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『1995年以降おじいちゃんの時代が終わった 』
情報化の発展はおじいちゃんの強みを奪った。情報集中・情報独占の喪失をもたらした。そしておじいちゃんは自由の身になった。
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未来の科学 |
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ここで述べることは科学の分野においては特にに重要である。
人間が科学的アプローチをする上で、つきまとう問題であり、人間の知性の特徴
を知ることにつながる。21世紀の科学者は、この理解は必須である。
● 差異がもたらすもの
ここでいう差異とは、直覚的表象と抽象的表象の差異である。
人間が学問を行う上で多くの欠点も、この差異に原因がある。
その意味で、直覚的表象と抽象的表象の差異を、理解することは
未来の科学者には特に必須である。
この差異こそ、科学が観察によって確信を得る直覚的表象と、あらゆる思考、
すなわち数式、方程式の土台となる抽象的表象の2つの差異である。
多くの科学者が、この点について多くの混同をしているのである。
直覚的表象には、その根拠が確かにあっても、それが抽象的表象にも
根拠があるのだと勝手に思い込み、混同することとなるのだ。
該当する根拠律が適用されない表象で、その根拠律が適用されていると
盲信してしまうことが、多くの問題の原因なのである。
以下、直覚的表象と抽象的表象の差異に、多くを費やし説明している。
動画 テキスト
● 時間と空間、そして科学
物質に、時間と空間と空間を適用しているのは我々の脳である。
時間と空間の形式は、我々の脳が保有し、脳が描く表象の世界の上で物質は
そのように現れている。
世に名高いカントの先験的感性論である。
これゆえ物質は、いつ(時間)でも、どの場所(空間)であっても条件が一緒で
あるならば同じ現象を示す。
条件がまったく一緒であるのに、場所で違うという理由だけで、現象が異なる
ならば、どの場所で実験を行うかに科学者は神経を使わねばならない。
条件がまったく一緒であるのに、時間によって現象が違うというなら、
科学者は、いつのタイミングで実験を行うかに神経を使わねばならない。
時間や場所に影響を受けるならば、科学者はおちおち実験などしてられない。
そうであれば、あらゆる科学の土台が崩れることになる。
なんで、こういう事をいうのかというと、未来において科学を志す若者に
何を土台にして考えるべきかを知って欲しい為である。
動画 テキスト
● 同質性と対称性@
どの空間、どの時間であっても、同じ条件であるならば同じ現象を起こす。
(量子力学ならば、可能な取りうる現象の1つを引き起こすと言ってよい)
空間、時間の同質性と、これから話をする対称性の話は、関連があること
ではあるが、伝えたい内容は、根本的には異なる話である。
この世界は多くの保存則が成り立つこと(エネルギー保存則、運動量保存則、
角運動保存則、電荷保存則)が経験的に知られている。
これらが成り立つ為には、物質の最小単位とみなされる素粒子においては、
当然、対称性が存在するだろう!左右であれ上下であれ違いはないだろうと
いう事から、対称性の話は始まっている。
科学者が、こう考えたのも自然で的確な判断である。
そうして科学者は、頭の中でイメージして、素粒子のモデルを左右反転して
特に矛盾もないということで、それが当然、成り立つと考えた。
しかし、その結果は量子世界においてはパリティ(左右対称)が破れることが
あることがわかった。
動画 テキスト
● 同質性と対称性A
このサイトで述べたい話の核心部分はここからである。
ここでもっとも注意すべきは、科学者が頭の中で漠然と原子や素粒子をイメージ
して、その中で移動させて、矛盾がないだろうと納得しても、そこにはそもそも
それが正しいと言える保証は、どこにも存在していないのである。
人間は、眼前の世界で起きていることを、再度、頭の中でイメージして
それらを同じように描きなおすことはできるが、その時のイメージには
色々な根拠がついてこないということなのである。
科学において観察は、直覚的表象の舞台であるが、それを思考、イメージの
舞台である抽象的な表象に移したときに、直覚的表象が有していた根拠
のいくつかが抜け落ちて、抽象的表象に引き継がれるということだ。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の究極の科学 』
● 直覚的表象と抽象的表象@
我々が実際に眼前に見ている表象、つまり現象を観察する直覚的表象には
様々な自然現象が現れる。引力、電気、磁気、化学的結合など関わり
物質はそれに影響をうけて運動、変化を行う。
変化により、物質は以前とは異なる状態へと遷移する。
直覚的表象は、そうして表象内の、ある時間、ある場所(空間)にて様々な物質
の変化を捉える。直覚的表象には、因果律が適用されているのだ。
だからこそ、直覚的表象は、様々な現象を描くのである。
我々の直覚的表象はそうして、変化した状態を刻々に捉える。
しかし、今度はそれを思考・イメージの舞台へと移してみよう。
つまり抽象的表象に舞台を移してみると、そこでは特定の時間や特定の場所
の意味がなくなる。
確かに、それによって抽象的表象は思考の幅を広げる。
我々は抽象的表象の上で、どの時間、どの場所に限定されることなく自由に
考えることが可能になった。
しかしそれゆえに因果律(=生成の根拠)を失うことにもなっている。
特定の時間、特定の場所を放棄する事で因果律を失った。
直覚的表象 → 抽象的表象
-----------------------------------------------------------
特定の場所、特定の時間 任意の場所、任意の時間
↓ → (+)思考の対象幅が広がる
因果律 → (−)因果律の適用を失う
これに気が付かない為に、我々は思考の上で想定したものが短絡的に正解
だと考えて、これと異なる結果がもたらされると、”エッ ! !”とその相違
に驚くという事になるのだ。
動画 テキスト
● 直覚的表象と抽象的表象A
ショーペンハウアーが以下のように的確に述べている。
彼は量子力学などまるでなかった200年以上前に、このように驚くべき
ことを述べているのだ。
『 直感的な自然を離れて抽象的な思考作用へと移ってみよう。
それすれば我々人間は、反省においてあらゆる自然法則を表象する事
ができる。この抽象的な表象には、自然の中で何らかのときに、
何らかの場所にある全ての物が含まれるが、特定の場所、特定の時間
におけることはすべて度外視されている。』
彼は続けてこう述べている。
『 それゆえ脳の抽象的な表象を通して、人間は広大な可能性の領域に
踏み込めたのであるが、この表象に根拠をもたない、特定の場所、
特定の時間、また、それ以外でも、この表象に所在をもっていないもの
に対しては、不可能なものなのである。』
