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人間と国家
 国家を治めることとは、まさに人間を治めることである。
 近代に入り、そのことを忘れた人類は強烈なしっぺ返しを食らった。

 
● 民主主義など1つの手段にすぎない@

 民主主義は手段であって目的ではない。
 民主主義があれば、何か偉大なものが生まれるわけではない。

 車を例に例えれば、民主主義は潤滑油のようなものである。
 車を動かすにはガソリンが必要である。
 もちろん潤滑油(エンジン油、トルコン油、ギア油など)を差さなければ、
 それらを動かすのに負荷も多くあるだろう。
 なれども大切なのは、ガソリンが入っているかである。
 それがなければ目的地に到達しない。
 
 学者の中には、民主主義や資本主義があれば、国が立派になると考えて
 いるものは実に多い。だからこそ民主主義と声高に騒ぐ。
 なれど民主主義はあくまでも手段に過ぎない。
 民主主義があれば国家が立派になるどころが、もっと大切なものを忘れると
 民主主義ゆえに国家が分裂することにさえなる。

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● 民主主義など1つの手段にすぎないA

 国家にとってもっとも大事なのは、人々の
共通意識である。
 その国の人々が何をもっとも大事にするかの共有された意識である。
 その意識が、国家の中で受け継がれてきたらならば国家意識である。
 国家意識は、その国家を形成する民族の意識といっても良い。
 長い歴史の上で代々先祖から受け継がれてきた意識が、民族意識である。
 単一民族であれば民族意識が、国家意識となりうる。
 複数の民族によって国家が形成されているなら、それらの複合化された意識と
 しての国家意識が形成される。
 これらの共通意識なしに、民主主義を取り入れるとどういうことが起こるか?
 恐ろしいことが起こる。十中八九、国家はバラバラになる。

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● 共通意識と民主主義@

 民主主義があるから国家が偉大になるのではない。
 民主主義があっても、あるものが欠ければ国家は偉大になれない。
 そのあるものとは、先ほども説明した
民族固有の意識の統一である。
 人々の共通意識(≒民族意識)こそが必要である。

  
 共通意識 > 民主主義

 その共通の意識があってこそ、民主主義が生きてくる。
 民主主義が潤滑油だとすれば、共通意識はガソリンそのものだといえる。
 民主主義は車の動作をスムーズにするが、そもそもガソリンがなければ
 車は走らない。ガソリンが切れかかっているのに、遠出をして山を越える事は
 無謀である。車が動かなくなれば、各自が車から降りて山を下山する事になる。
 それもバラバラに下山するようになる。

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● 民族意識と民主主義A

 人々の共通意識(≒民族意識、国家意識)が弱まり、民主主義(多数決)で
 政策が決まり始めると一体何が起こるだろうか?

 答えは簡単である。
 
国家はいずれバラバラになる

 国家として民族として、共通意識がなければ、国民全体で大きな夢を見る事が
 できない。大きな夢を見れなければ、国民は各自、小さな夢を見ることになる。
 
 各自が各自の小さい夢ばかりを見るという事は、大抵人々はバラバラになる。
 小さな夢とは、各自の経済的利益となりやすい。

 
   民主主義 > 共通意識
        (多数決
) 
                   
↓↓
           各自の
小さな夢の実現
                    ↓↓
           各自が
バラバラとなる

 小さな夢とは各自の経済的利益や自己満足、自己実現などである。
 結局、何らかの利益、それも自分につながる利益の為に奔走する事になる。
 別にそれが悪いなどとは言わない。

 なれど、この状態は必ず以下をもたらす。
 
各自の利益の為に政治が動き始める
 政治家は、自分の票とりの為だけに懸命になるし、地方は地元で、公共工事
 などの利益誘導ばかりに力を入れるようになる。そこら中がそうなる。
 国民全体の大きな夢がないのだから、後は個々人の小さな夢が主役に
 躍り出て、それを実現する為に、国家のお金をいくらでも利用する事になる。

 民間企業においては、ひたすらに経済的利益、一辺倒になる。
 もちろん会社は利益を守る為にある。
 それもすぐに行き過ぎることになる。
 会社を守る為といって、平然と社員をバサバサとリストラとする者は
 優れた経営者として評価されるようになるし、会社の利益の為に、人生の大半
 を費やす人間を社会全体が褒め称えるようにもなる。

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● 国家を襲う閉塞感

 もちろん、人間が個々人の利益、それも経済的利益や、それに伴う自己満足、
 自己実現などに邁進して、それで国家がうまく回るならば問題はない。
 なれど現実は大きく異なる。

 
国家を治めるというのはそういうことではない
 なぜなら国家を治めるとは、
人間そのものを治める事を意味する。

 経済的価値は、多くの価値の中の1つの価値に過ぎない。
 それに注力しすぎて、他の価値を忘れ、さらに小さな夢ばかりにみると、そこに
 住まう人々の心の奥底から
空しさが湧き出るようになる。

 国全体が、経済的利益だけが最優先になったり、何かの利益を求めることだけ
 になり、それが続くと、皆がどこかむなしい気持ちが現われてくる。

 なぜならば、人間とはそんなに簡単な生き物でないからである。
 人間の様々な欲求を軽視すると、いずれその精算を払わされる目にあう。
 これが人間を治めることの難しさなのである。

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● 再度、なにゆえ王は苦心したのか@

 多くの人々が集まっているのに共に共通意識も形成できずに各自がバラバラ
 になる国に生きる人々は、なにゆえに人々が集まっているのかを無意識に
 疑うようになる。

 個々人が勝手に夢ばかりみる国のたどり着く先は
無縁社会である。
 自己実現や、自己満足、夢が個々人でバラバラであるので、それを達成する為
 人々が動けば、思いも行動もバラバラであり、最終的にバラバラになる。

 経済的利益を得ることで満足できる人々がいる。商人である。
 経済的利益だけでなく、それに伴うサービスが他人の為になるとか、
 感謝をもらうとかでその仕事の正当性を感じれれば、なお、満足があると
 いったところが商売人の限界である。

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 ● 再度、なにゆえ王は苦心したのかA

 何度もいうが経済的価値、並びにそれに付随する自己満足、自己実現など、
 あらゆる価値の中の1つに過ぎない。

 だからこそ、あらゆる王国の王は苦心した。
 芸術家を養ったのもそれは芸術価値を提供する為。
 学問を推奨したのも、それは知的価値を提供する為。
 宗教を保護したのも、それは信仰心を擁護する為。
 勝てないと思っても戦いを挑んだのも、人々の自尊心を守る為。

 それらに人間が価値を置くからこそ、それらを軽視できなかった。
 経済的価値もこれらの価値の1つに過ぎない。

 歴史上の王族と王様がなにゆえにあれほど様々な価値を擁護し、提供する必要
 があったかといえば、それだけ人間を治めることは複雑で、容易ならざるもので
 あることを理解していたからだ。

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● 反転してバラバラに動く時@

 あらゆる価値の1つに過ぎない価値に特化して、その価値のみを優先的に
 求めるような国家になった場合に、もっとも恐ろしいのは、そのたった一つの
 価値を
失った時である。
 以前のようにその価値を得られなくなった時である。

 既に国民は各自がそれぞれ小さな夢を求めて、皆がバラバラに活動している。
 人心も既に離れて、バラバラである。

 それでも1つの価値(=ここでは経済的価値)が人々にもたらされる内は
 なんとか人々は協力する。
 海賊だって共通のお宝を求める上では協力する。
 盗賊だってそうである。
 なれども、お宝を得られている内は良いけれども、目的地についても、お宝が
 見つからなかった時にどうなるだろうか?
 一体、何が起こるだろうか?

