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ユダヤの対処 |
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自然の生きんとする意志の肯定を守るためにユダヤも懸命だった。
彼らは国を失った。それゆえに彼らの有り方も大きく変化せざる得なかったのだ。
● 本来のユダヤ
ここでは誤解のないように説明していこう。
本来のユダヤ民族は、自然崇拝の者達である。
これをきけば多くの人は、エッ!と思うだろう。
それはそうである。
現在のユダヤ人は自然崇拝からは程遠い人々であるからだ。
ユダヤにとって崇拝すべき対象は、彼らの神ヤハウェのみである。
ヤハウェが全知全能の絶対神であることを信じる民がユダヤである。
ユダヤは数千年の歴史の中でそれでも常に守り続けたきたものがある。
それが神なるものである。
この神なる姿は仏とは異なる。
自然の奥に潜む生きんとする意志である。
その生きんと意志を崇拝していた太古のユダヤ人が、現代のユダヤ人の
価値観に至るまでを述べるのがこの項目の重要な趣旨である。
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● 古代のユダヤ人
古代のユダヤ人は、自然を愛する人々であった。
自然の民とさえ言ってもよい人々であった。
自然の奥に神々を見たのだ。
自然の奥に存在する生きんとする意志を肯定する者達である。
古代のユダヤの民は、自然の奥にある生きんとする意志を畏れ敬った。
日本の神道のごとくに自然の奥に神なるものを見る者達であった。
現代の日本人とまさに同じ価値観を有する人々であった。
古代のユダヤの民は、聖典の教えなど必要なかったしもとうとさえしなかった。
紀元前10世紀以前のユダヤ人は神々と共に生きる人々であった。
紀元前14世紀頃に、世界中に広まった聖典ヴェーダの教えに対しても
ユダヤはたじろがず、神なる者達といた。
まさに神なるものを畏れ、敬う者達であった。
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● 大きく変化したユダヤの教え
なれどそんなユダヤの民の価値観をかえざる得ないで出来事が起こった。
紀元前6世紀(前597年)、突如としてユダヤ人はバビロニア人の都市バビロン
に連れていかれた。
世に有名なバビロン捕囚である。
バビロンに捕らわれること50年以上、その間にエルサレムの神殿は
ことごとく壊され、街も破壊され、ユダヤの国は崩壊した。
この出来事がユダヤ人に与えた衝撃は、それから2500年以上たった現在
でも消えていない。
紀元前537年に、ユダヤ人を捕囚した新バビロニアは、アケメネス朝ペルシャ
に敗れた。新しい為政者となったキュロス大王は、ユダヤ人を解放した。
60年以上の長い月日もバビロンから外に出ることが適わなかったユダヤ人は
故郷のエルサレムに戻ることが適った。
エルサレムに戻ったユダヤ人は愕然とした。
神殿はもはや姿かたちがなく、都市は廃墟と化していた。
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● コペルニクス的転回のユダヤ@
バビロン捕囚以後のユダヤは、アケメネス朝ペルシャの保護において
彼らのユダヤの国は大きく安定した。
されど、ユダヤ人からバビロン捕囚の記憶が消えることはなかった。
バビロン捕囚によって、彼らの神なる信仰を捨てざるえない危機に目の当たりに
したユダヤ人には、決して忘れえぬものとなった。
このままではいずれ、彼らが崇拝する太古の神々が消え去ってしまうという
強い思いが彼らユダヤ人の間で形成された。
アケメネス朝ペルシャのキュロス大王によって、捕囚から解放されたユダヤ人の
多くは、キュロス大王に大変感謝した。
それゆえに、キュロス大王が信仰する神を受け容れた。
それがゾロアスター教である。
ゾロアスター教は、ペルシャの神々を掲げていた。
ゾロアスター教の開祖はザラスシュトラ(=ゾロアスター)である。
ザラスシュトラ
ザラスシュトラは、ペルシャの神々の中でもアフラ・マズダーこそもっとも崇拝に
値すると述べた。
それゆえにゾロアスター教は、歴史上で最古の一神教とも呼ばれる。
もちろんゾロアスター教は、一神教ではない。
アフラ・マズダーと対抗する悪神がアンラマンユであり、その他にも神々は
でてくる多神教である。特にザラスシュトラ死後は、以前のようにたくさんの神々
がゾロアスター教の中に復活していた。
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● コペルニクス的転回のユダヤA
ユダヤ人の多くが続々とゾロアスター教徒に転換していった。
神なる者を尊ぶことはユダヤ人もゾロアスター教も同じなのでたくさんの者達
がゾロアスター教の神々を崇拝した。
ゾロアスター教徒になった多くのユダヤ人が注目したのは、開祖のザラスシュトラ
であった。特にザラスシュトラがペルシャのたくさんの神々の中から一神を
最高神と決め、崇拝に値すると決めた。
ザラスシュトラがそのように決定した、その当時の背景をユダヤ人の多くが
敏感に感じ取った。
ザラスシュトラが活躍した時代は紀元前14〜10世紀といまだにわかって
いない部分が多いのだが、紀元前6〜5世紀頃にも活躍したと言われるのは
つまりこの時代にユダヤ人に注目されたことを意味する。
バビロン捕囚から解放されたユダヤ人が、14〜10世紀のザラスシュトラの
気持ちが痛いほどわかったのだ。
ザラスシュトラの中にあった危機意識が、当時のユダヤ人の危機意識が
共に共感しあったのだ。