彼がそう述べてから、150年以上もたって、科学者は、素粒子の世界でまさに
この点を、まざまざと思い知らされているのだ。
動画 テキスト
● 量子力学と抽象的表象
パリティー(左右反転)は対称性が成り立つと頭の中で想像した科学者。
確かに頭に素粒子を描いて、左右反転(鏡像変換)しても違和感はない。
しかし量子世界は、パリティの対称性が崩れることがあることを示した。
(パリティの保存則が破れるという)
素粒子には回転方向があり、左右反転すると、その回転方向が反対になり
その回転方向に伴い発生する力の方向が逆になることがある為である。
それらのことは、頭の中で思考しようが、つまり抽象的表象でいくら描こうが
実際の観察(実験)によってしか得ることはできない。
もちろん、その実験の結果、新たに知れたものを、それを考慮に入れて、
再度、脳の抽象的表象でそれらを描くことは可能であり、まったく問題ない。
しかし、また何か新たな他の条件(=作用)が欠ける事はいくらでもある。
左右反転(鏡像反射)は対称性を伴わない事があるのが示された。
それならばと、今後は、異なる上下の力の放出をあわせるべく、すべての
電荷を反対にした反粒子なら、辻褄が合うだろうと想像した。
CP(左右反転+電荷反転)のなら対称性が成り立つのではと考えた。
(CP=C(電荷反転)+P(パリティー))
イメージで、そのように考えも確かにどこにも問題は見当たらない。
なれど、素粒子の世界においては、CP対称性も破れることがある事を示した。
図入りで説明がわかりやすい本が多くなっている。
動画 テキスト
● 想定と異なる作用が含まれている
根拠がどこにもないのに、いつの間にかそこに根拠があるように思ってしまう。
抽象的表象の上では、それが当然できると思っていたが、実際にはそこに
根拠がないのに、そうだと思い込んでしまうことがあるのだ。
確かに抽象的表象で考えたことが、そのまま現実の中で適合することもある。
弱い力でないところでは、保存則が成り立つ。
なれど、それがそうなるという根拠は、抽象的表象の
どこにも存在しないのだ。
抽象的表象は、もっとも重要な根拠律である因果律が置き忘れられている。
確かに頭の中の抽象的な表象の上に描くと、パリティ(左右反転)の保存も
CP(左右+電荷反転)の対称性も成り立つように見える。
抽象的表象で操作して考える上では、特に違和感はない。
なれど実験の結果、量子世界は、CP対称性が破れることがあることを示した。
ここで言えることは、パリティにしてもCPにしても元の状態とは異なる何らかの
作用(条件)が存在しているということである。
仮に、その粒子を単に平行移動したとすれば、それは同じように振舞う。
変化(作用)が入り込んでこないのであれば、単なる場所と時間による差異
だけでは、何かが変わるというのはない。
これは、もちろんア・プリオリな認識ではないが、2つの根拠により確かである。
動画 テキスト
● 空間、時間に依存しないこと関して@
偉大なる天才カントは、この世界の現象が、時間と空間の差異はまったく
拠らないことを示そうとした。カントはそれを、根拠律から導こうとして色々
述べていたが、それらはいずれも苦しい説明であった。
根拠律からこの世界の空間と時間が均質な現象をもたす事は説明できない。
なぜなら存在の根拠律(=因果律)は、直覚的表象の上で、この時間、この場所
における物質のもろもろの変化を保証しているだけだからである。
ここに起こった現象が、場所を変えても、それにより差異が生まれないことを
保証するものではない。
単なる空間と時間の差異によって、何かの現象が影響を受けることがないこと
が言えるのは、以下の2点を根拠から明らかである。
1つ目は人間のア・プリオリな認識(不可入性、慣性の法則、物質の不滅性)
などにおいて、時間と空間の相違が、まるで意識の上には上がっていない事。
2つ目は、人間の経験的なアポステリオリな認識の内で、もっとも普遍性が
ある自然法則において、時間や場所における差異などはまったく示してはなく、
また様々な保存則が成り立っていること。
この2つの点を根拠にして、空間、時間だけの差異によって何らかの現象に
差異が発生することはないことを確信するのだ。
つまり時間と空間の等質性が確かであると確信するのだ。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の究極の科学 』
● 空間、時間に依存しないこと関してA
カントは、空間の位置や、いつの時間などに拠らないことを根拠律から証明
しようと懸命になって論じていた。カントはこう考えた。
究極的な部分があって、その部分から全体を構築して、それゆえにこの世界
には均整があるのだと考えた。カントはとりわけ、均整を好んだ。
250年以上前に、カントが真剣に考えたことは、苦しい説明であり、それは
徒労に終わったのであるが、真の哲学者とは、こういう事を誰よりも深い
レベルでトコトンまで考える人々である。
真の哲学者のレベルは、とてつもない高みにある。
200年以上前に、ここまで深く考えていた。これが本物の哲学者というものだ。
カント ショーペンハウアー
科学者の多くは、空間と時間には等質性があり、空間と時間の差異に
拠らない為に保存則もそうであろうと考えた。
科学者がそう考えたのも自然であり当然であった。
その系として対称性があり、科学者が、対称性にこだわるのももっともである。
動画 テキスト
● 何かの異なった作用が存在する
素粒子の世界において対称性が破れたのは、空間や時間の差異ではなく
何か違った条件が作用を引き起こし、影響を与えたことを示している。
条件の差異にではなく、単なる空間と時間の差異によって、自然法則が影響
を受けるなにがしかだったとするならば、すべての法則の式の中に、時間Tと
座標位置(X,Y,Z)、そこに関連する係数αが含まなくはいけない事になるだろう。
そうであれば、物理学者はおちおち、勝手な場所で実験ができない事になる。
もちろん、そのように考える科学者はいないであろう。
影響を与えた何ものか知られていなくても、条件の違いにより結果が異なったと
考えるのが科学者であり、それゆえに探究を続けるのである。
これが否定されて、空間と時間の差異が、影響を及ぼすなどということに
なれば科学者は廃業の憂き目に合うだろう。
動画 テキスト
● 科学者の不安
なぜ、今まで、このような事をくどくどと説明したかといえば、量子世界を前に
して科学者の顔から、いくつかの不安が垣間、見れるからだ。
科学者は何を根拠に考えるべきかの土台を失っている感がある。
この時に大事な事は、何を根拠にして考えるべきかということを明示する事だ。
これらの仕事は、本来は哲学がするべき仕事であった。
哲学が、科学にできうる貢献が本来はこれであるはずであった。
だが19世紀以降に多くの偽者・似非者達が哲学の名を借りて登場した事
により、哲学は失墜し、堕ちるに堕ちた
何が根拠になりうるか?何を根拠に考えていけるべきか?
さらに、人間の認識は、どのような誤診が入り込みやすいか?