 後は残るのは、責任のなすりつけあいと自分の宝の取り分を要求する事だ。
 実際に宝は見つかってないのに、そんなことをすれば、つまりは争いになる。
 他人の宝を平気で奪い合い事になる。

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● 反転してバラバラに動く時A

 現代の人々が、国家の税金を奪い合うことと同じである。
 人心はもともとバラバラな上に、行動もバラバラとなってしまう。
 そうなると押さえが利かなくなる。
 他人を出し抜く者、他人を騙す者、力で屈服させる者。皆がバラバラに動く。

 騎馬民族は戦闘に強く、どんどん領土を広げていく内は問題がない。
 領土の獲得と富という利益で、各部族が結びついている。
 なれど、いつまでの領土の拡大が続くわけではない。
 いずれ外部から取得することに限界がくる。

 そうして利益を得られるという、たった一つの共通性が失われる。
 途端にどうなるだろう。大国は分裂し、各自が利益の為に行動し始める。
 人心などとっくに離れている。
 そうして隣国と奪い合いを始めて、知らぬまに国家は雲散霧消する。

 国家を形成するよりも、維持する方が、遥かに難しい。
 それゆえ、長い歴史の中で様々な国家が生まれては消えたのだ。

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● 共通意識と神話

 歴史上の偉大な国家は、いずれも共通意識を育むことを大切にした。
 共通意識を育むことで、国民全体で一つの大きな夢を見れるからだ。
 その夢とは大抵、他国の人々から見れば非現実的であり、非合理的にさえ
 見える。大きな夢は、その国にとってのみ現実になりうる。
 
 共通意識を育む上で欠かせないものが
神話である。
 古代エジプト人も、古代ギリシャ人も、古代ペルシャ人も、古代ローマ人も
 壮大な神話を有していた。そうして皆が神話を愛した。

 学問と芸術を打ち立てた古代ギリシャにおいて、自国の神話を知らないなどと
 言ったならば、議論の中にすら入れてもらえない。

 古代ギリシャの建物においても、学問においても、芸術においてもたくさんの
 神々が表現された。
 自国の神話を理解していることは知識人の常識であった。
 
神話は民族の共通意識を醸造する

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● 小さな夢と大きな夢@

 個々人で夢を見ることは自由である。
 自己実現や自己満足、果てはそれらによってもたらされる物が価値がない
 などということはない。
 なれどもそれらの夢は小さな、本当に小さな夢である。

 全て想像でき予想できるものである。
 軽視できないものであるが、ありきたりのものである。

 顧客満足度日本一の会社を目指す。
 売上高一兆円企業。
 その分野で、社員の給料の良さが日本一。
 お客さんから、一番ありがとうをもらう会社。

 なるほど、確かにそれらはそれで良いことではあろう。
 否定するようなもののない。
 なれど、それらは実にありきたりである。
 もちろん、ありきたりの事が重要でない!などといわない。
 それらを軽視して良いはずもない。
 だが、そういうことは、いつの時代にも存在した。
 ありきたりのものである。

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● 小さな夢と大きな夢A

 いつの時代も商人は人々にサービスを提供したし、胡椒を手に入れる為に
 大海原をものともせずに進んだ。命を懸けて砂漠を越えた商人も多くいる。
 彼らの役割が重要でないなどといわない。
 なれどもそれらのサービスを提供した商売人の人生など誰も覚えていない。
 歴史上には様々な大商人がいて大金持ちがいた。
 なれども我々はそれらの人々をまるで覚えていない。

 もし現世的な利益やサービスの提供などが、我々人類にとってもっとも大事な
 ものであったなら、我々はそれらを提供した人々の名を決して忘れないであろう。

 なれどもそれらのサービスや商品を提供した商売人やお金持ちの生涯などに
 人々はまるで興味がない。

 紀伊国屋文左衛門や岩崎弥太郎の生涯など、ほとんどの人は興味がない。
 多くの人々が忘れえぬ名前は、釈尊でありイエスであり空海である。
 さらには坂本龍馬であり、楠正成であり、織田信長である。

 これらの人々は、多くの人々に何かのサービスを提供した人々ではない。
 現世的な利益の為に生きた人ではない。
 それらを越えて生きたからこそ、人々の記憶に残っているのである。

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 ● 稀有な人間@

 
自分の利益の為に生きるのが、人間の特徴である。
 これらの人々は、いつの時代にもたくさんいる。

 
他人の利益の為に生きる人も、これまた多い。
 これらの人々は、いつの時代にもたくさんいる。

 なれど、あらゆる
現世的な利益を越えて生きる人間は
 真に稀有な存在である。

 釈尊やイエス、孔子や老子、最澄や空海、ゴッホやミケランジェロなどである。
 彼らは何らかの利益を得るために生きたのではない。
 また家族や親族、友達の生活を潤す為に生きたのでもない。
 これらの人々は、政治家や商人のように法律を作って社会を整えたり、
 サービスを提供して人々に商品を届けたのでもない。

 自分の能力を見せびらかす為でもない。
 ましてや自己実現などの為でもない。
 彼らは人間の持ている能力を縦横無尽に活用したが、その能力を開花して
 特別な何者かになろうと欲したのでもない。

 これらの偉大な人々は、目に見えるものの価値の為に生きたのではない。
 神様とあらかじめ、こう生きるという事を約束付けられていたかのように
 彼らは生きる。 誰もが彼らの生涯に注目する。
 多くの人々は彼らの名が、その生涯が忘れられない。
 これらの人々の名は決して忘れ去られない。

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 ● 稀有な人間A

 人間がこの世界に生きる意味とは何か?
 人間の人生とは何であるか?
 何のために人間は生きるているのか?
 人間の根源に根ざした問いに対して、彼らは共に生きることで、その姿を通して
 多くの人々にその問いの答えを教える。

 我々人類に彼らの名を決して忘れない。
 これに対して大富豪や大商人の生涯など、多くの人々はまったく興味がない。
 歴史上には多くの大富豪や大商人が存在したが、それらの者達の名前など
 まったく伝わってこない。

 もちろん、人類が真に偉大だと思う人々の生き方など簡単に真似できるような
 ものなのではない。偉大な人々は確かに限られる。
 それらの人々は滅多に現われない。
 だからこそ我々人類は彼らを忘れない。

 ただし、これらの人々の偉大さに対して、あらゆる時代の人々が忘れえぬのは
 我々人間の一生が、生活する以上の意味があると確信している為である。

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● 若者だって偉大さの違いを理解する@

 どんな若者だって何が偉大であるか、その違いは理解しているものだ。
 サラリーマンの35年の人生で生み出せたものと、一流の芸術家がもたらした
 ものに差がある事ぐらいは、どんな若者だって理解する。

 もちろん35年間のサラリーマン人生が無駄であるとか、価値がないなどとは
 決して言わない。それらは確かに家族の生活にも子供の養育費用にも
 社会の歯車の一つとしても大いに貢献した。
 多くのお客さんからも感謝されたし、当人のやりがいや満足感も与えた。

 なれど、そのサラリーマン人生における仕事と、真に偉大な作品を生み出した
 仕事の差ぐらいは理解しているものだ。
 多くの仕事はその時代の特定の時期と、特定の人々にのみ限定される。

 それに対して、真に偉大な仕事は、あらゆる場所と時代を越えて、人類に
 普遍的価値を提供する。
 そういう価値があることを、社会経験が少ない若者だって理解しているものだ。

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 ● 若者だって偉大さの違いを理解するA

 だからこそゴッホの絵は、サラリーマンの生涯賃金の数億円を出してもまったく
 買えない。ゴッホの絵の中にはゆうに100億円を越えるものもある。

 その作品に、現世的な価値を当てはめようとしても、釣り合うものがない事に
 多くの人が気付いている。
 だからこそ、ゴッホの絵の価格は、どこまでも跳ね上がる。
 どんなに社会経験のない若者だって、あの価値とこの価値の違いぐらいは
 感じている。

      
      ゴッホの作品の値段はいくらでも跳ね上がる。
      そもそも、いずれの現世的な価値にも、真に
釣り合うことがない為である。

 
特に天才達の作品の価値は、いつの時代にも人々の心を打つ。
 ミケランジェロ、レオナルド・ダヴィンチ、ゴッホ、ピカソの芸術家の作品や
 モーツワルトやベートーベンのような音楽家の作品。
 これらの作品は、人類全般に対して向けられた作品である。

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 ● この大地に生きる人間の宿命と文明

 天才達の作品は、その天才のみにもたらせる作品である。
 希少であり、人類にとって普遍の価値をもつ。
 だからこそ多くの人々は、そこに現世的な利益では、あてがうことができない
 程の偉大さを見て取る。

 我々1人1人はこの天才のような偉大な作品をこの世界に残す事なく
 この
大地を去るのが宿命なのだろうか?

