に誤診は付き物である。
帰結から根拠を推論するのが自然科学であるからである。
自然科学はそれで矛盾なく解釈できていても、現実において、新たな矛盾が
発生すれば、それを包括する新たな形を模索する必要に迫られる。
200年以上前に、ショーペンハウアーがこう述べている。
『 すべて誤診は帰結から根拠への推論であって、この推論は、帰結が
その根拠をもち、絶対に他の根拠をもちえぬことがわかっているときは
なるほど妥当するが、そうでない場合は妥当しないということである。』
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● 物理学と無機物の世界
物理学とは作用の学問であることは述べた。
その作用は時間、空間、因果性のルールの適用に従っている。
その作用が起こると何かの他の作用が起こる。
つまりある変化の前には、それ以前に他の変化が必ず存在する。
そうやって数珠繋ぎのごとくに因果の系がつながる。
作用を受けた場合に何かが反作用を受けることを前提に考えることは
物理学においては必須である。
これがある為に、物理法則は様々に展開していくことができる。
無機物の世界は確かに、作用=反作用が成り立つ世界である。
なれど作用=反作用が成り立たない世界も存在する。
有機物の世界である。有機物の世界において、作用≠反作用である。
地面に水をまいただけで植物が葉を伸びていくことは、理解しがたい。
さらに、昆虫の体をつついて見るがよい。
昆虫は羽根を広げて空を舞うこともあるし、じっとうずくまる時もある。
作用≠反作用がまるで成り立たない世界である。
作用 = 反作用 無機物の世界
作用 ≠ 反作用 有機物の世界
物理学は、作用=反作用が成り立つ無機物の世界を対象とする。
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● 作用=反作用を前提にする物理学
物理学にはおいて作用=反作用、つまりニュートンの第3法則が成り立つ事
は重要である。現代の物理学は、作用=反作用を、必須の前提にしている。
物理学は、この拘束下の世界について探求を続け、大きな成功を収めてきた。
多くの保存式が利用できるのも、これが為であり、物理学が科学の要である
のもこれが理由の1つである。
作用=反作用が成り立つ世界の探求においても、原因が多数に増えて
混ざってくると、途端にその結果を予測するは困難となる。
川の上流から、葉っぱを流して、川の下流のどの場所に、いつの時間に辿り
つくかは現代科学ではお手上げである。
確かに作用=反作用が成り立つ世界ではあり、因果の系となって繋がって
いるのだが、予測することは現代科学では不可能と言える。
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● 因果律とは何か
ここで良く使用される言葉、因果律について一言述べておく。
この言葉は、あらゆる時代に使われてきたが、様々な意味が付加されて
使われてきた。
しかし因果律の意味は、以下を表しているに過ぎない。
"何かの変化の前には、他の何かの変化が必要である"
因果律の意味は、これ以上でもこれ以下でもない。
後は、この因果律がどのように場面に適用されるかという事である。
因果律が適用されるのは物質の変化に対してであり、物質そのものではない。
因果律は物質の変形・変化、つまり物質の形式に関わるのであり、
物質そのものに関わるのではない。
因果律は、物質そのものに影響を与える何がしかではない。
あくまでも物質のもつ形式に関わるだけである。
因果律は、我々の表象において現れる。
表象上に現れる物質が特定の場所、特定の時間が定まることにより因果律が
適用し、その変化の結果を我々の表象は捉える。(生成の根拠律ともいう)
物質の形式が変化して、物質は消滅や生成したように見せるが、
物質は、決して消滅も生成もしない。我々の表象上の物質のあらゆる変化は
因果律の適用を受けているが、因果律自身は物質とは関係しない。
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● 因果律と物質
因果律は物質の変化のみに関係し、物質の生成や消滅には関係がない。
因果律は物質の形式にのみ関連している。
目の前に見える物質が変形・変化したことを人間は捉えるが、いまだかつて、
物質が消滅したことを見た人間などいないのである。
また何もないところから物質が生成したのを見た人間もいない。
そもそも、我々の表象は、因果律によって変化の結果を随時捉え、
表象上に現象を随時、表現しているのである。
無から何かが生成したということは、我々の脳は考えられないし、
それゆえ我々の脳がそれを捉えることもないのだ。
物質自体は、消滅もしないし生成もしない。
消滅や生成したように見えるのは、あくまでも物質の形式においてであり
物質そのものではないのだ。
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● 無からは生成しない@