これを提供できるのが真の哲学だけである。
未来の哲学が、科学に対して貢献できるのもこの点である。
科学者の不安の払拭するべく根拠を整理し、科学者達によって有益と
なるうる正確な情報を出すことを、哲学は求められている。
動画 テキスト
● 哲学的意味を知らない安易さ@
例えば、質量保存の法則を語る場合に、素粒子の世界で
質量とエネルギーの間で若干揺れ動き、厳密な意味で質量保存則は
成り立たない事があるのをもって質量保存則は、成り立たないなどと
安易に言う科学者がいるのである。
こういう科学者の多くは、何がア・プリオリなのか、何がア・ポステリオリなのか
をまるで理解していない。
そうやって安易に発言することが、どれだけ多くの若い科学者に、誤った情報を
与えてしまうのだという配慮がないのである。
多くの科学者は、これの意味にまったく気付いていない。
大前提としてア・プリオリは揺らがないという事を
最初に述べておく。物質の不滅性は、我々にとってアプリオリな認識である。
これに対して物質ならば質量を有することはア・ポステリオリな認識である。
ただし、あらゆるアポステリオリの認識の中でもっとも確実な1つである。
というのも崖から落ちてきた大きな岩を避けない動物などいないからである。
動画 テキスト
● 哲学的意味を知らない安易さA
物質の不滅性は、まったく揺らいでいない。
量子世界において、質量保存則が、時に近似的に成り立っていることは、
なんらア・プリオリを揺らがせるものではない。
哲学的な面から見れば、至って明瞭である。
つまり質量+エネルギーでみれば保存則を保っているのである。
ア・ポステリオリから見ても同様である。
質量とエネルギーの間で、時に若干、揺れ動くことはあっても、常に質量保存
が成り立つ事を中心に近似しているのである。
物質ならば質量を帯びるという経験的認識、 つまりア・ポステリオリの確かさを
裏付けているのだ。
何度もいうがア・プリオリは揺らいでいないし、ア・プリオリは揺らがない。
ア・プリオリは先天的に備わった認識であるのだ。
それを否定することは認識そのものを否定することになるだろう。
仮に将来において、質量+エネルギーにおいて保存則が成り立たずに、
何か他のものに、若干揺れ動いたとしよう。
つまり質量とエネルギーの他の●●や■■に状態が移行したとしよう。
そうなった時に、再び科学者の中から、”エネルギー保存則は成り立たない事
があるから、物質は生成や消滅することがあるだろう!” などという安易な
発言がきっとでてくることだろう。
その時は、こう言えば良いだけである。
質量+エネルギー+●●+■■において保存則が成り立つと。
つまりまったく物質の不滅性は、揺らがないのだ。
反対に、物質が消滅もせず生成もしないこと、物質の不滅性の確かを再度、
証明したようなものである。
今、知られていない何かしらの状態に移行するだけで、全体としてはまったく
保存則は揺らいでいないのだということは、物質の不滅性を強めはすれ
弱めることはないのだ。
つまりア・プリオリの認識の確かさを単に強化したに過ぎないのだ。
動画 テキスト
● ア・プリオリは揺らがない@
再度述べる。ア・プリオリは揺らがない。
またア・プリオリは、まったく揺らいでもいない。
例えば、以下のものはア・プリオリである。
物質の不滅性/慣性の法則/不可入性/分割可能性/・・・・・etc
物質が不滅だというのは、我々の直覚的表象が有する因果律が、物質そのもの
に関わるのではなく、物質のもろもろの変化にのみ関係するからだ。
我々の脳の直覚的表象は、もろもろの変化の結果をを捉えているに過ぎない。
もう一度述べる。
因果律とは、そもそも物質の変化にのみ対応する。
因果律は、物質そのものとは無関係である。
物質は我々の前で消滅、生成したように見えてもそれは、どこかに姿を
見せないだけで、形を変えて存在しているのだ。
これは、我々にはアプリオリに知られる。
慣性の法則は、ある物が、何らかの作用が加われなければ変化をしないと
いうことから導きだせる。
変化をさせる為には何かの力を加える必要がある。
ということは、何らの力も加えなければ、それはそのままで有り続けるになる。
動いているものは動き続け、静止しているものは静止し続けるのである。
つまり、これこそ慣性の法則である。
動画 テキスト
● ア・プリオリは揺らがないA
これに対して以下のものはア・ポステリオリである。
経験的に認識したものである。
質量、重力、様々な自然力(電磁力、剛性、弾性、・・・・etc)
この中で、物質に質量があるということは、ア・ポステリオリの中でもっとも
確信があるものの1つであると言える。我々は、質量の存在をもっとも早い段階
で確実なものとして認識している。
というのも、崖から大きな岩が落ちてくれば、どんな動物だって必死に避ける
からである。仮に物質に質量があることが、生まれてから早い段階で、確実な
ア・ポステリオリとしてわからなければ、崖から大きな岩が落ちてきても
動物は避けないで、岩と一緒に谷底に落ちるだろう。
動画 テキスト
● 再度、因果律とは
再度述べさせてもらう。
そもそも、物質が生成したりとか消滅したりとかを安易に述べる者は、
因果律が何たるものかをまったく理解していない証拠である。
因果律は物質の変化にのみ携わる。
物質そのものにはまったく関係しない。
そうして我々の表象(直覚的表象)は、そのような変化を因果律によって
的確に捉える。この因果律に適用しないい変化などがあれば、我々は
決して、直覚的表象で捉えることはできない。
もし仮に、物質がいきなり生成したり、いきなり消滅したりなどということが
あったとしたならば、我々の脳は、それを捉えることは決してできない。
我々の脳は、そのような物質の消滅や生成を認識できるもの有していない。
物質は消滅も生成もしないのである。
物質が消滅や生成しているように見えるのは、あくまでも物質の状態(形式)が
変化して、例えば固体が液体や気体になったり、他の状態に移行するだけで
そのものがどっかに消えうせたなどとは、我々は考えることはできない。
動画 テキスト
● 科学者と哲学学者
このような基礎がまったくなく、ある現象が起きたときに、安易に科学者が
述べることは、これから育っていく若い科学者に、間違った先入観を
植え付けかねない。
むろん、いつの時代もそうやって間違った先入観を持ちながら進んできた。
これらの多くの誤診の払うのは、決まって優れた者達の役目である。
量子世界において質量保存則が成り立たない事があるなどと安易に言えば
その考えに付随する物質の不滅性までもが否定するイメージを与え
物質は消滅することがあるかな?と他の科学者に誤った情報を与えてしまう。
もちろん、そうはいっても、本来、これは科学者の仕事ではない。
哲学者の仕事である。だからそこまで科学者に求めるのは酷というものである。
まあ科学者は、あまり気にせず発言しても良い。
問題は、現代の哲学学者のレベルがあまりに低すぎて、それらのことを
まったく指摘できないことにある。これが深刻な問題なのである。
現代の科学者は、現代の哲学学者などよりも数倍、数十倍も優れている。
であるので科学者には概ね、問題はない。科学者はこのまま進めば良い。
問題は、哲学学者である。