 断じて
である!
 文明が生まれたことが、そうでないと教えてくれるのだ。

 
文明とは多くの人々が共通に見た夢である。大きな夢である。
 その国に属さない人には、それがわかりかねるかも知れない。
 非合理で、非現実的なことと思えるだろう。

 なれど、その文明に生きる人々はまさにそれを信じた。そして求めた。
 ピラミッド、ルクソール神殿、これは古代エジプト人の夢であった。
 美しい彫刻の数々、パルテノン神殿、これらは古代ギリシャ人の夢であった。
 神々の彫刻と人間の彫刻が入り混じる建物、そして都市そのもの、これらは
 古代ローマ人の夢であった。
 
名もなき人々による共通意識であり協力であり情熱である。
 その偉業が後に文明と呼ばれるのである。

 21世紀の現代に生きる我々も、これらの文明の遺跡に接するとなんとも
 いえない雰囲気に包まれる。
 それが偉大な事を感知する。そして実際にそれは偉大な業績なのだ。

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● 個人の力と文明の力@

 あなたがどれ程優れた人であったとして、どれほどの優れた作品をこの世界で
 生み出せるだろうか?
 世に個性、個性という者達は多い。特に学者がしきりにその言葉を使う。

 なれど、そう主張する者達の力の貧弱さときたらどうしたことだろう。
 それらを主張する者達は、自分達が何か有意義な物をもたらしたと考えている。
 しかし、それらの者達のもたらしたものなど、ほぼ全てがお遊びである。
 それら考えはありきたりであり、さらにそのほとんどすべてが過去の誰かの思索
 を借りているに過ぎない。
 既にどこかで語られたことを、彼らは語っているに過ぎない。
 彼らの、どこにもオリジナリティーがないのだ。

 本来、真にオリジナルなものを提供できるのは天才である。
 そして天才のみである。
 天才のみが、この世界に今まで存在しなかったを新たにもたらす。
 天才のみが直覚的表象の領域を真に拡張するのである。

 そんな天才達でさえ文明の力を追い越すことはできない。
 文明とは、天才達を含めた多くの人々の意識の結晶である。
 文明が花開くとき、大抵、多くの分野で天才が登場する。
 天才達があらゆる分野から出るなどという事は、奇跡中の奇跡とさえ言える。
 滅多に出会えるどころか、ほとんど出会えない。
 文明がもたらされるとは、つまりその奇跡が起きたことである。

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● 個人の力と文明の力A

 古代エジプト、古代ギリシャ、古代ペルシャ、古代ローマの遺跡に触れた者達
 はそこに人間の可能性を見た。
 真に優れた者達は、古代の人々がいかに結束していたかを理解した。
 だからこそ、力を合わる事の重要性を知った。
 新たに何ものかを生み出せる天才でさえ、人々の結束によってもたらされたもの
 に驚嘆し、敬意を示さずにはいられなかった。
 真の天才でさえそうなのである。

 人々が力を合わせる為には意識を共有する事が必要である。
 共通意識を醸造し、皆で協力して事に及び、壮大な夢の実現を試みる事。
 その実践こそが、文明をもたらす事の第一歩なのである。
 それらは決して容易な事ではない。

 古代ギリシャ人の夢とは、この地上に人間の美しさを表現することであった。
 彼らは学問と芸術を最大限活用し、それを見事に達成した。

 文学・詩ではホメロスを筆頭に、哲学ではプラトン、アリストテレスを筆頭に
 数学ではピタゴラスを筆頭に、多くのギリシャ人の協力によって、ギリシャの地
 に数多くのアクロポリスが作られた。

 彫刻・絵画・詩・文学・音楽・建築物などのあらゆるものの上に美を表した。
 それらの中心には、必ず人間がいた。

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● プラトンの著書『国家』の真意@

 既に2000年以上前に、国家において民族の共通の意識こそがもっとも
 重要である事を詳細に述べた者がいた。
 古代ギリシャの哲学者
プラトンである。神のごときプラトンである。

 プラトンは著書『国家』の中で
哲人政治の重要性を述べた。
 現代の学者の中には、プラトンが哲人政治を重んじ、民主主義を軽視したとか
 民主主義の本質を理解していなかったなどと発言する者達がいる。
 それらの学者の多くは、プラトンが著書『国家』の中で述べている真意がまるで
 理解できていない。
 この『国家』という題名であるが、この意味する所は普遍的な国家全般を意味
 しているのでは決してない。

 この国家とは、まさに
ギリシャ(≒アテネ)を意味している。
 または
ギリシャの民(≒アテネ市民)を意味している。

 『国家』とは、プラトンから同胞のギリシャ人への訴えであり
魂の叫びである。

   

 プラトンはこう言いたかったのだ。
 世界にはたくさんの国がある。
 なれどその中において、哲人政治を行える者達こそ我らギリシャ人である。
 我らギリシャ人、それらを行える力をもつ。
 理念と理想とを掲げて哲人政治を行えるものこそ我らギリシャ人でないかと。

 プラトンは、
ギリシャ(≒アテネ)とは何かをギリシャの民に問うていた。
 プラトンの時代、既に古代ギリシャの国際的地位は低下していた。
 スパルタに破れてからは力が衰えていた。
 プラトンの死後、数十年もせずして、アテネは、マケドニア王国に屈した。
 それ以降、アテネの政治的独立性を失われる事になった。
 プラトンの予感は残念ながら当たってしまった。

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● プラトンの著書『国家』の真意A

 アテネが衰退した後でも、アテネはあらゆる国家から尊敬を持って
 迎え入れられた。アテネが圧倒的な芸術と学問を保持していたからだ。
 アテネは他の国の屈した後も、財産は保証されたし、生活は今まで通りであり
 アテネは文化都市として栄えた。

 なれど、そこに古代ギリシャ人をギリシャ人たらしめた精神は見つからなかった。
 既に古代ギリシャ人の共通の意識は失われた。

 プラトンは、このギリシャ人の共通意識が失われることに危機を抱いていた。
 実際にプラトンの死後、数十年して古代ギリシャ人をギリシャ人たらしてめて
 いた共通の意識は消え去っていた。

 プラトンは、この共通意識が失われつつある事をギリシャ人に問うた。
 我々こそが哲人政治を掲げ、それを実行できる者達ではないか!
 それこそがギリシャ人ではないか!と。
 プラトンは民族の共通意識の重要性をギリシャ人に繰り返し語りかけた。

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● 国を治めることの意味を忘れた近代人

 近代において多くの学者が国家とは何であるかが理解できなくなっていた。
 近代において資本主義や共産主義という経済的価値のみを展開すれば国家
 が運営できると考えられていたことが、それを如実に示している。
 経済的価値で国家を治められると考える程、人々は浅はかになっていた。

 
国家を治める事は人間を治める事である。

 近代人はその真の意味を忘れた。
 かつて多くの王国において、王様が様々な価値をバランスよく民衆に
 提供していた労苦を忘れた。
 経済的利益の分配のみで、国家が治められるなどと盲信した愚か者達が
 共産主義国家、社会主義国家を作った。
 人間の本性を甘く見たこれらの国家は、直ぐに内部から崩壊した。

 戦後日本においても、民主主義や資本主義を叫んでいれば、すべてうまくいく
 というような主張が学者の間からなされてきた。
 人々の意識を共有化することを忘れた戦後日本で、経済的繁栄の裏側では
 人々は孤立していった。

 戦後日本では、プラトンが強調して述べた意味について真に理解する人々
 は本当に少なかった。
 自分達が何ものであり、何を体現し、何を保持していくか、何を次世代に
 つなげていくかの重要性を軽視した日本は、経済的停滞の中で、失ったもの
 の大きさに気付かざるえなくなってきた。

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● プラトンの危機感@

 今から2400年以上も前のギリシャにいおいて1人の男は強い危機意識を
 もっていた。
 その男の名はプラトン。人類史上最高峰の天才である。
 神のごときプラトンである。
 
 プラトンは強く感じた。
 このままではいずれ、アテネは他の国家に飲み込まれてしまうと。
 その危機感がプラトンに『国家』を書かせることになった。

 当時のアテネの人々の多くが、ギリシャ本来の意味を忘れていた。
 各自の利益の確保に余念がなかった。
 仮にアテネがどこかの大国に吸収されても、現況の利益を確保できさえ
 すれば、それでも良いと考える人々も多くいた。

 だからこそプラトンは問うた。
 我ら
ギリシャ人(≒アテネ市民)とは何であろうか!と。
 我らギリシャ人こそが、哲人政治を成しえる唯一の者達ではないのか!と。
 それに向かって進んでいくのがギリシャ人ではないか!と。