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● ゾロアスター教とユダヤ教
ユダヤ教がゾロアスター教を母体にしている事は、旧約聖書を見ればわかる。
旧約聖書には、ユダヤの民がゾロアスター教徒であることの痕跡がいくつも
発見できるからだ。
旧約聖書には、古代ユダヤ人が、神への捧げ物に、火で焼いた動物の肉を
捧げた記載が多くある。さらには、ユダヤの神殿には、絶やさぬ火が存在した。
ことが記載されている。
『 王キュロスは、エルサレムに主の家を建造せしめた。
そこでは不断の火によって主に犠牲がささげられた。』 エズラ書
炎を敬い、炎に神聖さを見る者達こそが、ゾロアスター教なのである。
ゾロアスター教は、別名、拝火教と呼ばれる。
現代においても、ゾロアスター教徒は、火を神聖なものとして、火を絶やさない。
ゾロアスター教徒は、火を神聖なものと見る
ユダヤの神がペルシャの神に由来することは以下からもわかる。
『 ヤハウェは、ケルビム(=ケルブ)の上に座したもう 』 詩篇、列王記
ケルビムとは、半ば雄牛で、半ば人間、半ば獅子である有翼人面獣身であり
ペルシャの永遠の都ペルセポリスにある大宮殿には、これらの彫刻が
色々と施されている。
さらにゾロアスター教は多神教ではあるが、2つの神における争いの
二元論を中心に展開する。
最高神のアフラ・マズダーと悪神アンラ・マンユである。
この構図は、そのままユダヤに引き継がれた。
アフラ・マズダーはヤハウェとなった。
アンラ・マンユはサタンとなった。
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* 上記記載に関する指摘は、実は200年以上前に既に語られている。
人類史上最高の頭脳ショーペンハウアーによって詳細に語られている。
● 一神教化するユダヤ
ユダヤの民は、既存のゾロアスター教徒以上に一神教に傾いた。
バビロン捕囚と同じような出来事が再び起こったならば、今度こそユダヤの民
も滅び、ユダヤの民が大切にしてきた神なる教えも滅ぶことを、多くのユダヤ人
が感じていた。
その危機せまる意識が、ユダヤが神々の中から一つの神のみを崇拝する
方向へと強力に促した。
最高神を掲げることは、聖典をもつ宗教とも対抗する為には、必要不可欠で
あると当時のユダヤ人は認識した。
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● 聖典化を行ったユダヤ
ユダヤの対応は、一神教化するだけに留まらない。
さらに聖典をもつ宗教に対抗する為に、自ら聖典を作ることを行ったのだ。
それが旧約聖書がもたらされた背景である。
バビロン捕囚以後にも、もちろん旧約聖書の物語はあった。
なれどその位置づけは、ユダヤ人にとっては神話物語であったに過ぎない。
ユダヤの民は、その神話物語を聖典の教えのように聖典化しようと試みた。
そうしてうまれたのが旧約聖書なのである。
旧約聖書には、ユダヤの神話物語、伝承などを色々と含んだ。
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● ユダヤ神話と日本神話
ユダヤの民に伝わる神話は、聖典化されて旧約聖書となった。
本来のユダヤの神話はいったいどのようなものであったのだろうか?
その答えは、日本神話のごとくであったと言えるかも知れない。
もしかしたら、日本神話もユダヤ神話も同じ物語から出ているのやも知れない。
旧約聖書と日本神話(≒日本書紀)の親近性を詳細に、指摘した者がいる。
日本人ではない。
ユダヤ人のヨセフ・アイデルバーグである。
日本書紀に記載されている仲哀天皇の物語と、古代イスラエルのサウル王
の話が非常に似通っていると彼はいう。
さらに崇神天皇と古代イスラエルのダビデ王の話も非常に似通っているという。
さらにダビデ王の後に王についたソロモン王がソロモン宮殿を建設した時に
書かれた記載と、崇神天皇の後を継いだ垂仁天皇が伊勢の地に伊勢神宮を
を建てたときに記載された内容がも類似するという。
ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグ
アイデル・バーグは日本の神道に並々ならぬ関心があった。
神社で見習神主の写真 『ユダヤ起源』より
多くの親近性があるのではとアイデルバークは読者に訴えかける。
アイデルバーグはその著書の中でこう述べている。
『 もし日本神道がいくらかでも古代イスラエル宗教と関わりがあるならば、
ヤマトの国の偉大な神は古代イスラエルの偉大な神と、もともと同一で
あったに違いない!またヤマトの民は古代イスラエル人と同一という事なる。
この推測の真偽を確かめる為に、私達はどうしたらよいのだろうか。
〜
それを見るために、私は日本のある神社において、神官の見習いと
なって学ぶ決心をした。』
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● 絶対化するユダヤ
バビロン捕囚から解放されたユダヤ人。
バビロン捕囚からの200〜300年間に、ユダヤの教えは急激に変化していく。
ユダヤの教えは大きく変化することになった。
ユダヤ人は、一神のみを選び、それを最高神化して、崇拝の対象にした。
ユダヤの民の結束はその神のもとに強力に結びついた。
さらにユダヤ人は聖典をもつ宗教に対抗する為には自分達ユダヤの民も
聖典をもつ必要があると考えて、彼らユダヤの神話物語を聖典化して
旧約聖書をもたらした。
しかし、それでもユダヤの民の不安は、一行に消えない。
特にユダヤの宗教的指導者層の不安は大きかった。
一神教にして聖典化を行ったが、これでは不充分であると認識した。
仮にまたバビロン捕囚のような同じ出来事があれば、今度こそユダヤの民は