真剣に真理に向かうことをしない連中がわんさといるのだ。
特に日本の大学哲学は酷い状況である。
哲学科の大学教授の中には、思いつきと思い込みが哲学と思っている連中が
いるのだ。それも少なくなく結構な数なのである。
動画 テキスト
● 表象ごとの差異と無矛盾
それぞれの表象には、その表象内で頼りとする根拠が存在する。
すべての学問は、いずれかの表象において、その根拠を基点にして論理的に
つながることで構築されていく。
以下に表象ごとが有する根拠律をあげておく。
直覚的表象 ・・・・・ 生成の根拠律(≒因果律)
抽象的表象 ・・・・・ 認識の根拠律
直覚的表象2 ・・・・・ 存在の根拠律
直覚的表象2とは、数学の幾何学のフィールドであり、直覚的表象に似ている
が質料(≒物質)を受け継いでいない。
直覚的表象2も直覚的表象から抽出したものである。
直覚的表象2も、あくまで抽象的な表象なのである。
科学者は、抽象的表象によって法則をモデルかして、それを直覚的表象の舞台
にて実験、検証してそれが事実であることを確認する。
いままで科学者が、信頼をよせてきた抽象的な表象と直覚的表象。
確かに古典物理学では、その表象の差異は目立たない形で、結果的に
自然法則がもたらされてきた。
そうやって進み続けて、科学者は、抽象的表象、つまり頭の思考とイメージに
て矛盾がなければ、実際にも矛盾がないのだとまで思い始めた。
数学者がこう思うならばそれは良い。
何度もいうが数学はアプリオリな認識を土台にする。
数学は、因果律を有する直覚的表象の舞台にはあがる必要はないのだ。
実際に、数学では存在するかどうかなどはおかまいなしに様々な空間が
作られては応用されてきた。
だが量子世界は、観察(実験)が必要であり、つまりは直覚的表象の上での
確認が必要なのである。
量子世界は、そんな直覚的表象と抽象的な表象との差異を際立たせた形
で人類に示しているようにさえ見えるのだ。
動画 テキスト
● 今後の量子世界が展開する姿@
直覚的表象と抽象的な表象は、やはりその根拠に差異があるのだ!と
量子世界は、際立たせて人類に知らせているかのようだ。
仮に量子世界がそういうものであるならば、次々とその2つの表象の
差異を際立たせるべく姿を現せることになるかも知れない。
直覚的表象 − 抽象的な表象 = 量子世界?
(抽象的表象+直覚的表象2)
量子世界は、人類にこのように問いかけているようだ。
『 お前達人間は、脳内で思考する抽象的表象を駆使して、多くの自然の
営みを自然法則として作り上げてきた。お前達は抽象的表象の力強さ
に関心したに違いない。お前達は抽象的な表象に完璧さを求めた。
実際は、抽象的な表象は多くの欠点をもつのにである。』
さらに続けてこう言うのだ。
『 確かに、マクロの世界において、その欠点は大きな問題には
ならなかった。 私がその差異を見えないように自然法則を
展開したからだ。』
だがミクロの世界に入ると、その2つの表象の差異が際立ってきた。
そうしてさらにこう続けて言うのだ。
『 お前達人間は、量子世界に入り、色々と驚きの声をあげるが、
私は当初からまったくぶれていない。
お前達の思い込みが正しいなどとは私は一言も言っていない。
お前たちが、2つの表象の差異を忘れて勝手にそう思っているだけ
ではないか! お前達が早合点している。
そのことを量子世界にて際立たせよう!』
人間がなかなか気付かないその2つの表象の差を、今後の量子力学は
いやがおうにも人々に、意識させるのかも知れない。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の究極の科学 』
● 今後の量子世界が展開する姿A
今後、量子世界を探究する上で、大切になるのは、それが何の根拠に基づいて
語られているかということである。
直覚的表象と抽象的表象の根拠の差から、もたらされている誤診が数多く
存在することに科学者は、気付き始める。
この点において、哲学の役割も実に大きい。
抽象的な表象は、なにをア・プリオリな認識として有しているのか?
直覚的表象から受け継がなかったものは何であるのか?
抽象的な表象では、なんの根拠を有しているのか?
さらには数学は、どの範囲まで、科学に助力できるのか?
物理学では、どのような誤診が入り込みやすいのか?
もし量子力学が、2つの表象の差異を、際立たせて知らせることがあるのなら
その差異を、始めから理解しておくことは非常に重要である。
そうして、その差異の詳細をことごとく述べた天才がいる。
それこそがショーペンハウアーなのである。彼は徹底的に、かつ詳細に、
そして明瞭にそれを彼の哲学の中で示している。
動画 テキスト
● 表象の差異を際立たせる仮想モデルの創出
仮に量子世界が、人間の直覚的表象には拾えて、抽象的表象にはまったく
拾えないものだという推論に特化して考えれば、2つの表象の差異を整理して、
その差異を際立たせた量子世界のモデルを何通りも考えることはできるだろう。
だが、当然、その自由度はいくらでも広がってしまうのであるが、可能性として
いくつものモデルがもたらされることになる。
そうして、多数の誤診がもたらされるが、その内の1つのモデルから正解が
もたらされる(かも知れない)。
未来において、科学者の多くは哲学の知識を吸収することになる。
特にショーペンハウアーの知識は、最重要項目である。
というのも、既にそれは行われているからだ。
例えばニールス・ボーアから連なるコペンハーゲン解釈であるが、あれは
量子力学が世にでる100年以上も前に、ショーペンハウアーが述べたことを
そのまま、物理学に利用しているに過ぎない。
ボーアが提出した相補性という考えもそれもそれに沿っているに過ぎない。
動画 テキスト
* 何がア・プリオリで何がア・ポステリオリで、抽象的表象はなんの根拠が
欠けて、何の根拠に頼っているかなどの詳細な内容は、このサイトの本意
ではないので以下を参照のこと。未来の科学者には重要な内容である。
(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の一流科学者の為の哲学 』 『 稲穂黄金の科学の基礎 』
● 抽象的表象の限界から生まれた問題
素粒子の世界におけるパリティ対称性の破れも、CP対称性の破れにしても、
その意味は、人間が根拠のないものが根拠があると考えていたことに
対する予想外の結果が、科学者に驚きを与えることになった。
今後、量子世界は、巧みにこの表象の差をついてくるかも知れない。
少し前に、その差異が問題として科学者に突きつけられたし、さらに言えば
数千年のはるか以前に、既に人間の直覚的表象と抽象的な表象の差異に
よってもたらされた問題があるのだ。以下の2点である。
@ ゼノンのパラドックス(アキレスと亀)
A コペンハーゲン解釈
これらの2つのものは、抽象的表象の限界を知らずに、直覚的表象のごとく
成り立つことを前提にして話されている問題なのである。
この話を始める前に、偶然と必然の意味を明確に理解する必要がある。
これからその点について詳細に述べていく。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の究極の数学 』
● 偶然と必然@
