宗教の欠点。宗教は民衆にこそ必要だ。それゆえに多くの欠点も持つ。
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宗教の欠点
 心の平安、奉仕の喜び、共に神仏を信仰する楽しい日々。
 宗教の利点は、各宗教団体がこれほどかというぐらい述べている。
 ここでは宗教の欠点について述べる。


 
● 宗教による弊害

 宗教にはたくさん長所がある。それは否定しない。
 だが同時にたくさんの短所も存在する。以下の点が顕著に見られる。

   
@ 傲慢さ・思い上がり
   A
極端な解釈・狭い視野
   B
頑固さを助長する・思考停止
   C
短絡的に考える・何でも神に結びつける
   D
解釈を捻じ曲げる・科学の進歩の防ぐ

 
どの宗教であれ、その信者の内に優れた者もいれば、そうでない者もいる。
 いずれの宗教にも上記の部分が見られるものである。

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 ● 信者の思い上がり

 だいたいどの宗教団体でも信者の中には思い上がる人がいるものである。
 というのも、宗教は
教えを強調するからだ。
 この教えこそ本物、ここにこそ本物の神が降りており、その教えこそ尊いと強調
 すればする程、その教えを知っている自分達は凄いのだと思い込む。
 そしてそれを知っているのは自分達だけだという思いがどうしても湧き上がって
 くるのだ。

 ここに知的優越感が現れやすいのだ。

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 (*) もちろんどの宗教団体にも知的に優れた人は、いるものだ。
     そういう人はしっかりと学問を積み知的謙虚さを持つものだが
     少数派である。



 ● 無知なことに恥じない@

 想像もつかない程の深遠な探求者、求道者がこの世界にはいたことを大抵の
 宗教信者は知ることもないし学ぶこともない。だから推し量ることができない。

 人類の歴史の中には、あなた方が崇める宗教団体の教祖なんかでは足元にも
 近づけない程の天才達がいることを知らない。
 プラトン・カント・ゲーテ・ショーペンハウアーなどとなると圧倒的な存在なのだ。
 こういう人達の知性といえば、現代のノーベル賞学者が数百人集まって束に
 なってもまったく適わないレベルにあるのだ。

 その他にも釈尊、イエス、孔子、老子、空海など圧倒的な存在である。
 日本にも最澄・空海・法然・親鸞・日蓮、道元などとキラ星のごとく深遠なる者達
 がでている。
 これらの歴史上の賢人の足跡は、あなた方の開祖が必死に学んで掴みとる
 対象なのである。そういうことを真に知る人は、自分が属している宗教以外の
 優れた人からも進んで学ぶのだ。
  反対に自分の属する宗教団体の教え・教義には精通していても人類が
 もたらした真の学問から学ばない人は、推し量ることができないのだ。

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 ● 無知なことに恥じないA

 宗教団体で、教えを教わり、理解できたぐらいで、どうということはない。
 自分で悟りを開いて、その考えに最終的に至ったというなら、その優越感も
 充分に理解できるのだが、自分では何の悟りも開かずに、人から教わって
 理解したというレベルで凄いことなど何もない。
  学者とどのような違いがあるのだろうか? 
 
 本当の意味で考え、学ぶことがないからそのことがわからない。
 自分で辿り付く事と教えてもらう事には
 どれ程大きな差があるのかが
理解できないのだ。

 世の中には、どの分野(学問、芸術、芸事)であれ人々を圧倒するレベルの人
 が見られる。特に長い歴史の中にはとびっきりの人々が存在する。
  同じ人間として生まれて、その道を貫いた人々に真に敬意を払えるのは
 その道を貫き通すことの難しさを真に理解する人々である。
 そのことがわからない多くの宗教信者は、だからこそ他の宗教の偉人・賢人に
 対して冷酷な態度を取るのだ。