バラバラ、チリジリとなり、太古の神々を捨て、その教えを放棄することになる
だろうことを強く感じていた。
それゆえ、ユダヤの宗教的指導者層は決心した。
ユダヤの掲げるその一神を最高の神というレベルなどではなく
唯一無二の絶対神であることに変えることを。
その絶対神は全知全能であると。
この当時のユダヤの宗教的指導者は、神を絶対化する事に努めた。
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● 大幅な修正と追記
旧約聖書は、ユダヤの神話を土台にして、バビロン捕囚以後から
200〜300年の間に形づくられた。
その間に、何度も修正と追記がなされた。
現代の我々が知る旧約聖書とは、その修正と追加を経たものである。
ユダヤの民は、自然崇拝から大きく変貌した。
バビロン捕囚以後の数百年の内にユダヤ人の価値観が大きく変化した。
ユダヤの指導者層が神を絶対化することに決めて以降、旧約聖書には大幅な
手が加えられた。
バビロン捕囚以後、旧約聖書は現在に伝わる内容に修正、追記されてきた。
世界一のベストセラー『聖書』
旧約聖書には、本来なかったものに加えられた要素こそが
自然の人格化である。それも1つの人格に集約した。
自然を一つの人格、それも全知全能の力を有する神として押し上げた。
その基本方針によって旧約聖書は書き換えられた。
あらゆるものが、絶対者の意味合いを強める為に書き換えられた。
まさに旧約聖書は絶対者の衣を被ったのだ。
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● 絶対者の衣と宗教指導者@
太古のユダヤの民は、自然を愛する民であった。自然崇拝であった。
自然の奥の生きんとする意志を肯定する者達であった。
彼らが大切にしたのは、太古の神々である。
生きんとする意志とは盲目なる意志である。
ユダヤの民はその自然の意志を大事にした。
古代のユダヤの民ほど、自然の意志を大事にしたものはいない。
なれど、世界には聖典をもつ宗教が登場した。
インドで生まれた、もっとも叡智に満ちたヒンデューの教えは、世界中に
またたくに伝播した。その後、その教えを完成させた形で仏教が登場した。
聖典の教えは、文明の中で生きる人々をひきつけた。
人間社会の中で生きる人々の内面から苦しみが顕在化した。
人々の心の問題に面と向きあい、その苦悩を救済する力をもっていたのが
聖典の教えであった。
人々は聖典の宗教に熱狂した。
世界各地で、聖典の宗教が熱烈に迎え入れられた背後で、その地域の
太古の神々が居場所を失った。
世界各地から急速に太古の神々が消える現実。
それを真のあたりにしたユダヤの民は、不安に陥った。
ユダヤ人がユダヤの国家を有していた時には、それでも余裕があった。
なれど、バビロン捕囚によって国家を失う経験をしたユダヤの民には
そんな余裕などまったくなかった。
ユダヤの民は、多くの神々の中から、一神を選び最高神として崇拝した。
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● 絶対者の衣と宗教指導者A
世界各地で、太古の神々は消えていった。
人々は聖典をもつ宗教を選択した。
国家を失ったユダヤは、彼らの神々を守る現実な方法がないことを悟った。
バビロン捕囚は、ユダヤ人に絶望の体験を与えた。
それは2000年以上経った現在でも払拭できない衝撃的な出来事であった。
このバビロン捕囚中に多くのユダヤ人は真剣に見つめざる得なかった。
ユダヤの民は、彼らの神々を生き長らえさせる方法を真剣に考えた。
なれど、答えは見つからなかった。
ユダヤの指導者も悩みに悩んだ。それでも答えは見つからなかった。
バビロン捕囚を解かれたユダヤ人の多くは、ゾロアスター教の神々を
祭るようになった。
このゾロアスター教を母体にしてユダヤの教えがつくられた。
バビロン捕囚後の数百年間の期間にユダヤ教は聖典化し、一神教化した。
さらにダメ押しで絶対化したのだ。
絶対化によって、旧約聖書はさらに大きく書き換えられることになった。
もちろん、その改変作業に、宗教指導者は慎重に当たった。
というのも、古代のユダヤ人が受け継いできた神なる教えは残す必要が
あったからだ。
旧約聖書の外側は変化させたが、内側には以前の神なる教えを残す事を
最優先項目として事を進めた。
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● 旧約聖書の修正方法
旧約聖書の修正方法は、内側には神なるものを秘めて外側のみを
変化させることに気を配ったことにある。
もちろん簡易な変装では、すぐにネタがばれてしまう。
その為に、ユダヤの宗教指導者層は、徹底的に外側を変化させた。
自然全体を1つとして人格化させること。
さらにはその人格者=神に絶対者の衣をまとわせること。
その為にこそ、旧約聖書の物語の多くを修正した。
例えば、紀元前13世紀頃、ユダヤの民が金の子牛の像を神と祭っている姿を
見たモーゼが、その金の子牛の像を叩き割ったことが記載されているが
これなどは、バビロン捕囚以後に追加した話である。
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● 当初は、ユダヤの民もさすがに疑問を持った
ユダヤの言い伝え(=神話物語)に絶対者の衣を付けさせて、唯一神を
崇拝させようとしたユダヤの指導者の試みは、そう簡単にうまくいかなかった。
当時のユダヤの民の中にも、さすがに良識がある人々が多く存在して
あまりにもおかしい物語には、さすがのユダヤの民も疑問を感じた。
それゆえユダヤの民の中から何度も何度も、ユダヤが掲げる神から遠ざかり、