まず以下のことを理解する必要がある。偶然と必然である。
この世に発生したあらゆる出来事は必然であり同時に偶然である。
すべて出来事は因果によって原因と結果の鎖の系のいずれかに繋がる。
この意味で必然である。原因と結果の1関係をもつのだ。
さらに、それが原因によって結果をもたらすことは、既にその作用を受け取る
形式の有りように合意していることを意味する。
仮に、何も知らずにある出来事がまったく偶然によってもたらされる何か不明
な何ものかであったとしよう。その偶然にもたらされた出来事に、あらゆる物が
対処できない事を意味することになるのだ。
既に合意はなされている。物質は物質に作用する。
この意味で、すべての出来事は必然である。
動画 テキスト
● 偶然と必然A
しかしまた、この世界における出来事は偶然である。
というのは原因と結果の必然の1つの関係は必ずあるとしても、その1つ以外
のあらゆるものにも接しているからである。
原因となりうる何ものかは、他のいくつものものと接してはいたが、結果として
ある1つと繋がり因果の関係を結んだ。
あらゆるものに接してはいたが、選んだ1つ以外の多数のものとは関係を
生まずに、ただ落ち合っただけなのである。
その意味で、すべての出来事はまた偶然である。
動画 テキスト
● 可能性と不可能性@
ここで言葉を再点検する。
可能性とは起こりうる可能性のことである。
現実性とは現実に起こったもののことである。
必然性とは、現実に起こったことから引き起こった結果のことである。
幾多の可能性が存在する。
そしてその内のいずれかが現実に起こる。
そして起こったことにより、必然的なことが結果としてもたらされる。
可能性、現実性、必然性の3つによって、この世界には様々な現象が起きる。
これら3つは、各表象の上に登場する。
可能性(起こりうる可能性) 抽象的表象(理性)
現実性(現実に起こったもの) 直覚的表象(悟性)
必然性(結果起きたこと) 上記両方の表象に現存する
思考の内においてはこの3つが存在する。
起こりうる可能性は、いくつも該当した。その内の1つが実際に起こった。
そして必然的にその結果になった。我々の思考は、このように捉える。
なれども現実の観察においては、この3つは重なっている。
可能性、現実性、必然性はすべて、現実においては重なっているのだ。
なぜなら現実に生起するものは、必然的結果によって生起したものであり、
そこで生起したものは可能な1つであると同時に、選ばれた1つである。
つまり可能性であり現実性であるのだ。
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● 科学者は立ち止まった
このような区別を知らない科学者は、量子世界に入って立ち止まった。
直覚的表象が描いていることと、抽象的表象が描けることの差異が
わからない科学者にとっては、それが観察するまではわからないということが
理解できなかった。
可能性と現実性の区別がついていなかったのだ。
眼前の世界おいては、それは確かにそれを選びそれを現実的に行ったこと
を直覚的表象は捉えるが、それを抽象的な表象で、つまり思考で捉えようと
すれば、選んだ1つの原因と結果と、それ以外の選ばれなかった可能性
の数々を考慮いれて考えることが必要になるのだ。
つまり数式で表現する場合に、そのように選ばれなかったものを
含めた解釈が抽象的表象では求められるのである。
これを理解していたニールス・ボーアは、だからこそ、確率的な表現
をここに持ち込んできたのである。
彼はそれをショーペンハウアーから教わったのである。
アインシュタインもショーペンハウアーから教わったのであるが、いかんせん
ユダヤ人であるアインシュタインは、ユダヤ的世界観の呪縛
から逃れることが難しかったのである。彼は誰よりもユダヤ的思考を愛した。
晩年になって、彼はコペンハーゲン解釈も認めるようになった。
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● ショーペンハウアーとコペンハーゲン解釈@
コペンハーゲン解釈とは以下である。
『量子世界にはいくつもの重なりあった状態があり、これはどちらの状態
にあるかはいえず、観測すると、ある値に収束してその状態に変化する』
これはニールス・ボーアを先達にして語られた解釈である。
だがニールス・ボーアが語るよりも、はるか100年以上も前に
ショーペンハウアーによってことの真相が語られている。
ショーペンハウアーは明確にこう語っている。
『 自然というものが直感的な表象であるかぎりにおいて、そのなかで
生起する全てのものは必然的である。 というのは、すべてのものは
その原因に基づいて生じるからである。けれども人間がこの個別的な
出来事を、その原因ではない他のものと関係させて考察する場合、
我々人間は、これが偶然的であると認めるのである。
これは抽象的な反省のひとつである。』
さらにこう述べている。
『 自然においては、すべてのものは、ある原因に基づいて生じる。
それゆえ現実的なものは全て必然的である。ただし必然的であると
いうのは、この時(特定の時間)、この場所(特定の空間)にある限りに
おいてであるにすぎない。
因果性の法則による規定が及ぶのは、ただそこまでであるに過ぎない。』
そして、可能性、不可能性の問題がでるのは、抽象的表象にのみ
関わることを以下のように述べているのだ。
『 可能性と不可能性とがそこにあるのは、ただ反省に対して、理性の
抽象的な認識に対してであり直覚的な認識に対してではない。』
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● ショーペンハウアーとコペンハーゲン解釈A
量子力学が登場するはるか100年以上も前に、ショーペンハウアーは
いずれ量子力学が登場してきた時に、まさに問題になる核心部分について
彼は語っているのである。驚嘆すべき洞察力である。
直覚的表象における現象を、抽象的表象に移して、人間は思考によって
考えるときに、可能性、不可能性や様々な概念が必要になることを
ショーペンハウアーは的確に述べている。
『 偶然性、可能性、不可能性、現実性といったもろもろの概念は、
必然性の認識に反省が加えられることによってはじめて発生する。
それゆえそれらの概念は、抽象的な認識作用と直覚的な認識作用
との葛藤によって発生するものである。』
2つの間の葛藤によって発生すると明確に述べている。
つまり抽象的表象で表現する為には、それらを考慮に入れる必要がでてくる
ことを述べている。
ショーペンハウアーの主要な思想の多くは20代に出ている。
26歳以前に、ここまで語れるとは、恐ろしいまでの頭脳である。
こと知性に関する限り、彼に適う人間など、今後も決して出ない。まさに知の化け物。
量子力学のニールス・ボーアや波動関数のシュレーディンガーや不確定性原理
のハイゼンベルクなど、実に良くショーペンハウアーから学んでいる。
ハイゼンベルクは粒子の位置と運動量の総和として表現することで
シュレーディンガーは、電子の波の振る舞いを方程式として表現することで
ボーアはそれらを統合する形で、コペンハーゲン解釈として作りあげた。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金のショーペンハウアー 』