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 ● プラトンの危機感A

 むろんプラトンは、学問の中に愛国心などを入れ込む事を欲しなかった。
 であるからギリシャ人の為だけの国家論ではなく、普遍的な国家論を提供
 しようともした。
 実際に、プラトンが語る内容だけあって本の題名を『国家』と名づけても
 特に違和感がなく、後の人々に読まれ続けた。
 国家全般について通じる普遍性が確かに、そこに含まれている。

 なれど、時にこれはどうかな?と思える箇所があるのは確かである。
 なれどそんな箇所こそが、ギリシャ人に対して書かれたものである。
 民族ごとに保有する国家意識(≒民族意識)は異なる。
 古代ギリシャ人にはギリシャ人の民族意識があり、古代エジプト人には
 エジプト人の民族意識がある。

 『国家』という言葉の裏側に、ギリシャ(≒アテネ)という文字がある。
 それが見えない者には、プラトンの言葉が聞こえまい。
 プラトンの主張は、偏っているとだけ見えるだろう。

 それらの者達には、プラトンの
魂の叫びが聞こえないのだ。

    
   
プラトンの著書『国家』は、ギリシャ国家(≒アテネ市民)へという意味である。

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● 国家に対する貢献の平等意識

 古代の国家の特徴の1つが、国家を支えるという面において、各自の役割は
 違えど、誰もがその貢献においては平等だという意識が形成されていた。

 古代の多くの国では確かに、身分の差、階級の差はあった。
 王と貴族、知識人、庶民、奴隷と階級差があり役割があった。
 なれど、国家を支えるという意味では、その貢献においては差がなかった。

 だから身分の差は当然あったが、国民同士非常に仲が良かった。
 古代ローマでは、何かの政策を決めるのに、王と貴族と平民と奴隷の全て
 の階級から代表が選ばれて、会議によって政策が決められた。
 また都市の中心部には、大浴場が置かれ、身分の差に関係なく、貴族も奴隷
 もほとんどただみたい金額で利用して、社交の場でもあった。
 だからこそ古代ローマに占領された人々の多くも、真にローマを愛した。

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● 古代人の寛容の精神

 国家に対する貢献の平等の意識が、古代人にある精神をもたらした。
 寛容の精神である。
 古代人の寛容の精神とは、他人を許すとかいう、そんな簡易な意味ではない。

 そんな意味ではなくて、人間そのものに対しての寛容を意味する。
 古代の国家、古代の人々は、人間そのものに対して寛容だったのだ。

 国家に対する貢献という意味では誰もが平等であり、あらゆるサービスを
 身分の差に関係なく享受できた。

 コロシアムにおいて誰もが決闘や劇を楽しんだ。
 もちろん王様や貴族、平民、奴隷と身分の差によって座る席は決められて
 はいたが、皇帝も貴族も平民も奴隷も、同じ場所で、その空気の中で
 時に笑い、また時に泣いて、同じ時間を過ごしたのだ。

 近代、現代であれば人種によって差別されたり、またお金を持っているかで
 決められた人しか入れない会員制ビジネスなどが盛んであるが、古代人は
 誰もが同じ場所に集まることができ、同じように楽しんだのだ。

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●  近代における人間に対する不寛容さ

 近代における人間に対する不寛容さは何としたことだろう。
 目の色や肌の色が違うというだけで有色人種を蔑視し、差別した白人国家。
 身分の差はないといいながら、エリートのみがおいしい思いをして、庶民を
 さげすむ共産国家。

 現代の朝鮮半島にも、国名に人民とか民主主義とか書いていながら、その国の
 為政者は、特定の人間だけとだけテーブルを囲み、会食をしている。
 楽しみを独占し、特定の者とだけ同じ時間を過ごしている。
 なんとも、生け好かない者達である。

 近代や、現代の国家は、身分の差がないなどといいながら、あちこちで
 人間に対する多くの不寛容さが見られる。

 古代においては、確かに身分の差はあった。
 なれど、それ以上に人間そのものに対する寛容さがあった。
 身分の差に関わらず、皆が同じ場所で、同じ時間を過ごした。
 皆で楽しみを共有したのである。

 古代ローマ人の寛容さというのは、人間そのものに対して寛容であったという
 意味である。その意味を理解しなければ、古代ローマの寛容の精神といった
 ところで、何もわからないのだ。

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● 古代人の国家観=君民一体@

 偉大な古代の人々の国家観とは何であるか?
 それこそ
君民一体である。
 皆にそれぞれの役割があって、その役割を各自が懸命にこなす事で国家が
 成り立ち、また偉大にもなりうるという国家観である。

 その役割もその役割に対する対価(報酬)も様々に異なるが、その貢献に
 おいては差はないという明確な意識が、古代の人々の間にあった。
 そこまで人々の意識が徹底されたからこそ文明が生まれた。

 それぞれが己の役割に徹することで、偉大な文明が生まれた。 
 まさにミツバチの巣のごとくであったのだ。

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●  近代、現代の人々の国家観

 これに対して近現代において、人々の中から君民一体の意識が消えた。
 各自がやりたい事をやるようにするのがベストだと教えられ、皆そう考えた。

 もちろん、それはそれで偉大なものが生まれれば結果オーライと言えるのだが
 予想したとおりに、近現代はまったく偉大さを見せない。
 20〜21世紀の生み出しもので古代文明に匹敵するものなど何もない。
 現代に生きる人々は、自分達の作品の出来を直ぐに過信する。
 なれど25世紀の人々は20世紀、21世紀の作品などには目を向けない。
 未来の人々があこがれるのは、やはり古代の人々の作品なのである。

 近代、現代では、あの仕事よりも、この仕事の方が国家に貢献していると人々は
 当然考えるようになった。
 その対価として、たくさんのお金をもらうのは当然と人々は見なすようになった。
 多くのお金を集めるものは、自分は優れているから当然お金がもらえていると
 考えている。その者達の中には低賃金で働くものを蔑む者達もいる。

 自分の仕事が、他人の仕事よりも国家に貢献していると平気で主張する者達
 もいて、テレビに登場しては、俺を見習えとばかりに説教を垂れる。

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● 古代の国家と近代国家と差@

 古代の国家とは、人々がまさにアリやミツバチのごとくに一体となっている。
 
国家が1つの全体として動いているのだ。
 女王アリがいて、働きアリがいて、兵隊アリもいる。
 皆が役割は大きく異なるが、その役割を懸命にこなす。

 巣を守り者、巣を作る者、餌を運ぶ者、卵の管理をする者、卵を生む者、
 役割は確かに大きく異なるが、アリの巣を運営するという意味においては
 皆、その貢献は平等である。

 誰もが自分の貢献が一番優れているなどと思わない。
 皆が協力に結びつき、一体感を有している。

 まれに、これと同じ事が、古代の文明において成された。
 古代ローマにおいては、王も貴族も平民、奴隷もいた。
 確かに身分の差は厳然と存在し、その役割も大きく異なった。
 その役割に対する対価(報酬)も大きく異なった。

 なれどもローマを支えるという意味では、全てのローマ人が平等であった。
 ローマを支えているという
貢献の意味において平等
 であった。その共通意識が形成されるほど人々が一体感を有したのだ。

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● 古代の国家と近代国家と差A

 あるB国の兵隊アリはこう叫んだ。

   ” 女王アリや、兵隊アリや、働きアリ方などの
     
役割の違いがあるのはおかしい。
     そうだ!
全員が兵隊アリになろう
     そうして兵隊アリの分の餌を平等にもらおう。 ”


 B国は、すぐさま没落した。
 兵隊アリばかりで、働きアリがいない為にアリの巣が完成せずに、あちこち
 の工事が途中で止められており、壊れた箇所は修復されないままだ。
 そこに水が入り込み、道を歩くことすらもままならない。

 さらに女王アリの言う事などまるで聞かず、アリの巣の中は混乱を極め、
 勝手に蓄えていた餌を食べてしまうアリもできてきた。
 彼らをあだ名は、エリートと呼ばれている。
 アリの巣はガタガタである。もはや巣全体は
機能しない
 このB国の正式名称は、
共産主義国家である。

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● 古代の国家と近代国家と差B

 あるA国の兵隊アリはこう叫んだ。

   ” 俺達、兵隊アリの方が、働きアリよりも国家に貢献している。
     だから俺達、兵隊アリの方が
餌が多くて当然だ!”
  さらに続けてこう主張する。
    ” 能力さえあれば、誰でも兵隊アリになれる。
      兵隊アリになれないお前たちは
劣っているのだ。”

