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神なるもの |
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神といった場合に人々は、まったく異なる2つの神を思い浮かぶ。
ある人の神が自然である。ある人の神は、彼方の世界に存在する仏である。
● 2つの神の存在@
人々が、神といった場合には、その人たちの頭の中でイメージした神の姿は
大きくわけて2つの姿に分類される。
@ 自然の奥にある神なるもの (= 太古の神々 )
A 世界の果てにある神なるもの (= 聖典をもつ宗教 )
1つは太古の人々が信じていた自然の奥にある神なるもの。
この神々は、太古の人々が信仰していた太古の神々である。
もう1つは、ヒンデュー教、仏教、キリスト教が述べる神なるものである。
つまり聖典をもつ宗教が掲げる神である。
自然の生きんとする意志を否定する、またはその意志が及ばない彼岸にある
涅槃の世界に、鎮座する究極善とした神々である。
この神なるものは、仏と呼ばれる。
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● 2つの神の存在A
太古の神々を祭るということは、自然の奥に存在する生きんとする意志を
素直に受け入れて肯定することである。
この神々こそ盲目なる意志である。
仏を尊ぶとは、自然の奥に存在する生きんとする意志の影響を及ばない世界
の教えを知ることである。自然の奥に存在する生きんとする意志の否定の
方向にこそ救いがあるとみなすのだ。
太古の神々 ⇒ 生きんとする意志の肯定 ⇒ 神
聖典をもつ宗教 ⇒ 生きんとする意志の否定 ⇒ 仏
人間が、自然の生きんとする意志をそのまま肯定することは
同時に苦悩を抱え込むことを意味した。
人間はその欲求に従い生きれば、もちろん社会はうまく回らない。
その為に、様々なルールが生まれ、国家がうまれ文明が育まれた。
社会的なルールだけでは不充分である。
何かを外的に禁止すればすむほど、人間は満足して過ごせるものではない。
だからこそ、自然の生きんとする意志によって生まれた苦しさを癒す神々が
必要になった。
それこそが聖典をもつ宗教の誕生である。
それゆえにこと人々は、聖典の宗教を支持した。
聖典の宗教の誕生は、文明と密接な関係にある。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照
『 稲穂黄金の未来の文明 』
● 苦しみと救済
人々は集まり、都市を形成し、国家を形成した。
人間が集まり、社会を形成すれば良い面もあれば、悪い面もある。
人々の数が増え、人々が協力する事で多くの事が成し遂げられた。
ある地域に一定数の人々が住むことは、人間が生活する上では必要不可欠な
ことであり、多くの良い面が確かにあった。
だが事は単純ではなかった。
人が集まれば、また様々な問題が起こりもした。
各人の欲求がぶつかり合い、いざこざが起きて、時に部族間の戦争にも
つながった。仮に強力なルールによって、がんじがらめにすると人間自身が
耐えられなくなり、様々な問題が人間の内面から出てきた。
人々は文明を得たが同時に苦悩も得た。
人類は文明を築いたからこそ、その苦悩に対処する事も必要になった。
人々は癒しを求めた。人々は救いを求めた。
そうして聖典をもつ宗教が生まれ、人々に支持されたのである。
この救いを成し遂げる神こそが、つまりは仏である。
文明に生きる人々にこそ仏は求められた。
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● 神なるもの
この章で述べていくのは、人々の苦悩を救済する仏についてではなく
自然の奥の生きんとする意志の肯定の神なるものついて述べていく。
太古の人々は、自然の奥に存在するものに神なるものを見た。
それらが自然の様々な現象なって現れていると考えた。
よって自然の諸力のそれぞれに神の名をあてた。
これゆえ、太古の人々が崇拝したのは、自然の盲目なる意志であり、また
多数の神々であった。
雑誌『Newton(ニュートン)』より
自然の奥に永遠なるものを見た太古の人々。
これは世界中で共通している。
さらに、これらの太古の宗教が、そろって聖典を保有しなかったのは、
自然の奥でつながる神なるもんが、生きんとする意志であるからだ。
意志は盲目である。人間はそれらを理解しようとする。
なれど我々は意志について、それが何であり、どうあろうとしているのかが
まるで理解できない。