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 ● 教祖と幹部の差

 特に思い上がりが激しい人は宗教団体の幹部の中に見受けられる。
 宗教団体を起こした開祖(宗祖)などはやはり、それなりの修養と実力がある。
  神の意図を把握し、霊的鋭さも兼ね備えている人もいるだろう。
 多くの信者が集まり、そこに起こる人的問題を解決して、宗教団体を維持
 する難しさも体験しているだろう。
  開祖(宗祖)には遥かに劣るものだが、その後を受け継いだ2代目や3代目の
 教祖なども、生前の開祖の気に触れているから少しでも近づこうと学問に励み、
 ある程度は努力するだろう。また組織(団体)を維持する責任を感じているから、
 それなりに努めるだろう。

 だが取り巻きの幹部となるとその責任がない為、修養がおろそかになり、学問を
 積まない人も多数でてくることになる。
 宗教の教祖であれば、神仏に接しようという神霊的な面も多かれ少なかれ
 意識するものだが、幹部であればその点は気楽なものとなる。

 宗教団体は信者数が多くても、その内部の人々の考え方はある程度、共通化
 されるために、価値観も共有されやすく、
狭い世界となりやすい。

 狭い世界に属し、狭い世界しか見えなくなると、その組織での地位が一番重要
 に思えてくるものだ。これは国家官僚が出世にだけ目がいくことに似ている。
  宗教団体の組織がいつのまにか全世界になる。
 そうするとその組織での序列が気になって仕方ないということになる。

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● 教義の理解が一番になる

 だいたい真に考えない人々が集まると、いかに知っているか、暗記しているかが
 重要になるものである。宗教において、往々にその教義をもっとも理解して
 いる人達が幅をきかす。
 だから宗教信者の関心も教義をどれだけ理解しているかになってくる。

  真に宗教が起こったときは、多くの信者は、大切なのは知性ではなく愛や
 真心なのだと理解する。宗教を起こした宗祖、開祖の生き様をその目で
 見るからだ。しかし宗祖、開祖が亡くなり、宿主を失った組織においては
 宗祖、開祖が残した言葉、考え方などが重要になる。
  宗祖が言葉には残さなかった、日常の態度、日々どのように生きるか?
 どのように人に接するか?どのように取り組むか?等々、言葉に表現することが
 難しいものは、信者が持っている本の中には存在しない。
  宗祖と同じ時を過ごした人々の記憶の中に残る。
 なれど、そういう人々も亡くなり、生前の宗祖、開祖を真に知る人がいなく
 なった時に宗教団体は、教義をどれだけ理解しているかとなりやすいのだ。

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 ● 信者が考えることをやめる

 宗教の罪。これは信者から考えることをやめさせてしまうことにある。
 教祖が述べたことを鵜呑みにする。教祖も人間だし優れた分野もあれば
 信者の方がはるかに優れた部分もあるだろうが信者はそれを鵜呑みにする。


 宗教は人間から考えさせることをやめさせる。 
 なぜ考えることをやめるかといえば、それは信仰がベースだからだ。
 宗教の教義体系の根本のところが理解するところではなく、信じるところだ。
 だから宗教とは考えることではなく、信じることになる。

 教義内容について、信者が真に考えることはタブーである。
 仮に教義体系に疑問を差し挟む自由を与えれば、教義体系が崩れるし、
 異論反論が飛び出して収集できるものでは決してない。
  さらに宗教の根幹部分は、決して論理的に解釈しきれない。説明しきれない。
 できたらそんなのは宗教ではない。これは宗教のもつジレンマでもある。
 もっとも大切な部分が考えることができずに信じるかどうかにあるから
 そこから派生された物語(神話)も実際には疑問の余地を挟ませない。

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 ● 最高神合戦

 宗教団体も信者を獲得する必要がある。
 そうすると手軽で効果があるのは知の宣伝である。
 
教義体系の優越競争になる。

 どの宗教も愛や慈悲を説く。
 だが愛や慈悲を目に見える形で示すことは思いのほか難しい。
 愛や慈悲は数字では計れないからだ。
 下手に愛や慈悲の活動を宣伝すれば、信者獲得の為ともみなされかねない。