 A国では、確かに多くのアリが働き、アリの巣はどんどん出来上がったが、
 兵隊アリは、働きアリを軽蔑して、アリ同士の中は良くない。
 うまくいっているように見えて、アリの巣には多くの
不満が渦巻いている。
 このA国の正式名称は、
資本主義国家である。

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●  古代文明にまるで至らない近代国家@

 近代、現代の国家は、古代の文明に比べてまるで至らない。

 共産主義国家は、皆で同じ兵隊アリになった。
 同じ対価を得ようとした。餌の量ばかりに目がいっているのだ。
 皆で力を合わせるという本当の意味がわからず、支給される餌ばかりに
 目が言って、配給される餌に差があると怒り心頭になった。
 全員が兵隊アリとなった為に、国家がまったく動かなくなり早晩に潰れた。

 資本主義国家では、目の前に、ニンジンぶら下げて働く者にはその餌を
 支給すると大々的に喧伝した。
 能力があれば働きアリから兵隊アリになれる事もできた。

 なるほど多くのアリが自分の餌の取り分を増やす為に、能力を磨いた。
 兵隊アリになったアリも多くいる。
 働きアリが、もらえる餌が少ないと不満を述べると、兵隊アリは、お前の働きアリ
 の能力が低いからだと強く主張した。
 兵隊アリとなった者達は、多く餌をもらうのは当然だと主張した。
 能力が劣っているという理由で働きアリを蔑視する兵隊アリも現われた。
 どうして自分が優秀な兵隊アリになれたのかを得意満面で語る兵隊アリも続々
 と現われた。蟻ネットワークに乗せて、その主張が飛び交った。

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●  古代文明にまるで至らない近代国家A

 確かに大きなアリの巣は出来上がった。
 そうして実によく維持されているように見えたが、肝心のアリたちの間から
 多くの不満が発生した。巣の中には多くの不満が渦巻いている。

 アリ同士は、個々の能力を磨いて、他をアリを出し抜くことばかりを考えている。
 確かにそれで大きなアリの巣はできあがったが、アリ同士はバラバラである。
 アリたちは、連帯感を失っている。

 古代の人々は、その役割に従って懸命に努めた。
 そうしてその貢献の上では誰もが平等であるという意識を形成した。
 その差が、圧倒的な違いを生むことになった。

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● それぞれの共通意識

 古代ギリシャ人が哲人王を抱えて理想の政治を目指すという共通意識を保有
 していたように、他の国家においても、国家の国民の共通の意識が存在する。

 アメリカ人ならば、それが例え、どれほど良い政策であろうが議会を通らないで
 承認される政策などは無効なのである。
 アメリカが国民がそれを重んじるからこそ、あの事件が生まれた。
 世に有名な、
ボストン茶会事件(1773年)である。

 アメリカ人であるならば、知らぬ者はたぶんいないであろう。
 北アメリカでは、イギリスとフランスの勢力争いがあり、アメリカの白人は、
 イギリスと力をあわせてフランスと争っていた。
 イギリスからすれば、アメリカの為の戦いであり、その戦費をアメリカ人から徴収
 する意味で、輸入に関税をかけて(タウンゼンド諸法)、戦費を調達しようとした。

 イギリスもその税については、アメリカも協力してくれるだろうと踏んでいた。
 なれど現実は大きく違った。
 どのような政策であっても自分達アメリカの議会を経て承認されたもので
 なければ、それは決して承認できないというアメリカの強い意志に阻まれた。

 議会を通って承認されたものこそが正当性を認める国こそがアメリカであり
 それを理解し、支持するのがアメリカ人であるという国民の共通意識があった。

 茶会事件に端を発して起こったアメリカ独立戦争の代表的なスローガンが
 あの有名な
代表なくして課税なしである。
 当時のアメリカ人がアメリカという国はなんであり、どのようでなければ
 ならないことを明確に意識していたことを物語っている。

 これがアメリカ以外の国であれば、議会の承認はさて置いて、実際にイギリス
 と戦うことによるメリットとデメリットを語り始めるだろう。
 もちろん、それが間違いとか正しいとか言っているのではない。
 だが民主主義と議会を掲げるアメリカにとっては、それに対する妥協は
 自分達がアメリカというものを捨てるという同じ意味が存在した。

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●  同様に日本とは何か

 その国が何であり、何を大切にしてきたかは国々で異なる。
 国家意識、民族意識はそれぞれに異なっていて良いのだ。
 違ってよいのだ。
 もし同じならば、この世界は実につまらない。

 人間と同様に国家も多種多様でよい。
 世界の人々が全て同じ価値観であるならば、世界はつまらない。

 人それぞれに様々な価値観が存在するように、国家にも様々な価値観が
 存在している。

 それでは日本とは何であり、何を大切にしてきたのか。
 それを知るには、ご先祖を知ることである。
 その国家の共通意識を理解したいならば、そのご先祖を見ればよい。
 
 日本人は古来より神なるものを大切にしてきた。
 自然から与えられたものを愛することである。
 確かにそれを肯定することは多くの課題が発生するが、でも自然の生きんと
 する意志を肯定することこそ日本なるものである。
 その意志の肯定を否定しないことが日本である。
 日本人はそれらの肯定に神なるものと呼んできた。
 八百万であり、あらゆる方向に栄える事が随神の道である。

 そうして日本は古来より神なるものを大切にしてきたからこそ、仏なるものも
 また残り続けた。
 神なるものに進みたいと思っても人間の中に愚かさがある。
 それらの至らなさの許しこそが仏である。

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● アメリカ人がもっとも大切にするもの

 アメリカという国は、もっとも何を大切にするか?
 民主主義や議会であろうか?
 答えは
×である。

 確かにアメリカは議会を大切にする。民主主義を大切にする。
 それらを大切にするからこそ、それ以上に大切にするものがある。
 それこそが国家意識(≒民族)である。人々の意識を共有する。

    
国家意識(≒民族意識) > 民主主義、自由、議会

 アメリカの教育にそれが徹底的に現われている。
 アメリカ人は、幼児の頃から小学校、中学、高校までの期間を通じて、
 アメリカとは何であるかの教育を行う。
 アメリカがいかに偉大であるかを徹底的に教えるのだ。
 その点におけるアメリカの教育は徹底的である。
 小さい頃から毎日、国旗に掲揚する事が義務付けられるのもその一環である。
 アメリカの平時の教育は、日本の戦時期の教育よりも愛国的である。

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●  再度、民主主義と共通意識

 アメリカが国家意識を強調するのは当然といえば当然ある。
 人々の共通意識がなく、民主主義など導入したならば、国家は必ずバラバラの
 方に動くからである。
 各自がバラバラに要求をしたならば、当然バラバラとなるのは当然である。

 大きな夢、国民の共通意識が形成されなければ、人々の中に入ってくるのは
 小さな夢である。それらの小さな夢とは、大抵、個々人の利益である。
 経済的利益を得る為に、政治家を応援するようになり、経済的利益が
 得られれば国家を売り払うことだって平気でするようになる。
 歴史において、個人の利益を優先して国家が滅びた事などたくさん存在する。

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● 戦後日本の体たらく

 特にここ数十年の日本の状態は酷い。
 戦後の日本人の中には、己の思想の守る為に簡単に、国を売り払う連中が
 でてきた。共産主義や社会主義などのガラクタ主義を勝手に言っている分には
 構わないが、それらの主義を擁護する為に、現実を曲げて、それらの主義が
 優れているなどということが問題なのだ。

 共産主義や社会主義の一番、至らなさは、人間が外的環境で救われると
 信じた事にある。それも外的環境とは経済的豊かさであり、経済的な充足だけ
 で国家が治められると考えたいた事が、浅はかさを露呈している。

 経済的富の分配がしっかりすれば国家が治められると安易に考えるほど、
 近代の人々の洞察力は失われていた。迷妄と愚鈍とはこのことである。

 国家、国民よりも、自分が支持するイデオロギーを守ることに懸命な者達が
 日本のあちこちで溢れた。その中には、日本の悪口を言う者も多かった。
 日本人が外国に拉致されているのに、政治家の多くは頬かむりの態度をとった。