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● 盲目なる意志
意志は、我々の知性の対象にはならない。
意志が可視的になったものが物質ではあるが、それでも意志そのものに
ついては我々人類は、まったく理解できない。
意志は、我々人類の知性の土台である根拠率が適用された表象の外に
あるものであるからだ。
だからこそ、太古の人々が神なる姿は、あくまでも漠然として、それが言葉
として表現できなかったということである。
聖典をもつ宗教の、その聖典の上で語られる神は、人々がどのように解説
したとしても、つまりは言葉であらわされる事によって、人格化されるのだ。
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● 自然崇拝と偶像崇拝
自然崇拝とは、偶像崇拝などではない。
それどころか自然崇拝こそ偶像崇拝をしないのである。
なぜならば自然の奥に神々を見ることは、つまりは生きんとする意志を見ること
であるからだ。生きんとする意志は盲目である。
太古の人々は、その盲目なる意志に畏れ、かつ敬った。
太古の人々の神なるものというのは漠然としたものに過ぎない。
偶像崇拝というと、ほとんどの人が神の形に似せて偶像化した彫刻や絵など
と考えているが、それらを仮に作らなくても、頭の中で抽象的にイメージすれば
それは偶像崇拝である。
実際に像を形作るのも、頭の中で抽象的なイメージとして形作るのも
大差はないだろう。
自然の奥にある生きんとする意志に、神なるものと見た太古の人々の信仰
は偶像崇拝とは、まったく異なり、まさに漠然としたものなのである。
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● 聖典の宗教と偶像崇拝
これに対して聖典をもつ宗教はことごとく偶像崇拝に傾きやすい。
なぜなら聖典があるからこそ、神の姿がイメージされ、大抵は人格化されやすい
からである。
彫刻や絵などによって、表現しなくても、頭の中で抽象的なイメージを描いて
いるならば、それは偶像崇拝である。
聖典の宗教は、言葉で神なるものを表現する。
よって、数百年もたてば、必ずと言ってよい程、偶像崇拝が入ってくる。
本来の仏教も偶像崇拝ではなかったが、釈尊が死んでから1000年も立てば
仏像が盛んに作られるようになった。
キリスト教も本来は偶像崇拝ではなかったが、キリストが死んで500年もたつと
十字架やマリア様の像やキリスト自身の像に祈りを捧げるようになった。
聖典をもつ宗教と偶像崇拝は、密接な関係がある。
『ヴァチカン』より
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* ここでは偶像崇拝が悪いなどと一言も言っていない。
人間に見える形で仏像や十字架が作られているのはまったく問題でないし
それはそれで良い。
● 偶像崇拝について
ここで一言、言っておくが、釈尊もイエスも偶像崇拝を進めはしなかったが、
禁止もしなかったということである。
もちろん、そういう像自体が神や仏か?と釈尊やイエスに問えば、それは違うと
答えるだろう。
釈尊もイエスも、偶像崇拝が良いとか悪いとかには、特にこだわってはいない。
偶像崇拝の禁止を大声で叫ぶのは、決まって一神教である。
聖典の宗教でもなく、太古の自然崇拝の信仰でもなく、一神教のみが目くじらを
立てて偶像崇拝を禁止する。
偶像崇拝を大声で禁止するのは、決まって絶対者を掲げる宗教である。
そんなに目くじらを立てるような事ではないのに、それを大げさに言うのは
決まってユダヤ的世界観に影響を受けた者達である。
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● 古代の人々の神なるもの
太古の昔、世界中の人々が信じた神なるものは、日本の神道のごとくである。
自然の奥に生きんとする意志を見て、その盲目なる意志に畏れ、敬った。
古代の人々は、自然の有り様を肯定することにこそ神を見た。
神道の真髄もここにある。
神道がどのように語られようと、神道はまさに命の輝きに感謝し敬う。
命の喜びを神々に奉る。
人々が活き活きと賑々しく生きていることを神々に感謝するのだ。
その表現の一つが祭りである。
祭りは神と人間が、この地上で一緒に、その喜びを共有する為に行う。
その意識を忘れ、つまりは祭りが廃れることは、つまりは神々との喜びの共有を
忘れることに他ならない。
ともに神々と喜びを共有するその時においては、全てを忘れる必要がある。
何を忘れるかというと俗世間の事である。生活の事である。
日頃の仕事の不満や、日常生活、はたまた悩みや人間社会で発生した諸々な