● 神のサイコロと不可能問題@
アインシュタインは量子世界のことについてこう述べた。
”神はサイコロを振らない”
彼がいった言葉は、その点においては当たっている。
これだけなら特に問題ない。しかしその後の内容が問題なのだ。
さらに彼はこう思っていた。
”隠された変数があり、現在は理解できないだけで、いずれは理解できる”
この最後のところの、人間が理解できる!という所が間違いなのである。
ニールス・ボーアの確率的な解釈、シュレーディンガーのように波の空間的
な広がりを持たせる解釈ならば、人間は理解できる。
(それがコペンハーゲン解釈である)
これをアインシュタインが言うように、古典力学だけで理解できるかといえば、
人間の脳には無理なのである。それは既に述べているように、直覚的表象と
抽象的表象との間に葛藤(様々な概念)が生まれているからである。
もっと言えば、そのような葛藤をなくす為の対処が確率の導入であると言える。
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● 神のサイコロと不可能問題A
アインシュタインの”神のサイコロ”の発言は、以下のように述べるのが正しい。
『確かに神様はサイコロを降らない。だけれどもその回答に近づく為には
人間の脳は、人間のサイコロを降る以外に接近する術はない。』
さらに詳細に表現するといかになる。
『 確かに神様はサイコロを降らない。
人間もそれを観察(直覚的表象)によって確かに確認する。なれども
それをいざ数式として表現する為に思考の領域(抽象的表象)に
足を踏み入れれば、人間の脳は、人間のサイコロを振ることでしか
答えに近づけない。』
観察において、確かに起こった出来事は現実として1つなのだが、それを
抽象的表象の舞台に戻って思考すれば、それはたくさんある中の選択された
1つの出来事と捉える必要性に迫られる。
それを何とか解釈しようしたらば、確率的な表現となったのである。
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● ユダヤ人アインシュタイン
アインシュタインは、ニールス・ボーアの確率論的な考えが受け入れ難かった。
人間もいずれ理解できる変数が必ず存在すると考えていた。
アインシュタインが頑なに信じたのも、人間の知性には、自然のすべてを
理解できると信じて疑わなかったからである。
これこそがユダヤ的世界観である。
アルベルト・アインシュタイン
彼は天才ではなかったが、ショーペンハウアーを知ったことで天高く飛翔した。
地道にコツコツと積み上げることで物理学史上、もっとも重要な1つである相対性理論を
築き上げた。立派である。だがそんな彼の頭からユダヤ的世界観は生涯、離れなかった。
聖書にこの世界のすべての事がかかれ、すべての意味が理解できると
信じるユダヤ人。 なにせ絶対者なのだから、この世界、自然の全てが理解
できないわけはないと考える。
その聖書をユダヤは、絶対者から受け取ったのだ。
ユダヤは、そう信じて疑わない。
アインシュタインは、そのユダヤ的世界観に愛着があったからこそ
自然の中に、人間が理解できないものがあることは信じられなかったのだ。
アインシュタインは、最晩年になるまで、その考えに固執した。
ユダヤ的世界観は、彼の頭に抜き差しがたく存在し続けた。
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● ショーペンハウアーの名がすぐに広まらなかった理由@
人類史上最高の頭脳を有するショーペンハウアー。
近代科学の発展の中心にはまさに彼の哲学があった。
アインシュタイン、ニールス・ボーア、シュレーディンガー、ハイゼンベルクなど
科学において名を残すこれら一流科学者に熟読され、これらの科学者に多くの
ヒントと根拠を与える天才。
これほどの天才ショーペンハウアーの名前が、すぐには広まらなかったのには
以下の3つの理由がある。
@ 時代が彼についてこれなかった
A 似非者・偽者が哲学界に多数登場した時代であった
B 彼に気付いた優れた探究者の多くがユダヤ人であった
まず、何よりもショーペンハウアーの述べた内容が深遠であったことである。
当時の人々は、ショーペンハウアーの意味することにまるで気付けなかった。
直覚的表象と抽象的な表象の差異などということが何を意味するのか
当時の人々にはまるで理解できなかった。
ショーペンハウアーは、科学が相対性理論、量子世界に入ってから、
一流科学者にその真価が理解され始めたのである。
時代が、彼にまったく追いついていなかった。
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● ショーペンハウアーの名がすぐに広まらなかった理由A
なによりも、ショーペンハウアーの青年時代、天才カントは既に亡くなり
哲学は活況を示すかと思いきや、似非者、偽者が多数登場したことだ。
キリスト教会に与する哲学学者が多数でた時代であり、神の意図を述べる者
が賞賛されたのである。
能無しのフィヒテや、シェリング、ヘーゲルなどの馬鹿者達が、今日はあそこで
明日はここでと、絶対精神や絶対理性を語る時代であった。
大学哲学は、こんな似非者達が跳梁跋扈して、哲学は堕ちるに堕ちた。
こんなふざけた者達の間で過ごさなければならなかったショーペンハウアーの
心痛はいかばかりだろう。真剣に学ぶ者がいる反面、大多数の者は、真剣に
学ぶという意味すら、まるで理解できない連中が溢れた。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金のショーペンハウアー 』
● ショーペンハウアーの名がすぐに広まらなかった理由B
ショーペンハウアーの名前がすぐに広まらなかった一番の原因が以下である。
彼の偉業に気付いた優れた者達の多くがユダヤ人であった。
アインシュタイン、ニールス・ボーア、シュレーディンガー、フロイト、etc
これらのユダヤ人の間で急速にショーペンハウアーは広まった。
様々な分野にまたがって広がっていった。
アインシュタインなどは、ショーペンハウアーを絶対の先生のごとくに思っている。
ニールス・ボーアの自然観、科学観は、まさにショーペンハウアーのそれである。
彼らは皆、ショーペンハウアーから学び、彼らのなしえた仕事の核心部分を
ショーペンハウアーに教えてもらい、そうしてその分野の第一人者になった。
確かに、彼らもショーペンハウアーから学んだことは認めている。
なれどあまり積極的にその事を言う者はいなかった。
なぜなら、ショーペンハウアーはユダヤ的世界観を嫌っていたからだ。
であるから、彼らユダヤ人は積極的に彼の名を広めようとはしなかった。
彼らユダヤ人は、ニーチェのごとく、彼を賞賛したかったに違いない。
特にアインシュタインなどは、彼のその名を叫びたかった!に違いないのだ。
なれどアインシュタインにはそれができなかった。
アインシュタインは、ユダヤを何よりも愛していた。
アインシュタインは、ユダヤ的世界観に非常に愛着を持っていた。
だから、どれほど優れた人だと認めていようと、ユダヤ的世界観を否定