他の宗教の神々を崇拝する事態が発生した。幾度も発生した。
ユダヤの指導者層は、そのたびに対応を迫られたに違いない。
ユダヤの指導者層によって、他の神々を祭ることが、いかにユダヤの神ヤハウェ
に背いているか、それを何度も何度も繰り返し述べる必要に迫られた。
旧約聖書の内容は、まさにこの点を繰り返し述べている。
ユダヤの民にとっては、”述べる”などという生易しいものでは決してない。
まさに洗脳に近いといっても良い程のものである。
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● ユダヤ人の完成
ユダヤの宗教指導者は、この点について真剣だった。
それが出来なければ、自分達の神なるものが、いずれは聖典の宗教に
追い出され、太古の神々は消え去ることを感じ取っていたからだ。
そうさせない為に、一神教化、絶対化は避けて通れないものであった。
旧約聖書には、その点を強く意識させるように様々な物語が追記されていった。
先ほどの金の子牛に怒ったモーゼの話もそうであるし、その他にもヤハウェとの
約束を守らない事はどのような事態になるのかを強調して書き記した。
ヤハウェとの約束を破ったユダヤ人は容赦なく排除されて滅びるのだという事を
強烈に印象付けた。旧約聖書のあちこちにはそれらの話を配置した。
そうして200〜300年が経過して、ユダヤの宗教的指導者の願いは適った。
現代のユダヤ人と同じ価値観を有するユダヤ人がこの時代に登場した。
登場というよりも完成といった方がよいだろう。
神との契約を第一に掲げ、その為なら異民族の命などまったくおしくもないと
いう考えをもつユダヤ人が完成したのだ。
ユダヤの民はヤハウェを唯一の絶対神とまで見なすまでに変化した。
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● 聖典の宗教以上に聖典の宗教たれ
国家を失う経験をしたユダヤは、その出来事を決して忘れなかった。
ユダヤの宗教的指導者層は、その為にこそユダヤの教えを聖典化した。
再び国家を失ったとしても、ユダヤの教えが聖典の宗教に飲み込まれずに
生き残れるように、ユダヤの宗教的指導者層は懸命にこう主張した。
” 聖典の宗教たれ! ”
” 世界のどんな聖典をもつ宗教よりも、聖典の宗教であれ! ”
” 遠い未来まで我らユダヤの神なる教えが守られるように ”
絶対者の衣をまとい、聖典をもつ宗教に変身したユダヤ。
ユダヤはその後、彼らの国家を失ったが、ユダヤは2000年以上の長きに
渡り神なる教えを守り続けた。
世界中を放浪し続けたユダヤの民は、ユダヤの教えを手放さなかった。
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● 自然崇拝の痕跡を残す旧約聖書
自然全体を一つの人格と見なして一神教化した旧約聖書。
さらにそこに絶対者の衣をかぶせた旧約聖書。
旧約聖書の土台となった話は、ユダヤが古来より受け継いできた伝承、神話
の物語である。
だからこそ、旧約聖書には、自然の生きんとする意志の肯定の面影があちこち
にちらほらと見え隠れしている。
旧約聖書を修正・追記に関わった者達は、本来のユダヤの伝承をなるべく
崩さずに聖典化したいと思うのは人情である。
自然を愛するユダヤの民は、その意図を気付かれないように聖典化を試みた。
なれども、その痕跡が旧約聖書にはたくさん残っている。
以下の6つの特徴がそれを示す。
@ 偶像崇拝の禁止
A 唯一神の呼び名がない
B カインとアベル
C ユダヤの民の残虐行為の数々
D 旧約聖書の神を自然に変えると妥当する
まず偶像崇拝の禁止である。
そもそも聖典をもつ宗教は、偶像崇拝を禁止することはない。
正確にいえば、偶像崇拝かどうかなんて気にしないのだ。
偶像崇拝を肯定もしないし、また否定もしないのが聖典の宗教なのだ。
偶像崇拝を気にするのは、反対に自然崇拝の者達である。
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● 偶像崇拝に対する釈尊とイエスの態度
仏教の教えを広めた釈尊も、キリスト教の教えを広めたイエスも偶像崇拝に
ついては特になんとも言ってはない。
偶像崇拝を禁止しなさいなどとも一言も言わない。
釈尊もイエスも偶像崇拝であろうがなかろうが、まったく気にもしなかった。
むろう敢えて肯定もしていなかった。
偶像崇拝について肯定も否定もしなかった。
仏教もキリスト教も偶像崇拝かと訪ねられれば、そうではないと答える。
だが偶像崇拝禁止かといえば、そうではないと答える。
釈尊もイエスも偶像崇拝については特に何も気にしていない。
仏教もキリスト教も開祖死後、数百年を経て、共に偶像崇拝になっていった。
キリスト教徒は、十字架を掲げるようになったし、また司教は十字架を
首にぶら下げるようにもなった。
イエスの像を作り拝むようにもなったし、イエスの弟子の像も拝めば
イエスの母親のマリア様の像に救いを求める人々もたくさんいる。
仏教では、たくさん仏像が作られた。
石窟寺院もあれば、高度な技術によって大きな大仏も作られるようになった。
大小様々な仏様が作られるようになった。
時の為政者も国家の安寧を長い、仏に救済を求めたのである。
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● 偶像崇拝とは
偶像崇拝というのものは、絵や彫刻などの技術で物に表現する事だけを
を意味しているのでは決してない。
人々の頭の中で抽象的な思考によって神や仏をイメージすればそれも同様に
偶像崇拝である。
神や仏の姿を絵画や彫刻で表現しようが、
人間の頭の中で抽象的なイメージで描こうが大差はなかろう。