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● 国家を真に愛する者達の少なさ

 戦後日本だけではなく、戦前の日本であっても、国家を愛さずに自分達の
 利益ばかりを愛した者達は多い。

 帝国陸海軍の軍部がそうである。
 彼らは、国家を守ると声高に主張しながら、その実、軍部を何よりも守った。
 軍部の都合を優先させて、国家を危うい状態においた。
 結局、軍部のコントロールが効かなくなり大東亜戦争の敗戦まで突っ走った。

 戦前の軍部が日本の国家よりも軍部を大切にしたように、戦後の日本人の中
 にも国家よりも自分達の思想やイデオロギーを大切にした者が数多く存在した。
 彼らは同じ穴のむじなである。

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● 戦後日本の知識人の低レベル@

 そこまで酷くないが、戦後日本の学者の多くがまるで至らなかった。

 戦後日本が、大きな夢を失い、従うべき規範を失った。
 日本とは何を大切にしてきて、何を保持するかが理解できなくなった。

 そんな時に、経済的価値のみを強調すれば、瞬く間に日本人が経済的価値
 一辺倒に傾くのは当然といえば当然であった。
 世界中の人々から働きアリと呼ばれた日本人。
 多くの会社人間が生まれ、24時間戦うことが求められた時代もあった。
 一つの価値に国民全体が傾いてしまうという事は、その国家の弱さを物語る。

 本来であれば、このような時こそ、知識人の出番なのである。
 経済的価値以外の価値も、この人生は当然あるのだという事を主張する事が
 多くの学問から学んだ者達の役割でもあるだろう。

 しかし、この国の知識人ときたら、経済的価値以外の価値を主張するかと
 思いきや、それどころか経済的価値を強調し始めた。

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 ● 戦後日本の知識人の低レベルA

 学問を行う事と仕事の業績や経営状態に、どういう因果関係があるのかは
 知らぬが、また何の根拠かもわからぬが、さも因果関係があるかのごとく、
 そんな主張が大学関係者から声高にされ始めた。
 大学関係者(大学教授や学者)が、企業経営者側と手を結んだのだ。

 学問を行う事と仕事の成果との不確かな関連性がさも事実のように多くの学者
 によって強調して語られた。大学教授達はこれらに関する本をたくさん書き、
 それらを主張したビジネス書は売れに売れた。
 図に乗った企業経営者も、仕事は人間の人生そのものなどと言い始めた。

 国民全体で大きな夢を見ることが失われていた日本人には、それらの主張に
 対抗する術がなかった。
 多くの人々は、そうなのかな〜と思いながらも、経営者と学者とマスコミが
 作り上げた根拠のない人生観に支配され始めた。
 不安な日本人には、とにかくその不安を忘れ去れる目的さえあればよかった。
 とにもかくにも日本人は、仕事で業績を上げること、経営者に認められる事に
 最大の喜びとして邁進した。
 受験生にとって偏差値の上昇こそが全目的であるかの自体となった。
 サラリーマンにとって、部長と課長の差はとても大きな差に感じられた。
 全人的な差とさえ思う者も少なくなかった。

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● 戦後から50年間の日本の学者の主張@

 大きな夢を失い、共通意識がもてなくなった日本人。
 これらの日本人に残されたのは各自の小さい、小さな夢の達成である。
 そんなところにさえ生き甲斐を見出せなくなっていた。
 そんな人々の心に、資本主義の資本の論理は入り込んでいった。
 日本国民全員が、働き虫になった。
 
 ここでは働く事が悪いとか、仕事に生き甲斐を見出すのが悪いなどとそんな事
 をいっているのではない。
 
 この世界には様々な価値観がある。
 それらの価値観が統一され、また国民全体で見る大きな夢がなくなれば
 大抵は、個々人の経済的利益となるのが落ちなのだ。
 
 実際に日本は、その道にまっしぐらに進んだ。
 優れた知識人がその国にいるならば、国民全体の価値観が均質化し、かつ
 現世的な利益に傾いたことに警鐘を鳴らしたはずなのであるが、日本には
 それらの知識人は、ほぼ皆無であった。
 日本の重大な不幸の1つは、
知識階級が形成されなかった事である。

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 ● 戦後から50年間の日本の学者の主張A

 反対に、この国の大学教授や学者は、経済的価値の取得についての発言
 ばかりが目立ち始めた。

 ”学問を身に付ければ、仕事の成績も上がる”
 ”学問が優れた判断をもたらす”
 ”教養と仕事の業績は比例する”


 上記の事が盛んに喧伝された。
 そもそも学問と仕事の業績になんの因果関係があるのだろう?
 なれど、そんな批判などまったくなされなかった。
 この時代の日本経済は成長を続けていたからだ。
 いけいけ!どんどん!時代ゆえに、何と発言しようがまったく指摘されなかった。

 企業経営者もこれらの学者の話を聞くの事が大好きだった。
 それはそうだろう。
 学者が、仕事の業績と学問を身に付けることは比例するなどというのだから
 企業経営者として成功している経営者としては、自分達が何がしかの智恵が
 あると言われているようで嬉しかったのだ。

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● 戦後から50年間の日本の学者の主張A

 企業経営者、学者、マスコミが一体となって、学問と仕事の共通性を強調した。
 バブル時代においても、多くの学者が企業の新人研修の中で講演を依頼された。
 この手のビジネス本もたくさん売れた。
 なんてことは、なんと主張しても儲かった時代であったに過ぎない。
 これらの学者の合言葉は
セルフヘルプ(=自助努力)”である。
 うまくいかないのは自助努力が足りないという言葉で片付けられた。
 
 ここでは別に自助努力の重要性を否定したいのではない。
 それらは重要である。
 しかし、そういう言葉で片付けてはいけない事が多くある。

 これらの自助努力を主張し続けた大学教授や学者に聞きたいのであるが
 現代の2010年において日本経済が奮わないのは、日本人が自助努力して
 いないからなのか?
 バブル時代の人々は自助努力していたから豊かであったのだろうか?
 バブルが弾けたのは自助努力がなくなったからなのか?
 現代の経済状態がひどいのは、日本人が自助努力をしなくなったからか?
 そうではないだろう。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
        『 稲穂黄金の未来の知識人へ


 
● 仕事が人生などという愚かな発言@

 国民全体で夢見る事を忘れた日本人にとっては、資本主義とか共産主義とか
 の経済体制が、日本人が戦後に失った規範の代わりを、それらがしてくれる
 から、その論理に喜び勇んで従うようになった。

 企業経営者、学者、マスコミが一体となって資本主義に乗っかった。
 そうして企業経営者の中には、仕事が人生などといい始めた。
 これは企業経営者にすれば、本当に都合が良い言葉であった。
 この発言に対して、日本の大学の学者が保証をつけた。

 学問をする人は、仕事が出来るという話を吹っかけ始めた。
 経済的利益に邁進する商人とってはこれ程、都合が良いこともなかった。
 そうして企業からの広告収入に潤うマスコミもこれを喧伝し、出版業界は
 そんな発言をする大学教授に多くの本を書かせた。
 まさに
資本の論理がこの国を覆ったのである。

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 ● 仕事が人生などという愚かな発言A

 この裏で日本では一体何が起こったことだろう。
 多くの日本人は、経済的脱落を恐れた。
 仕事ができない事は教養がないごとくにも言われかねない。

 学者とマスコミと企業経営者が手を結び、経済的成功と学問の関連性を
 指摘すればするほど、日本人の多くは会社からの離脱を恐れた。
 サラリーマンにとって、まさに会社こそが人生となった。
 会社内の出世競争に勝つ事こそ、人間の価値の象徴のごとくに負われた時代
 が到来した。出世競争に敗れることは人間性そのものを否定されたごとに
 感じた中間管理職は多く存在した。
 仕事を首になることは死刑宣告のごとくに思えた時期も確かに存在した。
 日本国民に多くのサリーマンは、働くという意味が働くそのもの以上の
 プレッシャーを受けているのは確かなのだ。

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● 日本にもっとも必要なもの@

 国民同士の共通意識が失われた日本。
 そこにとって変わったのは、経済的利益の増大である。
 なんてことはない。資本主義の論理に、人間の価値も比例させた。
 
 これらの考えは、企業経営者にとってまことに都合の良い考えであった。
 日本人の多くは、これらの経済一辺倒の雰囲気に対抗する術はなかった。

 人間が求める様々な価値を抑圧して、一つの価値に傾くことは、いずれ
 その対価を支払わされることに気付く者達はいなかった。
 人間の様々な欲求を無視したことによる反動が一気に返ってくるのだ。