することは耐え難いものであった。他のユダヤ人も同様であった。
世界にネットワークを有するユダヤ人。
彼らユダヤ人は、ショーペンハウアーの偉業を知っていたが、その名を積極的
に広めることは、どうしてもなれなかった。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の未来のユダヤへ 』
● 抽象的表象の死角
我々の脳の思考の舞台である抽象的な表象。
我々人類が考え事をする時に、頭の中でイメージしてそれを土台にして
考えられるのも、これらの抽象的な表象を利用している為である。
現実の上に起こる自然法則のすべてを、抽象的表象の上に描こうとすれば
確かに描けはする。なれどそれは既知のものに限られる。
反省によってでしか描くことはできない。
抽象的表象においては、直覚的表象から因果律を引き継がなかった。
だからこそ科学は、かならず直覚的表象に確認する必要がある。
直覚的表象から抽象的表象への移行において、根拠のすべてが移行
されるのではない。だが人類はそのことを忘れて、時に抽象的表象が
描く世界を、そのまま鵜呑みにしてしまうのである。
特定の場所、特定の時間に因果律が適用されるが、これを手放した
抽象的表象は、我々の認識の死角を有する。
そしてその死角に、今後、量子の世界が続々と入り込むかも知れない。
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● 確率的な表現と複素数
直覚的表象の出来事を、抽象的表象に土台に上にのぼらせる時に、
多くの概念が必要となる。
それらの概念を考慮する必要から、多くの問題が起こる。
直覚的表象と抽象的表象との間の葛藤がもたらされる。
それらの概念を考慮しながら、数式で表す為にこそ複素数が求められる。
数式において現す場合には、確率論的な幅が必要になり、同時に複素数も
使用されることになる。
なぜならば、複素数は、究極的には、直覚的表象のことを抽象的表象の土台に
置いたときの折り合いをつける為のものであるからだ。
直覚的表象の上にある現象を観察して、それを抽象的表象にのせたときに
それを表現するのが不可能性に関連するときに、それを表現する手段として
確率的な解釈が用いられる。
それを数式として方程式化するときに複素数が求められるのである。
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● 複素数とは何か
複素数とは何であるか?
複素数は以下である。
数学においては、抽象的表象と直覚的表象2のズレを調整し
折り合いをつける数である。
科学においては、直覚的表象の上に展開する自然現象を、抽象的表象の舞台
に移行して、それらの自然現象を数式として表す場合に
2つの表象の差異を調整し、1つの式として表現する為の
結合に欠かせない数。
複素数とは、端的にいえば、人間の脳が要請した数である。
これから科学がどんどん進み、量子世界が直覚的表象と抽象的な表象の死角
へと次々と現象を展開した時に、これを人間が自然法則として表現する場合に
複素数はますます欠かせない存在となり頻繁に登場するのだ。
科学者が、ある自然法則を求めるにあたって、それを得る過程において
多くの複素数が要求されている場合、多くの科学者は、
2つの表象の死角に該当する部分を、現在、取り扱っているのだと
いう認識を当然のように有する時代が21世紀後半には訪れている。
シュレーディンガー方程式 シュレーディンガー
現在、説明が丁寧でわかりやすいのが多くある。上記の本もそうであり、お勧めである。
さらに22世紀になると、何ゆえ複素数が脳によって要求されたのかが、
脳の認識のメカニズムの側から説明される時代がくる。
それだけ22世紀は、脳の認識機能に対する解明が進み、また多くの学問の
研究にとっては欠かせない時代となる。
多くの優れた科学者、例えばニールス・ボーアは、観察者側からのアプローチ
も必要であると述べているのは、このことを言っているのだ。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の究極の数学 』
『 稲穂黄金の究極の物理学 』
『 稲穂黄金の究極の科学 』
● 科学者は概ね、問題はない@
現代の科学者は素粒子の世界にも入り、ますます用心深くなっている。
用心深く、自然を観察し、自然の声に耳を傾けようと必死になっている。
現代において優れた科学者において自然を安易に見るものはいない。
であるから、21世紀の科学者は、概ね問題ない。
日本の科学界においては、南部博士が頭一つ分、飛び出しているだろう。
他にも日本において優れた科学者が育っている。
南部博士の著書の中で、彼の自然観を拝見したが、特に大きな問題は
見られなかった。彼は、その著書の中で自然の深遠さを、こう述べている。
『 他の相互作用(重力、電磁力、強い力)が全てゲージ理論の
枠の中に入り、美しい対称性の原理に従うのに反し、弱い相互作用は
非常に不規則で、完全な対称性は何一つもたないように見える。
パリティ(P)の破れ、CPの破れ、ストレンジネスの破れなどを触れたが、
実はこれだけにとどまらないのではないかという疑いが最近強くなって
きている。』
この本の中で、弱い力に関しては神が手抜き?したように見えると
いう趣旨の発言をしている。科学的アプローチとしてそう捉えるなら、
それはそれで別に良い。それで特に大きな問題はない。
ここではその説明は、敢えてしないが哲学的アプローチでは、その意味合い
がまた異なる。
南部博士は、現代の日本における最高の科学者である。
彼は、現代の日本の科学者の中で、頭1つ分、飛び出している。
弱い相互作用は神の手抜き?(上記本より) 南部陽一郎 博士
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の一流科学者の為の哲学 』
『 稲穂黄金の科学の基礎 』
『 稲穂黄金の究極の科学 』
● 科学者は概ね、問題はないA
現代の科学者には特に大きな問題は見られない。
日本の科学者の多くは、真剣に地道に一歩一歩進んでいる。
南部博士を先達として、科学者として優れた者も幾人か登場してきている。
頼もしい限りである。
現代の日本の科学者の中で優れた者たちも、決して自然を安易に見ていない。
ニールス・ボーアが、述べた以下の言葉の意味を皆、理解し実感している。
『 自然がいかにあるかを見出すことを物理学の任務だと
考えることは誤りである。 物理学は我々が自然について
何を言うことができるかに関するものである。』
自然は我々が理解できないものを含む。
確かに、我々は、この自然の上で生きれるように知性の形式を備えはしたが、
だからといって、自然の全てを理解できる保証など、どこにも存在していない。
自然は、我々の知性の形式に沿って存在するわけではないのだ。
我々、人類は自然の一面を捉えているに過ぎない。
キリスト教圏であるアメリカにユダヤ的世界観が入り込んだ。
いずれ、アメリカの科学界も、ユダヤ的世界観に屈するかも知れない。
なれど、日本の科学界においては、今のところその心配はまったくない。
日本の科学者はそのまま進んで良い。大きな問題は特に存在しない。