頭の中にイメージがあるか、それとも表に出ているかの違いでしかない。
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● 聖典の宗教と偶像崇拝
偶像崇拝に傾きやすものこそ聖典の宗教である。
聖典化されて教えが言葉で表現された時点で、既にあるイメージは生まれて
しまうのである。
言葉で神が表現されるならば、それに伴い、抽象的なイメージが人間の頭に
浮かぶのは自然な事である。
神の姿を人格化することにもなるのは当然である。
だからこそ仏教は仏像を作り、ヒンデューは神々の像をつくり、キリスト教は
イエスの像やマリア像を作った。
言葉で表現されれば、イメージが湧くというのが当然なんのである。
聖典化しておいて、その神なるものをイメージしてはいけないと教えることの
方が実はだいぶ無理がある。
聖典化された宗教において偶像崇拝が起こるのは人間の自然な流れである。
そのこと事態を否定するならば、始めから聖典化などせぬ方がましであろう。
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● 自然崇拝と偶像崇拝@
反対に、偶像崇拝を行わないのが自然崇拝である。
なぜならば自然崇拝は、自然の奥に存在する神なるものを尊ぶからである。
自然の奥に生きんとする意志がある。
その意志は、我々人間にとってはどこまでも盲目である。
それゆえにこそ自然崇拝の掲げる神は、姿がはっきりしない。
明確になるはずがない。
21世紀の現代においてもっとも偶像崇拝がない宗教といえば神道である。
偶像崇拝がないというならば神道こそもっとも偶像崇拝がない。
神道の神なるものの姿は、漠然としていて明確な姿を形作っていない。
それゆえ神社を参拝する人々が想像する神の姿もバラバラである。
これらを見た西洋人が、神道は宗教ではないなどと時たま発言するが、それは
まったく馬鹿げている。
本来、太古の宗教とは神道のごとくであった。
太古の人々は、自然の奥の生きんとする意志に神なるものを見た。
未開の深い森の中で暮らす部族が掲げている神なるものこそ自然の奥に
存在する生きんとする意志である。
距離が近接している部族同士の神々の姿も異なる。
部族ごとに、神の姿はバラバラである。
これで正しいのだ。生きんとする意志は、人間にとって盲目なのだから。
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● 自然崇拝と偶像崇拝A
さらにいえば、一神教が自然崇拝を禁止したのもうなずける。
そもそも一神教とは、自然の奥の生きんとする意志を人格化して唯一の神と
して表現したものである。
その自然の意志は、我々にとってはどこまでも盲目であり姿がわからない。
それゆえ自然全体を一つの人格として描いた一神教は、偶像崇拝を禁止に
傾きざるえない。
ユダヤ教やイスラム教が偶像崇拝を禁止するのもうなづけるのだ。
我々にとって意志はどこまでも盲目である。
その意志がなにものかなどは、まったく知的に判断がつかない。
勝手な思い込みで、自然は各あるべしと思えば、自然はきまって違う面を
我々人類に示すのである。
神なる教えを聖典化してはあっても、あくまでも盲目なる意志を畏れ敬う一神教
においては、偶像崇拝の禁止であるのは自然な流れである。
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● 偶像崇拝禁止のユダヤ
ユダヤの神話物語を聖典化したとはいえ、本来は自然崇拝のユダヤにとって
偶像崇拝傾くことは許されぬものであり、譲れぬものであった。
だからこそ偶像崇拝すれば、非難され厳しい対応がなされた。
モーゼが十戒を得て山から下りてきたときに、人々が金の子牛の像を拝んで
いた出来事も、それを強調している。
これらの話は、バビロン捕囚以後に追記されたものだろう。
金の子牛の像を拝んでいた多くのユダヤ人は、それゆえユダヤの指導者層から
数千人も殺されることになった旨の話が旧約聖書には書かれている。
ユダヤが偶像崇拝を厳しく禁止していた事を象徴するのが、次で述べる神の名
についてである。
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● 神の名を忘れたのではない
旧約聖書に書かれている神の名 YHWH。
古代の人々が、名をみだりに呼んではならないことから、呼び名を忘れて
しまったと言われている神の名である。
現代では、YHWH(=アドナイ、ヤハウェ、エホバ)などと発音される。
しかし、これは神の名を忘れたからなどではない。
そもそもその文字に呼び名などなかったのだ。
始めから文字だけがあっただけで、呼び名などなかったのだ。
なんと呼んでもよく、また呼ばなくても良かった。
ユダヤが神道のごとくに、自然の奥にある生きんとする意志に神を見たの
ならば、厳格な呼び名など存在しないはずである。
生きんとする意志は、我々人類にとって盲目であるからだ。
人間にとって意志は盲目である。
我々の知性を司る表象(=根拠率を有する表象)のいずれの外に存在する。
真の姿を捉えることはできない。
それらが何者かわからぬのだから、呼び名などつけようもない。
現代の日本の神道においても同様である。
様々な神々は登場するのではあるが、日本人が神社でお参りにする時に
日本人の頭で描く神様は、人格化された何者かの姿では決してない。
お寺の近くのお土産屋さんには仏像が売られているが、神社の近くの
お土産屋さんには、神々のフィギュアなど置いていない。
神道において神なるものの姿は、定まっていない。
否、定まらないことこそが神なる教えの真実である。
伊勢神宮の神様に参拝するときに、心の中で神様〜と呼ぶ人々もいるし