事から離れて、生命の輝きを喜び、神々と分かち合う。
短い時間でも良いから、その時にいったん日常の意識から離れて神々と
その楽しさを共有することである。
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● 命の輝きと救済
神道は、命の輝きを主張する。
蝶々は、精一杯に羽ばたく。
確かに、蝶々もいずれは力尽き、他の昆虫の餌となる。
どんなに美しい蝶々であっても、その次の瞬間にカマキリの餌になる事もある。
生あるものは、いずれ死が訪れる。
この世界とはその面を持っている。
この世界の様々な苦を見て、そこからの脱却する試みが仏教である。
そこにこそ涅槃の世界がある。キリスト教もまた仏教と同様である。
なれど神道は、命があるギリギリの瞬間まで、その生を肯定する。
命を尊ぶのは、その生に価値を見出しているからだ。
命の輝きにスポットライトをあてるのが神道である。
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● 上なるもの=神なるもの
神なるものとは、上なるものである。
我々の中に、その基準がある。
我々はそれが美しいと思う。それが醜いと思う。
既に人間の中には、何が優れているか、何が美しいかの基準がある。
でなければ、何をもって美しいかがわからないし、皆が何が美しいかあべこべ
をいうようになり、偉大な芸術作品などは決して生まれなかったに違いない。
なぜなら、仮に美しかったとしても、そこの美を見出さない多くの者達によって
安易に破棄されていただろうからである。
人間の内面には、何が優れているか、美しいかの基準となるものがある。
それが、つまりは上なるものであり、神なるものとなる。
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● 神と芸術
芸術が花開くときは決まって人々が神なるものを素直に認めている時である。
それは決まって自然の美しさの表現となる。
あらゆるものに無理がなく、実に美しいのである。
古代人が作った彫刻が美しいのは余計なものがないからである。
人間の裸体の像を好んで作成したのも、自然が本来与えられた人間の美しさを
そのまま表現することがもっとも美しいのだという素直さがあるのだ。
上なる(≒より優れた)ものとは、まさに神なるものであり、我々人間が生まれ
ながらに、何が美しいのかというのを備えているものを意味する。
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● 神なる方へ
我々、人類が生きる大地は確かに欠乏の世界であり、救いがたい面をもつ。
この世界は、諸行無常、あらゆるものが形を変化させていく。
この世界に逆らおうとしても対抗する術はない。
我々は人間である。人間は自然から生まれた。
自然の内に存在する上なるものを堂々と表現する力をもつ者である。
自然の上に生まれた者達は、昆虫であれ、動物であれ、与えられた本性を
最大限発揮して生きる。
鳥はさえずり、蝶は舞い、ミツバチはダンスを踊り、獅子は咆哮する。
自然から与えらたそのものを最大限発揮する。
我々の内に神なる美しさを見出すこと。
偉大な時代はいつの時代も内面の神なるものを表現してきた。
人間は、時に上なるものに近づき、神となるのである。
偉大な時代の特徴は、芸術の花が咲き誇る。
様々な彫刻のモデルは人間である。
なぜなら人間の美しさを見つけ、人間の内に神なるものを見るからである。
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● 神なる(=上なる)体現者
蝶々には蝶々の美しさがあるように、鳥には鳥の美しさがある。
蝶々はその美しい羽を広げ、楽しそうに力強く羽ばたく。
鳥は美しいさえずりを止むことなく森に響かせる。
同様に人間にも人間の美しさがあるように、人間らしく美しく生きる事が
必要である。なれど時に人々はその人間としての上なるものを忘れる。
なれど、日本の国に生まれてもっとも幸せなことは、この国には古来より
人間の上なる(神なる)体現者である方々がおられたことだ。
それが歴代の天皇様である。
常に民を想い、国家の安寧を想い、人々が賑々しく生きることを祈願した。
天皇様を中心として、皇族の御方々が日本の神々を祭る。
人間として目指すべき理想のあり方がそこにある。
まさに上なる(=神なる)体現者であられる。
日本に生まれたということは、それがもっとも誇ることであり、もっとも
幸せなことなのである。
上なる(神なる)姿を知らない国民は、本来の仏の姿を知ることはない。