そもそも無から何かが生まれてくる物質はない。
なぜなら我々の表象(直覚的表象)には因果律が適用されており、
何度も言うが因果律とは、何かの変化の前には必ず他の変化が伴うことを
前提にする。
もし仮に、無から何かが生成するとしたならば、その何かが生成する変化の
以前に他の何かの変化が必要となるのである。
その以前の何かの変化は無ではない何かにならざるおえない。
それゆえ無から生成することはない。
仮に無から生成する何かがあれば、我々の脳はそれを表象の上に捉えること
はできない。我々人間の脳の表象は、因果律の適用を受けている。
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* 後で述べるが直覚的表象とは、人間が有する表象の中で、
根拠律を有する4つの表象の1つであり、他の表象の大元になるものだ。
● 無からは生成しないA
この事について、もう少し詳細に、丁寧に述べておく。
あなたが信仰の上において無から物質が生成すると述べる事は自由である。
信仰においてであればである。
なれど科学において、学問においてそういうことはなんらの正当性がない。
なぜならあらゆる学問は、直覚的表象を基礎にしているからだ。
直覚的表象が有する根拠律こそが因果律であり、あらゆる学問が
利用する表象は、その直覚的表象を大元にしている。
特に直覚的表象を舞台にする、あらゆる自然科学は、因果律を無視して
形成される何がしかでは決してない。
この自然に対して人間が知的にアプローチするという意味には、
因果律の前提が既に含まれているのだ。
それゆえに無から物質が発生するなどということは知的になんら根拠がない。
科学が対象とするあらゆる物質が因果律の適用を受けている。
仮に、因果律の適用を受けていない物質などがあれば、それはもはや我々の
直覚的表象は捉えることなどできず、つまりその何物は、我々人間の知的な
対象にはなりえない。
そうしてその何物かは、我々が知る物質とは大きく異なり、また我々が物質と
呼びうるものとは大きく隔たり、物質とも呼べないということである。
再度述べるが、物質が無から生まれたとあなたが信仰として述べるならば
それは自由である。なれど同時に、今そう述べたこと自体が、我々人間にとって
知的正当性を持ち得ないということを知ることである。
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● 物質の不滅性から導かれるもの
物質は、消滅もしないし生成もしない。
物質は、不滅性をあらわす。
ここから2つの系がア・プリオリに導かれる。
慣性の法則と物体の持続である。
物体の静止していても、あらゆる運動をしていても、それを変化させる為には
力が加わらなければならない。
反対にいえば、力が加わらない限り、静止しているものは静止したままで
動いているものは動いた状態を続けるということである。
これは、物理学で慣性の法則と呼ばれるものである。
その物体自体は無限の時間にわたって持続するということである。
もう1つは、物質(実体)は決して消滅もしないし増加もしない。
これは物理学ではエネルギー保存則(または質量保存則)
と呼ばれるものがこれに該当する。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の一流科学者の為の哲学 』 『 稲穂黄金の究極の科学 』
● 物質の作用と人間の知性
物質は、我々の表象上でどこまでも作用であると述べた。
物質の作用と人間の知性には関連がある。
我々人間の知性は、脳の表象が上に根拠をもつ。
他の項目で詳細に述べているが、我々人類が根拠としている表象は4つあり、
いずれも時間、空間、因果律の適用を受けた表象である。
この上でこそ知性は根拠をもつのであり、この4つの内の代表的な表象、
直覚的表象において、物質は作用として展開するのである。
つまり人類の知性が優れれば優れるほど、物質の作用は、ますます詳細に
我々に展開される。
表象を中心にして考えれば、右に物質、左に知性の配置になる。
知性 ← 表象の世界 → 物質
知性と物質は相補的な関係にある。
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● 因果律は何ゆえに存在するのか?
何ゆえ因果律が要請されているのか?
そもそも何ゆえに因果律が存在するのか?
もし仮に、物質があらゆる現象を同時に表現することが可能ならば、空間として
並列して表現することが可能ならば、そもそも因果律は不要であろう。
何かの変化の前に、他の変化が存在する必要性もなかったであろう。
物質は、時間と空間の結合からなる。
その物質に、自然の諸力の現象が占有しようとする場合の限界が因果律。
つまり時間と空間と、自然力が物質の所有を分け合うさいの限界を規定する
ものが因果律なのである。
時間 →
↓
=== 物質 ←←← 自然の諸力(自然力)
↑
空間 →
因果律はこれらの分け合う歳の限界を規定する
時間と空間、そして自然の諸力が物質の所有を分け合う場合の限界を
どのようにするか?