日本の女神様〜という人々もいるし、お伊勢さま〜という人々も、内宮の神様〜
外宮の神様〜という人々も多くいる。
具体的に天照大御神さま〜、豊受大御神さま〜という人々ももちろんいるが
必ずその名で、呼ばなければ、ならないなどという事はないのだ。
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* もちろんだからといって、正式な名前を呼ぶことに価値がないなどとは
決して言わない。神様に対して何よりも畏敬の念と神様の愛に対する
感謝をご報告し、里帰りしたときに親に甘える感覚を持ち合わせて、
失礼のない範囲で、親しく接するという態度が大切である。
● 敢えて神に呼び名をつけるとしたら
神の呼び名は、みだりに唱えてはならない事からキリスト教では
天にまします我らが父よ(=父なる神)と呼ばれたり、主と呼ばれたりする。
キリスト教も多くの宗派に分かれたから呼び名は様々である。
もしこの神の名に、敢えて呼び名をつけるとするならば、自然である。
または自然の奥にある生きんとする意志と呼んでも良い。
旧約聖書で神と言われているものは、自然の奥にある意志の事である。
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● 一神教と多神教
多神教も、一神教も、共に神に名前をつけた。
自然の諸力の1つ1つに神の名前をつけたのが多神教である。
自然全体を1つに人格化したのが一神教である。
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● 最高神ほど名を知らない日本人
多神教でも一神教でも、神々の名は良く知られていて多くの人に敬われる。
特に最高神となるとその敬われ方も強くなる。
インドの最高神であるヴィシュヌ神、シヴァ神、ブラフマーの名を知らない
インド人はおるまい。絵で描かれたり、大きな像が作られている。
インドから発祥した仏教でも各地で仏の最高位の大日如来、毘盧遮那仏と
登場して良く知られるが、日本の神道においては、最高神に近づけば
近づくほどまったく姿がわからなくなる。
日本の神道において、確かに神々に自然の諸力を表し、名が与えられはしたが
高級な神々(原始の神々)に遡っていくと、その姿はわからないものになる。
神代七代の神々の名前を全て言える日本人など専門家以外、まずいまい。
@ 国之常立神
A 豊雲野神
B 宇比邇神・須比智邇神
C 角杙神・活杙神
D 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
E 淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神
F 伊邪那岐神・伊邪那美神
上記で良く知られているのは、Fのイザナギ・イザナミの神がであろう。
大本(教)が掲げる@のくにとこたちの大神の名をなんとか聞いた事が
ある程度であろう。
その上の別天津神(ことあまつがみ)の5神の神々を知る人は少ない。
@ 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
A 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
B 神産巣日神(かみむすひのかみ)
C 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
D 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
どの神も神道においては重要な神々であるが、神道関係者以外では
ほとんど知られていない名だといえよう。
何の神様なのかを多くの日本人は気にすることなく神社に参拝していると
いうところが実際である。
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● 最高神ほど名を知らない日本人A
世界の多くの人々は、その神や仏を祭るならば、その意味を理解する。
さらに最高神ならば特別に重きを置く。
その点においてはヒンデュー教徒も一神教徒も同様である。
イスラム教におけるアラーの絶対性はつとに有名である。
しかし日本ではそうではない。
最高の神に近づけば近づくほど具体的な形は見えなくなるだけでなく
実際にその名を知らない場合が多い。
日本では全てが反対になって、高い場所から降りてきた神様や仏様の方が
断然人気が高く知名度がある。
観音様、菩薩様、お地蔵様などが特に人気が高い。
日本は最高神ほど姿がわからなくなる。名前さえ覚えていないのだ。
これは一見すると不思議なように見えるかも知れないが、自然の意志を
最高の神と据えるならば、その有り方に特は違和感はないののだ。
何度もいうように自然の奥にある生きんとする意志は、我々人間にとっては
盲目であり、その意志の表れの自然現象に神々の名をつけて親しむといの
は大いにあるからである。
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● カインとアベル
旧約聖書で登場する神が、自然の生きんとする意志であることを
示す事例がある。それがカインとアベルの兄弟の物語である。
神に農作物を捧げたカイン。
神に動物の肉の生贄をささげたアベル。
神は生贄を捧げたアベルを寵愛した。
神の寵愛を独り占めしたアベルに対して、嫉妬したカインは、ついにアベルを
殺してしまう。ここに兄弟殺しが起こった。
(このアベルとカインの意味は様々なことを表してもいる。)
カインのアベル殺し 何ゆえ神はアベルを好んだか?
それでは、何ゆえに神はアベルを愛したか?