 それらについて少しぐらい気付いてもよさそうなものだが、大学関係者の
 多くは能天気な者達でしめられた。

 日本の学者の中で優れた洞察力を有している者は、ほとんどいない。
 特に文科系の学問分野の学者は、まったく奮わない。
 残念ながら、これが日本の現実である。

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 ● 日本にもっとも必要なものA

 日本に必要なのは科学技術などの技術力の強化ではない。
 
文科系の学問の復興である。

 
人間に対する理解が必要なのである。
 文科系学問の学者の多くが、口を開けば日本には技術力が必要だという。
 しかし、この国の技術力は充分にある。
 
 問題は、人間とは何かを洞察する真に優れた文科系の学問がまったく
 失われている事にある。優れた文科系の学問こそが必要なのだ。

 国家を治めることは、人間を治めることである。
 それらの意味に、現代の学者は気付かない。
 だから平気で、学問をする事が仕事の業績を上げる事につながるなどと
 と適当な事を言う。

 もし戦後の日本において、優れた者がいたならば、国民的な共通意識を
 失った日本において、経済価値という一つの価値に国民全員が傾く危険性
 を早々に指摘したはずである。
 何度も
警鐘を鳴らしたはずである。
 経済的価値以外の価値を認めるべく発言したに違いないのだ。

 国民全体が一つの価値に傾き、それ以外の価値を軽視すれば、いずれ人々の
 内面から苦悩を生まれる。
 その苦悩は、決まって無気力を発生させる。
 特に敏感な若者が無気力にならざるえない。

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● 経済的価値一辺倒と国民の無気力

 経済的価値は、確かに生活においては重要である。
 なれど人間の本質そのものからは離れている。
 本質から離れたことばかりを社会全体で、本質のごとく主張し続ければ、
 それらに敏感な若者は、そんな人間社会から距離を取り始める。

 人間が素直に感じていることとのギャップが広がり、それが積み重なると
 決まって反動が起こり、それは抑えられなくなり、社会に無気力が蔓延する。
 人間の本性を無視した共産主義国家の人々が、働かずに、前向きに生きる事
 を放棄したごとくにである。
 21世紀の日本もこの状態に陥っているのだ。

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● 真の知識人が育たない日本の不幸@

 これらの大学教授や学者の主張が通じたのも20世紀までである。
 バブルが弾けて急速に景気が悪くなった。
 インターネット社会に突入して、社会構造が大きく変化した。
 21世紀に入り、経済の成長どころか停滞から衰退が目に見え始めた。

 経済も順調であった時代の彼ら主張は、ただ浮かれていただけである。
 本当に対処しなければならない事を見過ごしてきた。

 本当の知識人というならば、2010年の現在の状況を今よりも20年以上前
 に見抜いてなければならなかった。
 それもプラザ合意の時代(1985年)には見抜いてなければならなかった。
 それぐらいできて知識人と言える。

 現代の日本の状態の萌芽は既にあの時代にあった。
 なれど当時の学者の多くが自助努力という言葉だけで締めくくってきた。

 日本に起きている本当の変化、世界に起きている変化を冷静に見抜き、
 その対処方法を模索することをしてこなかった。
 それらに対する提言がなかった。

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 ● 真の知識人が育たない日本の不幸A

 これらの主張をした大学教授や学者を見ているとある者達と重なる。
 大東亜戦争時の旧帝国陸軍の作戦参謀のエリート将校である。

 既に飛行機の時代の幕開けになっていることに気付かず、さらには無為な
 作戦ばかりを現場に押し付けて、貴重な戦力を消耗し続けた者達である。

 作戦そのものに多くの欠陥があるのに、戦の敗因を現場の兵隊に押し付けた。
 いわく  ”気合が入っていない”
      ”日本男児としての勇敢さが足りない”
      ”敵に降伏するのは恥である”
      ”努力が足りない”
     など。

 これらの作戦参謀の将校の口癖は、現場の者達の努力が足りないである。
 そういって、責任を現場に押し付けてきた。
 なれど日本兵の勇敢さは、世界中の軍人将校が知っていた。
 これに対して日本の作戦参謀の無能さも世界中の軍人に知られている。

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● 真の知識人が育たない日本の不幸B

 これらの参謀本部の発言と、戦後の日本の知識人(大学教授や学者)の発言
 
セルフヘルプ(=自助努力)”もまるで同じではないか。

 本来ならば、大きく変化した社会構造、経済構造を適確に見抜き、その対応に
 向けての政策を提言すべきであるが、それらの対応は日本では、まったく
 見られなかった。
 責任は、またしても国民に押し付けられた。
 時たま、それらを憂える発言が出ても、日和見主義的で真剣に考えようと
 したものはいない。
 日本の国民を真に思う知識人は本当に少ない。

 現代の21世紀において日本の経済がぐらぐらになる以上に、国家としての体を
 失ったのも当然である。
 日本の国の不幸の1つは、
真の知識人が育たなかった事である。

 他の規範によって人々が雁字搦めにされて多くの無理が発生し、様々な事が
 社会に現われる。戦後の日本の自殺者数が毎年3万人を越えるという異様な
 事態も日本人が国民全体で描くべき夢を失っている事に関連する。

 日本とは何か、日本人とはなにかという共通意識を失っているのだ。
 それらの共通意識がないから国民全体でつながる連帯感が喪失している。
 会社組織や出身大学や地域の連帯で結びついていても、その孤独感は
 完全には癒されない。

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 ● 連帯感が失われた日本

 連帯感の喪失が如実にこの数字となって現われている。
 本来の価値観の喪失を見ようとせずに、資本の論理(≒経済的価値)一辺倒
 に傾くことが、この国の
若者のやる気を奪っている
 日本の知識人と呼ばれる者達の多くが、それらにまるで気付かない。

 企業経営者と手を組みセルフヘルプ(=自助努力)を連呼したのだ。
 安易な発言も、経済状態が良かった時代には、さほど問題ならなかった。
 なれど21世紀はそうはいかない。
 資本の論理が世界中に牙を向くからだ。
 資本の論理は、21世紀を生きる全ての人々に牙を向ける。

 安易にものを考えることは、いずれその対価を支払わされる事になる。
 困ったことにそれらは一気に雪崩のごとくに押し寄せるから大変である。
 人間を治めるということは、それ程難しく、決して舐めてはいけないのだ。
 それを忘れるといずれ、対価を支払わされる事になる。

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● それを指摘した学者

 日本人が国民全体の共通意識(≒民族意識)を失っている事を指摘した日本
 の学者はいなかった。
 もちろん、まったくいなかったわけではない。
 正確な表現すれば、ほんの少数ではあるが指摘した者達はいる。
 適確に詳細に指摘した学者がいる。
 それが
小室直樹である。

               
小室直樹
         
  
  民主主義には、民族教育(=共通意識)が不可欠であること彼は強調し続けた。

 小室直樹は、
民族意識の重要性をつとに強調した。
 彼はその著書の中でこう述べている。
 ”近代国家は
民族国家である。
  民族が成立しなければ、国家は成立しようもない。
  しかも、民族は自然に存在するものではない。 
    〜〜〜
 民族とは、人間がつくったものである。人間の作為による。
 ゆえに、近代国家をつくろうとする者は、民族形成に精根をつくす。”


 さらにこう続ける。
 ”とくに、民族教育を重視するのがアメリカ合衆国。
  アメリカは、自由な移民の国であることを国是としている。
  誰がアメリカにきてもよろしい。どんどんいらっしゃい。 
  宗教、身分、財産の有無、民族、言語、一切問わない。これが大原則。
  とすれば、アメリカの国の
となるのは何か。民族教育である。
  民族教育の坩堝の中に投げ込んでアメリカ人をつくりあげる。
  もしそうでなければ、移民の国であるアメリカ合衆国は、たちまち
解体
  するであろう。だから、アメリカは
民族教育に全力をあげる。”

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● 小室直樹が強調した点

 小室博士はさらに以下のことを強調した。

 アメリカでの小中高の学校では、一般的な勉強なんてそっちのけある。
 アメリカがいかに素晴らしい国であり、アメリカという国が何であるかを徹底的
 に子供の頃から教える。
 お勉強は、大学からで良いというスタンスである。
 だから大学に入った時の学生の中には、分数すらろくにできない者達もいる。
 大学もそういう人達のレベルにあった授業が提供される。
 そうして大学卒業までには、日本での大学の教養課程の基礎的なレベル
 まで一気に教えて、身に付けさせる。
 アメリカの専門教育は、大学院から始まる。