それを規定することが必要であり、そして規定するものが因果律である。
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● イデアと現象、そして自然法則@
ある物質は、その物質を決定づける性質を有している。
それは個別的ではなく、物質ごとにその奥に静まった型を有している。
それが形相であり、プラトンのいうイデアである。
イデア
↓
イデア → 物質 ← イデア
↓
↓ 何れかのイデアが占拠
↓
イデアに沿った現象を展開する
イデアがその性質を展開させる舞台こそ物質である。
イデアからすれば、物質とは、そのイデアの型を展開できる格好の場所である。
各々のイデアによって物質は奪い合いとなる。
それにより様々な現象が起きる。
この時に時間、空間、因果律が適用される。
物質には無数の現象がもたらされる。
それは、順番となって現れる。複数の形相が同時に適用されもするが
その場合にはさらに規定が増える。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の未来の芸術家へ 』
● イデアと現象、そして自然法則A
水は気体になることも、液体になることも、個体になることももできるが、
気体であって同時に個体の状態にはならない。
氷であって同時に水蒸気にはなれない。
鉄の重りが重力に従って落ちては行くが、その途中に強い磁石があれば
直ぐにも鉄は落下を止める。その鉄においては今度は、磁気の舞台となる。
その現象によって支配されたときはそれに従う。
それらの現象における規則性が自然法則である。
自然法則は、イデアと、現象の形式とのあいだの関係である。
イデア(形象)
↓
物質
↓
↓−−−−(規則)−− 自然法則
↓
現象
プラトンのいうイデアは、そのような形相の諸段階のすべてを言う。
自然力は、それらのイデアの1つの段階を現す。
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● 自然の深遠さ
自然は、我々にどこまでも深遠さを見せつける。
我々の知性で、この自然のすべてを解明できる保証などはない。
確かに、我々は自然の上で生きる為に、ある程度、自然の形式を備えはしたが
だからいって、それで自然のすべてが理解できるわけではない。
なぜなら、我々人間の知性の形式に沿って、自然があるわけではないからだ。
この点について未来の科学者は、決して忘れてはいけない。
この点に関して量子力学を切り開いたニールス・ボーアはこう述べている。
『 自然がいかにあるかを見出す事を物理学の任務だと
考える事は誤りである。物理学は我々が自然について
何を言うことができるかに、関するものである。 』
ボーアの言葉を科学者は忘れてはいけない。
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● トルストイの科学者への苦言
トルストイは、未来の科学者に対して、実に良い苦言を与えている。
彼は、この中でこのような趣旨を述べている。
物理学は力が何かは考えない。化学は物質は何かは考えない。
生物学者は生命とはなにかという事には深入りしない。
科学とは本来そのようなものであるから、その意味で有害ではない。
そんな科学であるのに、一部の科学者の中には、まるで生命の本質を研究
しているとか、物質の本質を研究しているなどという者達がいる。
それらが偽りの科学者である。彼らこそ、まさに関係や形態しか見ていない
のにそうだと、信じきっている。 とトルストイはそのように語っている。
『人生論』 トルストイ
” 物理学は力の法則や関係について語るが、力とは何かといった問題
に深入りしないし、力の本質を説明しようともしない。
化学は物質の関係を説くが、物質とは何かといった問題に深入り
しないし、物質の本質を規定しようとも試みない。
生物学は生命の諸形態に語るが、生命とはなにかという問題に
深入りはしない、生命の本質を規定しようと思わない。
〜 〜 〜 〜
本当の科学はこのように対象を見ているから、こういう科学は大衆に、
無知の世界にひいき戻すような有害な影響を与えるはずがない。
〜 〜 〜 〜
しかし賢しらぶった偽りの科学は対象をこのように見ない。”
トルストイの主張はもっともである。科学者の中にはまるで生命の意味を
探究していると勘違いしているものも多いし、また宇宙を見ればこの世界の
本質が知れるなどと考える者達も多く存在する。
しかし、これはとんでもない間違いである。
望遠鏡をのぞいても、つまり遠くを見ても、何か本質に迫れるわけではない。
資本主義の流入によって、多くの人々が信仰を捨て、経済的利益に邁進して様を
まざまざと見た青年時代のトルストイ。ここから本来の人間像とは何かを求める彼の
挑戦が始まった。彼は彼の人間像を創り上げ、それを文学で表現した。立派である。
トルストイ
動画 テキスト
* トルストイの語っている内容は、もっともなことであり、わかりやすい文章で
あるが、トルストイは、あのショーペンハウアーから学んでいたので、