それは2人が神に捧げたものが異なるからである。
つまり農作物は文明によってもたらされた事を意味する。
これに対して、動物の肉とは狩猟を意味し、それはより自然の有り様を表す。
農作物 ⇒ 文明 ×
生贄(動物の肉) ⇒ 自然 ○
農作物は文明の発展を意味する。
その文明でこそ育まれた聖典の宗教を連想させる。
これに引き換え、動物を捧げる生贄は、太古の狩猟時代を意味して
つまりは自然に近いことを意味する。
ユダヤの神は、文明でもたらされたものよりも、自然からもたらされたものを
ものを好んだ。
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● ユダヤの神の残虐な行為@
旧約聖書を見れば、ユダヤの氏神ヤハウェとユダヤの民の残虐な行為が
これでもか!これでもか!と記載されている。
非道な者達であるとさえ言える。
ある地域に昔から住んでいる人たちがいるのに、勝手にそこが自分達の
約束された土地だといって、そこに住む者達を皆殺しにしたユダヤの民。
さらにはその戦いにユダヤの神ヤハウェも加わり、大きな岩を空から何個も
投げつけて、無慈悲に多くの民を殺している。
さらには、その地域にもともといた徳がある王様を縛り首にして、唾を吐くが
ごとくに辱めた。
ユダヤの民は、神の命令などば、どこまでも非道になった。
旧約聖書にはそれらの事がたくさん記載されている。
こんなことをすれば、他の民族から間違いなく嫌われるだろうぐらいに
非道なことが書かれている。
この無慈悲な面こそ、また自然の一面であるといえる。
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● ユダヤの神と民の残虐な行為A
ユダヤの神の無慈悲で残虐な行為は、他の民族の神々と一線をかす。
インドの神々やヒンデューの神々などとはまるで異なる。
また仏教の仏とも大きく異なる。
仏は、人々を救済する慈悲と愛の存在である。
このユダヤの神の姿こそ、自然の一面を適確に捉えている。
自然は確かに美しい。美しき景色を人間の目の前に提供する。
その上で生きる人間の実に美しい。
自然の上にあらゆる動物が、その環境に見事に調和している
なれど自然はどこまでも無慈悲である。
自然の上で永遠に繰り返されてきた弱肉強食。
動物は、他の動物の命を奪うことで明日に命をつなげている。
それゆえ古代ギリシャの哲学者アリストテレスはこう述べた。
自然は悪神であると。
古代ギリシャを代表する哲学者
アリストテレス 『週刊100人歴史は彼らによってつくられた』
ユダヤの神は、まさにその自然の無慈悲ぶりを見せ付ける。
自然の悪神の一面を、ヤハウェは持ち合わせている。
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* ユダヤ人の神との契約の前では、異民族をの命など屁にも
思わない思想がヨーロッパの白色人種に入り込むと、異教徒や
有色人種が同じ人間はなく、情け容赦なく殺しても良いという考えに
結びつくことになった。
これらの白人の頭には、間違いなくユダヤ的世界観が宿っていた。
● 旧約聖書全般に言えること
旧約聖書で述べている神(=主)の部分の中で、自然(または自然の意志)と
いう言葉に置き換えてみると、多くがあてはまるのが創世記である。
その他にも多くが当てはまる箇所がある。
旧約聖書から絶対者的の衣をはぎとり、人格化された部分を無視して、
神を自然という言葉に、置き換えて、旧約聖書全体を読んでみるとどうだろう。
旧約聖書には、自然のことを物語っている箇所が随所に見られる。
【創世記】
神は、この地上のあらゆる生き物をお創りになった。
↓
自然は、この地上のあらゆる生き物をお創りになった。
神は、人間(アダムとイブ)を楽園から追い出した
↓
自然は、人間を楽園から追い出した
【イザヤ書】
神は、疲れることなく、生み疲れることもなくその力を発揮する。
↓
自然は、疲れることなく、生み疲れることもなくその力を発揮する。
神は、疲れた者に力を与える。活動力のない者に力を豊かに与える。
↓
自然は、疲れた者に力を与える。活動力のない者に力を豊かに与える。
【詩編】
神よ、わたしに恵みを示してください。
↓
自然よ、わたしに恵みを示してください。
神は、すべての物を所有しておられる
↓
自然は、すべての物を所有しておられる
【ヨブ】
神は悪いことを留めることはしない。
↓
自然は悪いことを留めることはしない。
もちろん、旧約聖書の中には人格神として神が登場している場面なども多く
あるから、全てに自然(の意志)という言葉が当てはまることはない。
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* ちなみに新約聖書の神の名に自然の意志は、つけれない。
新約聖書に登場する神は、生きんとする意志について述べて
いるのではない。 それでは新約聖書の神の名にはなんと
つけるのがぴったりであろうか? 答えは仏である。
● 預言者イザヤの書
旧約聖書は、バビロン捕囚以後にかけて多くの加筆、修正が加えられてきた。
なれどその中で、もっとも加筆、修正が少ないと思われるものがある。
それは、預言者イザヤの書である。
さすがにユダヤの指導者層も、イザヤ書はなるべくそのままの形で残したいと
願ったにに違いない。イザヤ書にはある面、霊感に包まれているかのように
書かれている箇所が多く存在する。
ユダヤの指導者層も、イザヤ書はなるべく原型に近い形で残そうと
考えたに違いない。
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● 旧約聖書と日本神話
現在の旧約聖書から、絶対者の衣を取り、聖典の宗教の様相を取り除いた
ならば、その姿は、日本神話のような神話物語になるのだろう。
神道のごとく自然の生きんとする意志を表す面を見せる旧約聖書の神。
旧約聖書と日本神話に、大きな類似点があることをユダヤ人の
ヨセフ・アイデルバークが既に指摘している。
もちろん、そこには大きな食い違いも多くあるだろうが、それにしても非常
に興味深い類似性がある。
これから、さらに多くの事がわかることを期待する。
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● ユダヤは歩み続けた
ユダヤにはもともと選択肢などはなかった。
絶対化することでしか彼らの神なるものを守れないと考えたユダヤの現実を
見る目は正しかった。
その後、ユダヤは国を失った。
それから数千年、確かにユダヤは神なる教えを守り続けた。
ユダヤは神との約束を守ったのである。
だが、ユダヤが歩んできた道も平坦な道ではなかった。
ユダヤは確かに、他の民族に様々な非道な行為をした。