 アメリカが特に重要視するのは歴史教育である。
 実際のアメリカ史はよい事ずくめではない。悪い事もだっていくらでもある。
 なれど、児童・生徒の教育の為に行われる教育は、そうではない。
 悪いところ、汚辱に満ちたところはふせておく(無視したり適当に調整する)。
 そして栄光に満ちたところ、アメリカに緒建国の精神に沿ったところを表面に
 押し出して、そこを中心に歴史物語を語っていく。

 そうしてさらに、那珂道世博士の言葉を取り上げてこう強調する。
 
歴史教育と歴史研究はまったく違う”と。

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● 真の学者が不在の日本

 小室直樹のような学者がほとんど登場しなかった日本。
 日本の学者の中で、真に学問をしたものはほとんどいない。
 その多くが勉強不足でもある。

 小室直樹は、経済学、宗教学、歴史学、社会学、数学などの多くの学問から
 学んだ。多くの学問分野に目を通してこそ、その真髄を理解してこそ、
 初めて複数の視点から物事を眺める事ができる。
 そうして初めて鋭い視点が生まれ、問題点を見分けることができる。

 なれど日本には小室直樹のような学者がほとんどいなかった。
 本来であれば、小室直樹のように多くの学問からしっかり学んでこそ初めて
 学者と呼べれるのである。

 もちろん、日本の学者の中には、日本が崩壊していくこと憂えた学者は
 確かにある程度は、存在した。
 なれども、多くの学問をしっかり学ばなければ、日本を弱めている原因、
 日本をバラバラにしてる原因を突き止めて、その問題点を浮かびあがらせる事
 ができない。思いだけでは空回りするものだ。

 何が原因かを適確に述べるには真に学問が必要である。
 問題の所在を明確に知る事が出来るほど学問を積まなければならない。

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● 民族教育がない日本の行く末@

 アメリカの教育と180度異なる日本の教育。
 民族教育が破壊され、無視されている日本の教育。
 世界の神話の中でもっとも長く受け継がれてきた日本神話を教えない教育。
 日本神話を知らなくて知識人であると思っている馬鹿者達。
 
 日本が歩んできた歴史の素晴らしさを教えない日本。
 ご先祖が何を大切に生きてきたかを知らない日本。
 かつてこの日本に生きた人々が何を大切にしてきたかを知らない日本。
 日本とは何か、日本とは何で有り続けたかをまったく知らない教師達。
 それらを知らないことを恥ずかしいとも思わない日本の大人たち。

 日本では民族教育がことごとく破壊され、存在すらなくなった。
 この状態で、多数決の民主主義を取り入れたらどうなるか?
 答えは簡単である。国民がバラバラになるである。

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 ● 民族教育がない日本の行く末A

 国民的なコンセンサスなど生まれようもない。
 各自が己の欲求に従い、それを満たす為に政治を利用し、国家を利用する。
 
 国家の税金を勝手に使い、無駄遣いすることも恥じなくなる。
 国家の財政がどうなろうが、地元の公共工事を持ってきて、自分の利益を確保
 するかにのみ興味をもつようになる。

 国家の領土が他国から侵害を受けているのに、政治家は穏便にすますこと
 ばかりを考え、商人はそこには敢えて触れずに商売繁盛、商売繁盛を繰り返し
 唱えるばかりとなる。日頃、人々に薫陶をたれる事を好む、大企業の経営者は
 この時ばかりは、だんまりを決め込む。

 皆、己の利益ばかりに邁進する。
 歴史上には様々な国家が存在した。そうして多くの国家が消えた。
 国家が滅びた原因の一番は、外部の敵国からの攻撃ではない。
 内部から自壊して国家は滅びるのだ。

 21世紀前半の日本は、正念場を迎える。
 日本が、滅びることだってありうる。

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● 自然界と君主制@

 人間の政治体制には、たくさんのものが現われた。
 代表的な分類が君主制と共和制。
 その2つの中に、寡頭制、直接民主制や間接民主制、社会主義や独裁政治
 などが含まれる。

 人類の長い歴史において、人々に支持されてきたのは君主制であった。
 あらゆる時代に君主制は存在した。
 なぜなら、
自然は君主制を好むからである。

 昆虫、動物の世界を見れば一目瞭然である。
 動物の群れにも大概、1匹のリーダーがいる。
 群れで移動する時にその進むべき道を決めるのはリーダーでる。
 昆虫においてもアリの社会にも蜂の世界にも1匹の女王が存在して
 その周りにたくさんの兵隊アリと働きアリが存在する。

 自然界はの素直な表現こそが君主制である。
 昆虫で群れを成す者達はまるで全体の意志が統一されているかのように
 各自が行動する。各自の役割も行動もバラバラである。
 しかし全体が渾然一体となって物事を進める。
 アリはあの小さい体で、何十倍、何百倍もあるアリの巣を作り上げる。

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 ● 自然界と君主制A

 昆虫や動物がそうであるように人間も君主制の体系を好む。

 ここでは、だからといって民主制をやめて君主制を復活しろとか、そういう事
 をいいたいのではない。

 人間が君主制を好むという欲求の存在を無視しない事が大切である。
 人々が強力なリーダを望むこと、時に独裁者でも望むこと。
 身近においても人々は、カリスマを求めること。
 それらの人間の欲求を無視しない事である。

 君主を抱かない共和制は、それゆえに様々な仕組みが要求される。
 あの偉大な古代ローマでさえ、シーザー(=カエサル)の登場によって共和制は
 揺らぎ、帝政ローマへと変化した。
 共和制を掲げてうまく機能していたあの古代ローマでさえ、圧倒的なカリスマ
 の登場によって共和制が揺らいだのだ。
 シーザーの後継者に選ばれていたアウグストゥスが、初代ローマ皇帝である。
 ローマは共和制から帝政に変化した。
 ローマ市民は皇帝に従うことに喜びを喜んだ。

 民主主義を維持する事の難しさを理解して、運営することのと、理解せずに
 運営するのとでは結果も異なってくる。

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● 島国の幸運と不幸

 日本が幸運なところは島国であることだ。
 だから、その地に住む日本人は、国家を失うなどという危機感を感じることなど
 ほとんどなかった。長い歴史の上でも3〜4回である。
 元寇と黒船、大東亜戦争の敗戦などに限られている。
 日本の長い歴史の中では、国を失うという危機感を持った人々は少ない。
 それでもやってこれた。

 なれど19世紀末期以降はその状況が大きく異なる。
 特に21世紀以降になると、人も情報も金も大きく動く時代である。
 民族の共通意識を失えば、簡単に国家がバラバラになる条件が揃っている。

 21世紀の現代、日本には日本人とは何かを教える教育が存在しない。
 日本人自身が日本とは何かを理解できなくなっている。
 日本は、国民全体で大きな夢を見る意味さえ理解できなくなった。
 日本は、それゆえ国民全体で一体感をもてなくなった。
 日本人の多くが、その心の底で孤独を感じている。
 海は大荒れなのに、船の上で生きる人々は協力する意味がわからない。
 その船がどこに向かい、何の為に進むかの意識が共有されていない。
 21世紀、嵐がくる。
 日本人全員が真に理解し、協力しあっても乗り越えられるかわからない。

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● 洞察を持たない国家の行方

 人間に対する予感、未来に対する洞察をもたない国は危うい。
 21世紀の日本が抱える問題の根本原因もここにある。
 この日本には真の知識人がいない。
 遠い先までも見通さなければ、現代に何を行うべきかがわからない。

 島国の日本はそれでも今まではやってこれた。
 しかし大陸ではたくさんの国が生まれては消えていった。

 この日本はそれらの洞察をもつ人が極端に少ない。
 もちろんどんなに優れた人々が出てきても、未来に対する洞察が当たるとは
 限らない。その洞察が間違うことだってたびたびあろう。
 なれども時代、時代に生きる人々はまさに未来に対処してきたからこそ
 資本主義も生まれ、ガラクタであったが共産主義も生まれた。

 いつの時代であっても、人間の能力などそうそう変わらない。
 なれども、その洞察を頼りに人類は手探りながら進んできた。
 
 今こそ日本丸は進む時である。
 船員は皆が協力し、その進む意味を理解することである。
 その進む先を意識することである。
 大波に揺られてても、大きな夢を抱き続けることである。

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