まあ、このぐらいは言えるだろう。
● 根拠と想定、そして科学
科学者は、抽象的表象の上で様々に創造して、自然法則を考えるのであるが
それが時に、なんの根拠をも考えずに、闇雲に想像して、てんでバラバラな
話をする人も出てくる。
例えば、ある科学者は、物質が空間と時間を飛び越えて作用するなどと
簡単に言うが、そもそも物質とは、我々の表象上で時間と空間が適用された
ものをいうのに、そのような姿とは懸け離れた粒子を想定することは
何を根拠に考えているのだろうか?と思わずには入られない。
これらの科学者は、何を根拠に語る必要があるのかを理解していない者の多い。
またタイムマシンの話がでてくると、色々な仮想の粒子が想定されて語られる
のは結構ではあるが、物質が作用するのはあくまでも物質
である点は忘れないことが必要である。
物質とは、時間と空間、因果律が適用された我々の脳の表象上(直覚的表象)
に登場するものであり、その表象を上に乗ったものだけが我々の知性の
対称である。
もちろん、思考の場である抽象的表象では、様々なイメージを思い浮かび
あげることができるが、直覚的表象ではないので多くの根拠がない為に
自由気ままな空想が広がりすぎるきらいはある。
まあ、これらも含めて、物理学の特徴でもあるので、これ以上はあまり
言わないことにする。
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● 信仰と科学@
科学は、因果律を大前提にする。
科学は知性によって構築される学問に属する。
知性によるならば、必ず根拠律を有する4つの表象のいずれかの根拠を
導きの糸としてつながる必要がある。
この4つの表象のいずれかかに繋がらないものは、人間にとって論的な
正当性をもつことにはならない。学問の対象には決してならない。
神や絶対者などのは信仰に属する。
神や絶対者などは、根拠律を有するいずれの表象からも導けない。
それは人間にとって、論理的に正しいとか正しくないとかの判断を下すことが
できない対象である。
それらは、ア・プリオリでもなく、また同じ条件下で必ず同じ現象がもたらされる
自然科学のような確実なア・ポステリオリでのない。
学問が絶対者や神から始まることなど決してない。
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● 信仰と科学A
もちろん、この世のことが根拠律を有する4つの表象上に昇るわけではない。
人間の知性などたかが知れている。
この世界には、人間では決して理解できないことが多々含んでいる。
自然の本質さえ人類はわからないままである。
だから神や仏、はたまたそれに関する信仰全般について、根拠がないなどとは
決していうつもりはない。
人間の表象上に昇らないものも、この世界にはたくさんある。
なれど、再度述べるが、我々人類にとって、それが人類にとって知的に正当性
があるといえるのは、根拠律を有する4つの表象のいずれかで判断されて
その判断が正しいと認められたものに限る。
人間の知性で理解できることは、この世界のほんの1部にしか過ぎない。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の未来の学者へ 』 『 稲穂黄金の未来の神霊家へ 』
● ほんの一部分を知れるだけ
何度でもいうが、人間は自然のすべてを理解できない。
我々人類は、自然の上に現れるものについては、どこまでも理解を深めるが
自然そのもの、自然の本質自体は、まるで理解できない。
自然の本質は、いつまでも理解できずに未知のままであり続ける。
我々の論理的思考の源泉、さらには学問の源泉である4つの表象を用いて
理解できることなど、この世界のほんの1部に過ぎない。
我々がこの4つの表象のいずれかを用いて、最終的に証明されたことしか
論理的に正しいという権利がないが、そのようなものはこの世界のほんの1部
である。
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● 人類史上最高の天才ショーペンハウアー
このサイトで述べる内容のほとんど多くをショーペンハウアーに負っている。
彼こそ、まさに人類史上最高の天才である。
近代の真に優れた物理学者、生物学者などの多くの科学者が彼から学んでいる。
人類史上最高の天才ショーペンハウアー
彼は、20世紀に量子力学が表にでる100年以上も前に、量子力学が登場
してきても科学者が困らないように、多くの考えを残している。
ニールス・ボーアを系譜とするコペンハーゲン解釈が生まれたのも、
ボーアがショーペンハウアーから学んだ為である。
またボーアが相補性という考えを提出したのも同様の理由なのである。
だが多くの科学者はそういう過程があったことを知らない。気付けないのだ。
近代に名を上げた優れた科学者の背後にショーペンハウアーという知の化け物
が控えているのだ。
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