ユダヤは確かに、他の民族と分かり合おうなどとは思わなかった。
ユダヤは確かに、人間の情よりも神の意図を優先してきた。
それゆえにまた、ユダヤは他の民族から蔑視され嫌われた。
それゆえにまた、ユダヤは他の民族から迫害を受けてきた。
それゆえにまた、ユダヤの民は傷つき、血を流してきた。
ユダヤ人は、ヨーロッパで嫌われ、中東にいっても嫌われた。
彼らは、どこへ行っても嫌われ続けた。
なるほど、彼らの絶対神の物語には無茶な面が多かった。
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● ユダヤ的世界観と地獄@
ユダヤが掲げたユダヤの教えは、ユダヤ的世界観をもたらした。
この地上が神から与えられた楽園という楽観論である。
この教の恐ろしさは、2000年の歴史が証明している。
最終的には神によって救われる思想ほど、人々の日常を、地域を、国家を
駄目にした教えはない。
時間が経過さえすれば、いずれは絶対者によって楽園が訪れる考えは
ユートピア論者を生み、浅はかさを生んだ。
特に勉強もせずに絶対者の話を信じる浅はかな者達が権力を有するや否や
この地上に地獄が訪れた。
特にキリスト教指導者にユダヤ的世界観が入り込むと、真摯な多くの探究者が
弾圧をうけ、異端尋問、宗教裁判にかけられた。
ガリレオ・ガリレイは生涯、監視下におかれ軟禁状態で暮らした。
ジョルダーノ・ブルーノは火刑によって殺された。
同じくバニーニは、舌を抜かれた上で殺された。
キリスト教指導者層は、聖書で説明できる以外のものは、決してゆるさなかった。
全知全能の神が、人間にもたらした聖書だから全てが記載されていると盲信
したキリスト教徒の馬鹿さと残虐振りが際立った。
これらのふざけた連中の為に、どれだけ優れた者たちが苦しめられ、時に
命を奪われたことか。
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● ユダヤ的世界観と地獄A
ユダヤ的世界観がヨーロッパの白人の頭の中に入り込むと
人種差別の思想を生んだ。
全知全能の神を重んじることは、つまりは知性を重んじることにつながった。
知性が優れている者は、全能なる神に近いと白人は考えるようになった。
それゆえ産業革命を起こした白人は、有色人種よりも黒人よりも優れていると
いう差別意識がいよいよ助長された。
知的に優れていることが、他の人種の命を握っているかのごとくに人々を
酷使し始め、それを恥じる様子がまるでなかった。
アフリカに存在した多くの黒人が、新大陸に奴隷として連れていかれて、
動物のごとく扱いを受け、多くの者が過労で倒れて無念に死んでいった。
ユダヤ的世界観の猛威はこれで止まらない。
ユダヤ的世界観は、社会主義と共産主義という子供を生んだ。
つまり外的環境によって理想な国家を作ろうとしたのだ。
その背後には、ユダヤ的楽園のイメージがあった。
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● 空白を愛したユダヤ的世界観の子供達
社会主義者、社会主義者の頭の中にはユダヤ的世界観であった。
社会主義や共産主義は、ユダヤ的世界観が生み出した子供であった。
今あるものを壊せば、新たに全知全能の神が、楽園をもたらしてくれると
彼らは考えた。それゆえ、これらの者達は、空白を愛した。
空白をもたらせば、その空白に絶対者が楽園をもたらしてくれると信じた。
これらの者は破壊者となった。
破壊衝動を内秘め、徹底的な破壊を持ち始めたのだ。
今までの人間が懸命に作り上げてきた文化や制度が、絶対者の登場を邪魔
していると考えた彼らにとって、伝統や文化やもっとも邪魔な存在であった。
共産主義者や社会主義者は、歴史的建物を次々に破壊した。
さらには文化を破壊し、伝統を継承してきた多くの人々を惨殺した。
メガネをかけているという理由で知識人と見なされて殺された者達も多くいた。
21世紀の現在、ユダヤ的世界観はヨーロッパ、中東、ロシア、中国、
日本と流入し、現在はアメリカ合衆国でその勢いを増している。
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● 事は容易ではない
21世紀後半において、世界中の人々の頭からユダヤ的世界観が離れていく。
ゆっくりとではあるが、人々の頭からユダヤ的世界観は離れていく。
このことは容易ならざる事態をもたらす事になる。
ユダヤ的世界観の流入がこの世界に激動をもたらしたように、ユダヤ的世界観
との別離もまた、この世界に激動をもたらす。
さらに22世紀になると、ついにユダヤ的世界観の本家本元であるユダヤ人の
間からユダヤ的世界観が離れ始める。
ユダヤ的世界観は、居場所を求めて地球上を駆け巡る。
居場所を失ったユダヤ的世界観が、居場所があるところに殺到する。
世界中が不安定となる。
22世紀に再び、地上に悪鬼が現われて、社会の破壊がもたらされる可能性も
否定できない。楽観視など到底できない。
世界中の人々の頭の中から、ユダヤ的世界観が離れれば離れるだけ、
それだけの多くの悪鬼が暴れだす。
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● 再度、ユダヤは歩み続ける
ユダヤは、歩み続けた。何があろうと歩み続けた。
ユダヤが彼らの絶対なる神を手放すことなどなかった。
絶対者の衣をつけながら、その奥には太古の神々の生きんとする意志が
息づいている。
なれど、数千年の時の経過が、ユダヤ人自身にも旧約聖書誕生の背景を
忘れさせた。その本当の意味を理解できなくなっていた。
ユダヤの本来の神なるものに、絶対者の衣が着させられている事に
気付いているユダヤ人は、現代では極々少数に限られた。
なれどユダヤの民は、22世紀になれば、その真意に気付かざるえない。
神の教えが世界中のあちこちで復活するからだ。
ユダヤ人は、ユダヤの国家イスラエルを建国した。
既にユダヤも、神なる教えを復活させる外的環境は整った。
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● 神なる教えを思い出すユダヤ
再び、太古の神々が世に登場する時期が訪れる。
22世紀になれば世界のあちこちで太古に滅んだ神々が復活する事になる。
その時、ユダヤの民も気付くことになる。
本来のユダヤの民はなんであり、何を崇拝していたのかと。
真のユダヤの民がどういう者達であるかを多くのユダヤの民が気付く時がくる。
22世紀にユダヤは絶対者の衣を脱ぐのだ。
その時に、ユダヤは本来の力を取り戻す事ができる。
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