インドで仏教が滅び、中国で仏教が滅んだが、なにゆえ日本では仏教が
滅ばなかったといえば、上なる(神なる)ものが残り続けたからである。
真に神なるものがないところ、仏なるものも存在できない。
なぜなら、仏とは、人々が神なるものへ向かうときに、それでもそうはできない
事に対する許しが仏であるからだ。
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● 内なる神の存在
これに引き換え絶対者を掲げる者達、世の権力を握り、政治に携わると
決まって芸術は没落し、人間の命を軽んじられることになる。
人間の内に神なるものを見出すからこそ、古代ギリシャ人も古代ローマ人も
あれだけ美しい人間の彫刻を残したのであり、またそれゆえに人間の命も
あろうとする姿も大事にしたのである。
反対に、絶対者を掲げる者達は、人間の内の神なるものを認めず、さらに人間
そのものの価値を低下させ、容赦なく人々の命を奪うことになる。
中世ヨーロッパにおけるキリスト教指導者層の、探究者や科学者に対する残虐な
行為は、いくらいっても言い足りない。
また人間の内に神なるものを認めずに、夢のユートピアを待ち望んだ者達、
つまり社会主義国家や共産国家で、どれほどの人が虐殺され、弾圧されたかは
記憶に新しいところである。
その内面に上なる(神なる)ものを宿さずに、正義や理想を語れば、決まって
悪魔が忍び寄ってくるのだ。
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● 古代ローマ人と神なるもの
天上界の神々、大地の神々、人間の内なる神々。
我々の内部に神なるものがあるように、この大地にも様々な神々がいて
多くの自然現象を感情によって引き起こす。
人間の諸行があまり酷い場合は、怒りで天変地変を起こさせる。
人間は、今までの驕り高ぶった態度にハッと気付き、改める。
なれど、人間は懲りない生き物である。平穏な日々が続くとすぐに忘れる。
また同じことを行い、今度は完全に大地の神々を怒らしてしまう。
こうなると都市を丸ごと壊滅させられることもある。
古代の都市、ポンペイは大地の神々の逆鱗に触れて一日の内に滅んだ。
多くのローマ人は、大地の神々の怒りを知った。
それゆえ、ポンペイはその後、ローマ人によって二度と再建されなかった。
我々の内なるものが、いよいよ高まり、それが神なるものへと近づくと、
それを見た天上界の神々が下りてくる。
その時、その神がアポロであれば、喜びに溢れた曲を人類にもたらす。
その神がアフロディーテであれば、世にも美しい彫刻を人類にもたらす。
その神がアテネであれば、世にも素晴らしい知恵と発見を人類にもたらす。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の未来の文明 』 『 稲穂黄金の古代ローマ 』
● 自然から生まれた人間
人間は、自然から生まれた。
人間に授かったその知性が邪魔をし、迷いを深め、人間本来の有り方を遮ること
さえある。自らその輝きに蓋をすることがある。
確かに、この世界は諸行無常である。時に冷たい仕打ちをする。
この大地で生きることは容易ではない。
知性を備わったからこそ、その苦痛は何倍にも膨れ上がる。
なれど、人間もまた上なる(神なる)ものをその内に秘めている。
その神なるものを輝かせることを忘れてはいけない。
子供はそのことをいつも大人に教える。
子供達の溢れんばかりのエネルギー、その輝きは、いつでも大人にとって
喜びであり、時に教師である。我々はそれを子供から教わる。
確かに、子供達はまだこの大地では生きていない。
足がこの大地に根ざしてはいない。
彼らはまだ半分、自然の懐にいるからだ。
子供もいずれ大人になり、この大地をその二本足であるき、大地の現実を
知ることになる。
されど、我々はまたあの子供の頃に、目を輝かせ、この世界の美しさを素直に
喜んだように、その輝きを忘れてはいけないのだ。
我々、人間もまた自然が生んだ愛すべき子供であるのだ。
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● 自然と天才の作品
この世にある世界と自然。
自然は、この世界に揺さぶられながらも、たくましくも対処し、この世界で
自然本来の姿を展示しようとする。
山や川、自然の織り成すものは、真に美しい。
天才芸術家の作品といえど、自然の作品と見比べれば天と地の差がある。
自然が生み出した昆虫、動物は美しい。
天才彫刻家が作り出す人物像に比べ、本物の人間の姿の美しいことよ。
自然は大芸術家である。
どんな小さい昆虫や動物の器官までも正確に作り上げる。