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● 微小な世界とは限らない
いままで、直覚的表象の因果律を、抽象的な表象が引き継がない為に
多くの思い込みが存在し、それゆえ誤診が生まれることを述べてきたが
これは、別に素粒子などの微小な世界だけに限定されるだけではないと
いうことである。
量子世界において、今までの古典力学のように頭の中でイメージすれば、
特に矛盾もなく、実際の現象も予想されたとおりになったことはいくつもある。
弱い力、以外の3つの力(重力、電磁力、強い力)においては多くの保存則
がイメージと特に矛盾なく、成り立ってはきた。
古典力学はその意味で強力である。
なれど、直覚的表象と抽象的な表象の差異は、
決して微小な世界だけに限定されるわけではないということである。
この点を、未来の科学者は忘れていけない。
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● ア・ポステリオリは気付きにくい
万有引力の関係に気付いたのは17世紀のフック、ニュートンの時代である。
自然界にある法則は、なかなか気付かない。
電磁気学のクーロン力の規則性も、実験を通して人間の理解する所になった。
ア・ポステリオリは気付きにくい。
ア・ポステリオリな認識が捉えるものには、数多くの自然力が含まれる。
これらは意志が段階的に表現したものである。
意志が我々の表象上に可視化された形で現れたのが、即ち物質である。
自然力も意志の現れのある段階を現す。
これらの意志は、また我々の奥に存在する意志とつながるものである。
あらゆるものの奥に意志が存在する。
それは多数でも1である。
我々の表象に存在して、ア・ポステリオリに気付かれるものは、
つまり意志が見える姿で現れたものなのである。
それが可視化されえれば物質として、我々は表象の上でそれを把握する。
それが可視化されずに力となれば、自然法則を知って理解する。
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● ア・プリオリは直ぐに理解できる
これに対して先天的に備わるアプリオリの認識は、我々にとって明快である。
物質が消滅しないことを人間はアプリオリ理解する。
そこから慣性の法則も質量保存則も導かれ理解した。
また物質が不可入性があること、また分割可能性もア・プリオリである。
だからこそ、アプリオリを土台にする数学は、あらゆる学問の中でもっとも
明確であり、正確である。
我々の表象の上に登場する現象は、時間と空間、因果律が適用されて
その範囲である規則に沿って動いていく。
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● 人間の脳を創りし自然@
自然は実に面白い。我々の脳も自然の産物である。
自然が我々をこのように作り上げた。自然が脳を作り出した事は、自然がいかに
この世界とうまく対処してきたかを物語る
我々の脳は、認識するときに、時間、空間、因果律のルールを先天的に
組み込またが、反対に段階的に現れる意志に関しては何の情報を先天的
に付与されはしなかった。
様々なアプリオリの認識(物質の不滅性、不可入性、etc)が組み込まれたが
意志に関するものは、ことごとく後天的に、経験によって理解することが
求められたのである。
まるで自然がこう話しているに思える。
『 お前達(人間)も私(自然)の子ならば、自然の奥に存在する意志に
ついてわざわざ語らなくてもお前達は理解しているのだろう!?
だから私は、お前達の脳に意志に関しての情報を始めから与えない。
お前達の認識に先天的に組み込むことは一切行わないことにした。
そのような情報など組み込まなくても、お前達は大丈夫である!
お前達(人間)は、正真正銘、私(自然)の子なのだから。 』
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● 人間の脳を創りし自然A
さらに母なる自然は、こう続けて話しているように思える。
『 この世界に対しての情報は、ア・プリオリとして前もってお前達に
知らせておこう。なれど意志に関しては前もって知らせない。
この世界で生きるうえで重要な情報だけは、確実なア・ポステリオリと
して、生まれて直ぐにお前達に理解できるようにさせておこう。
それで全ては大丈夫である!
お前達はこの世界に飲み込まれやしない。
さあ!我が息子達よ! 高らかに歌い、勇敢に進むのだ! 』
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● 自然と人間@
この大地に生きとし生ける者は、すべては自然の子供である。
我々は、自然を母とする。
その母は、子供を自由に育て放任する。
怪我をしたって助けることはしない。苦労があろうがそんなこと目にも留めない。
気に食わないことをすれば、我々は数倍のとばっちりを受ける。
転変地変は大地の怒りであり、母の怒りである。
その母は、己の性質を子供に教えない。
私の子供なのだから、それぐらい理解しているはずよ!というのだ。
なれど、我々は母がなすことを垣間見るが、母親の顔は見たことがない。
我々人間が、自然の意志を理解する時は、アポステリオリ(経験的)となる。
自然の意志が、可視化したのが物質である。
可視化せずに働きがあるものが自然力である。
重力や、電磁気力、剛性、化学的親和力、など様々な自然力が属する。
我々は、これらを先天的認識することはない。
我らの母が、余計なことはしなかったのだ。
我ら人類は、母なる自然の産みし子供である。
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● 自然と人間A
自然は己の内にあるものは敢えて子供達に教えなかった。
しかし反対に、自然の内にないものは用心深く備えさせた。
だから昆虫は昆虫で上手に生きれて、動物は動物で上手に生きれる。
自然の中にない性質、つまり世界の性質は、あらかじめ教えたのだ。
自然の子供である動物も人間も、生まれながらにして時間と空間、因果律が
適用された世界を見ている。
植物の世界は、また違う。彼らは目を持たないからだ。
だが彼らもまた生きている。
我々には目が与えられた。そして記憶が与えられ、比較することが可能となり
学問を構築した。動物は自然の中でまどろみ、すっかりと母親の膝の上で
遊んでいる。彼らの目に不安はない。彼らは大地に根ざしているからだ。
我々人間は、時折、母親の膝の上を離れて、外に向かって歩き始める。
冒険心と不安が入り混じって、ようやく母の膝の上から少しだけ離れる。
母親の膝元から離れれば離れるほど、我々人間の不安は大きなものとなる。
少し離れた場所から、母親の顔を恐る恐る、のぞきみる。
見たことのない母親の顔を一目見たいと望むが、まるで見えない。
我々人間の発する光は弱く、母親の顔は、依然、見えないままである。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の神と仏と人間と 』
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