決して手を抜かずに、それらを幾万と生み出す。
自然は疲れを知らない。
この自然の美しさ、たくましさにスポット当てた教えが神の教えである。
まさに自然は神なりである。
命の輝きに胸ときめかせる教えが神の道なのである。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の天才へ 』
『 稲穂黄金の未来の芸術家へ 』
● この世界は容赦がない
この世界は容赦がない。いつも時代も現実は甘くない。
栄えていた者達もいずれかは衰える。
諸行無常の鐘の声、盛者必衰の理(ことわり)を現す。
確かに自然は我々の命を奪ったりはしない。
なれどこの世界は理は異なる。
この世界において、いきとし生きるものは死を迎える。
日々成長し、そして日々、死に向かっているのだ。
自然はこの世界の中において、新たな命を生み出す為に、いまある命に
死を与えるのである。永遠無休に繰り返してきた自然の営みである。
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● この世界における自然の輝き
諸行無常、千変万化、あらゆるものが変化し、変形する。
あらゆる個体(生命)は、生まれては死に、生まれては死ぬ。
太古から絶えず繰り返してきた命のリレー。
人間はそこに儚さを見る。と同時にそこに命の輝きを見る。
人間はそのことをあらゆる方法で表現してきた。
芸術によって、文学によって、詩によって、歌によってそれらを表現してきた。
命の輝きを見つめることを人類が忘れたとき、芸術も音楽も文学もすべては
消え去ってしまうのだ。
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● 死なない人間などいない
命ある者には必ず死が訪れる。
死なない人間などいない。人間はいずれ死ぬのだ。
死ぬことを恐れるのではなく、人間としての輝きを放てない事を恐れる。
むろん輝ける人間もこれまた限られる。
表面的に富や名声、権力を得る者達はいつの時代にもたくさんいる。
社会的な成功を収める者達もこれまた多い。
しかし人間として輝ける人間など極々少数である。
名も無き、貧しき中にも輝ける人はいる。
社会的成功の為に、冷たい心で生きた人間は、華やかな様相を
呈する現世の裏で暗い世界が待っているに気付かない。
死なない人間などはいない。
誰もがいずれ死ぬのである。
限りある生を輝かして生きる人間の数はどれだけいるのだろうか!?
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● 自然は輝き続ける
自然の中における出来事の1つ1つは確かに残酷である。
肉食動物に草食動物の命を奪ってこそ明日へと生きられる。
バッタを食べるカマキリ、カマキリを餌にする小型動物、小型動物を餌に
する大型肉食獣。
命をつなぐ為には、他の命を奪わなければならない。
弱肉強食の自然界。
あらゆる動物、あらゆる昆虫が天敵に狙われないように用心する。
臆病な程、用心するのだ。でなければ死が待っている。
臆病な動物や昆虫であっても、新たな命を生むこと、育てることに向かって
限りなく勇敢である。喜びに満ちている。
花畑で蜜を集めるミツバチやチョウチョは喜んでいる。
川を上り卵を産みつけた鮭は、満ち足りてこの世を去る。
多くの生き物が生き延びる為に、注意深く用心し日常を生き延びるが、いざ、
次世代の命を生み、育む為の機会がくれば、あらん限りの力を使って前進する。
自然に生きる昆虫も動物も喜びに満ち満ちる。
春の訪れを一緒に祝う昆虫。
愛のダンスを披露する鳥や動物達。
過酷な自然界の上に生きる生き物達は輝き続ける。
自然は輝き続ける。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。 『 稲穂黄金の神と仏と人間と 』
『 稲穂黄金の世界と自然と人間と 』
● 神道の真髄
神道は随神の道である。
自然の輝き、自然の奥に潜む盲目なる意志を敬い、畏れ、感謝する。
それが神道の教えである。
その輝きから外れる行為、それが罪・穢れである。確かに人間は至らない。
だからこそ罪・穢れる。その至らない許しとして仏が求められた。
人間にとって仏は救いである。
神道の神々に祈るとき、日本人は日頃の生き方を問われている。
人間としてのもっとも上なる姿を神々は教えるのだ。
日本人が随神の道を尊び続けることは、人間の内にも神に通じるものがある
のだということを忘れないということを意味する。
その人間の有り方こそが、神道のいう上であり、神である。
目指すべき人間像といっても良い。
神道より 『自然は神そのものではないが、神々の宿り給う依り代である。』
現実と神なるものの間で人々は、揺れ動いた。
この地上に降りた人間が目指すべき上なるもの、その神なるものに人類は
注力してはいられなかった。
現実はいつも甘くはなかった。
人類はこの大地で生き続け、繁栄する為に多くの成すべき事があった。
目の前の現実の対処に精一杯になり、神なるものを忘れた時も多々あった。
ただ生物学的に生きるだけが、我々の人生であると安易に見なす時代もあった。
なれどそうなると人類はすぐに思い知らされた。
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● 生きんとする意志
自然がどのように対処しようが、まったく揺らぐ事のない自然のありようこそ
が生きんとする意志であり、それが神である。
神なる教えとは、この世界によって自然がいかに対処されられようが、それでも
命の輝きを肯定する事である。
命の輝きを失わない事である。
どのように大変な出来事があろうとも生きる事を肯定することである。
この大地は確かに甘くはない。現実は厳しい。
時に生きることがつらく感じるやも知れない。
しかし、その中で生きていることに感謝し、その輝きを失わないことである。
生きんとする意志を肯定しその中にまどろむのが神なる教え。
生きんとする意志の否定の方向にこそ救い見出すのが仏の教え。
我々は、常に変化し続ける諸行無常の世界に生きている。
なれども我々の内に、自然の奥にある神なるものが同じようにを内在している。
なぜなら、我々人類はまた自然から生まれし子供であるからだ。
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● 生きんとする意志と文明
自然の奥にある生きんとする意志。
この意志を肯定することが神が敬われ、意志を否定することが仏が登場した。
生きんとする意志の肯定と否定という相反することを人類は求めた。
人間の内に、生きんとする意志の肯定と否定の2つが存在する。
人間は苦悩する。
人類は文明を発展させるに否定して多くの悩みと問題を掲げた。
その悩みを癒せる方法を、太古の神々はもっていなかった。
それゆえにこそ聖典をもつ宗教が求めたられた。
人類は生きんとする意志の肯定と否定の間で人類は揺れ動いてきた。
生きんとする意志が人類の文明に及ぼした影響ははかり知れない。
この視点をもっていなければ、壮大な文明の歩みが見えない。
人類が歩み、作り上げてきた文明に対する理解ができない。
太古の神々を祭る人々は、現代にあっては、ほんのわずかの国家や民族に
限られて残っている。文明論を語るときに、この意味は最重要な事柄である。
神なる者をいまだに祭りつづける民族は3つある。
その中の最有力の1つが日の本の民である。
日本は、人間の内面にある上なる(神なる)ものを大切にし、それを絶やさず
に数千年間、歩んできた国家である。
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● 神なるものを忘れた民@
日本の民から、上なる(神なる)ものは急速に失われつつある。
この国の織り成す自然の美しさを理解する者達も失われた。
経済的利益を優先に、山の広葉樹は伐採され、建築材の為の針葉樹の
杉ばかりが植林された。森の生き物達は住処を失った。
山には、鉄塔が無作為に打ち立てられ、山の神々は怒りが収まらない。
川の両岸はコンクリートで固められ、美しい川をもつ日本の原風景は
あっというまに消えていった。
大地の神々を感じ、人間の内なる神に気付く日本人は、どこにいったのか?
もはやどこにもいないのであろうか?
森や山や大木のその奥に、神なるものを見いだした日本人。
彼らは、どこにいってしまったのか?
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● 神なるものを忘れた民A
壮大な物語を夢見る勇気をもつ人々はどこに消えてしまったのだろうか?
自然の奥に神なるのがあると気付く知性を持った人々は、どこにいったのか?
現代の我々の心が砂漠のごとく荒涼としているのだ。
どれだけ美しい花が咲いても、どれだけ清い水が流れても、どれだけ美しい鳥の
さえずりがあっても、それを人間が受け止められなければ、全ては無に等しい。
現代の21世紀に生きる我々は、確かに日本なるものを失った。
我々が自然の奥に神を感じ、神々と共に生ききた民であることを、日本人が
みずから放棄したのだ。
動画 テキスト
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