 その為、良く用いられるのは知性に訴えかけることになる。
 教義体系は知識であり、理解しやすい。それにより、他の宗教との差別化を
 図りやすい。知の宣伝が有効であるのは、現在の宗教団体が教義体系に
 どれだけ多くの労力を裂いているかでも良くわかる。
 他の宗教より優れていることを示す必要がある。

  しかし如何せん、人間が考え付くようなことはどこも考え付くものだ。
 教義も似たりよったりとなってくる。

 そうなるその次に行うことは何かといえばその教義の保証が欲しくなる。
 自分の宗教団体に降りている神が、あらゆる神の中で一番優れている神、
 この宇宙の最高の神、つまり
最高神であると宣伝することになる。

 最高神が降りている宗教団体ならば安心だと思って、そこで多くの人々が
 宗教団体に入信して信者となる。
 ここに最高神合戦が始まる。

 世界中の宗教団体を見ると、これまたいくつもの最高神が存在する。
 呼び名も様々である。
  
我らが主、絶対神、親神様、主神、母神様、父神さま、大神、
  大宇宙神、唯一神、大御神
etc と呼び名はいろいろあるが、
 まとめると、我らの神こそが宇宙創造の最高神だと主張している。


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 ● なんでもかんでも神の力となる

 宗教に密接に関わっている人の特徴として、なんでもかんでも神の力なのだと
 考える人がいる。やること、なすこと全て神だという。
 もちろん、この世界の全ての現象の奥に神を見るという思想なら、それは
 それで良いだろう。別にそう考えても差し支えはない。
 そこまでなら、もちろん許せるし、それはそれで良い。

 だが、それを通り越して
  『これは神の力であり、科学的にも保証される!』
  『 神の力を多くの科学者が認めている』 

 などとわけのわからぬ?ことをいうから困るのだ。
 いったい世界中の科学者の誰が、神の力を科学的に保証したのか?
 科学者が認めているというのは信仰という意味で個人的に神を認めるので
 あって、科学的に認めているという意味では断じてない。

 いったいこれらの人は、科学というものをどのように捉えて、どこまでの範囲が
 科学の探求領域なのかをまったく理解していない。特にこれが一般信者でなく
 宗教指導者層が述べるからおかしなことになる。

 優れた科学者ならば、科学で証明できることなど、この世界の一部分にすぎない
 ことを認識している。だから科学で証明できない事がこの世界にはたくさんある
 ことを感じている。その中には神も含まれるのかも知れぬ。

  科学を真に理解する人の方が遥かに科学の限界を理解している。
 科学に無限の可能性を見るのは、反対に宗教関係者の方なのだ。
 科学なのか、神の力なのかが、まったくグチャグチャになっているのだ。
 科学には突き止められない部分がある。
 科学(物理)は実験を経てア・ポステリオリな認識に帰着して真だと見なす。



 ● マインドコントロール

 宗教にはマインドコントロールが存在する。
 そこに述べられていること全てが事実であると強烈に考えるようになる。

 
人間ならば誰もが間違えるということが宗教には
 受け入れられない。

 人間がいうことはどれ程優れていても言い足りないものが存在する。
 その人が神掛かっていても人間から発せられたものは完全ではない。
 そのことが宗教では、受け入れられないのだ。

  現代の我々が間違うように、なぜイエス・キリストにも間違うことがあることを
 認めないのだろうか? その点、日本人はこの点は素直だ。
 弘法も筆の誤りと昔から言うではないか?
 (弘法大師・空海ほどの字の達筆な人でも、時には字を間違えることがある。
  その道の名人でも間違えることがある。)

 教祖が述べることに疑問を挟まなくなる。
 教義に疑問を持つことをさせない。信者から考える力を奪う。
 それらによって持たされた結果が、
まったく考えない信者の登場である。

  これらのマインドコントロールが社会的にマイナスでない場合には悪さも
 せぬだろうが、一歩方向を間違えば、集団的な残虐行為に発展する。

 中世ヨーロッパの魔女狩り、宗教裁判、異端裁判、科学者への迫害、
 また現代でも地下鉄にサリンを蒔いて無差別殺人を行ったオウム真理教に
 見られる。その他にも宗教において数限りない血が流された。
  これが決して昔に起こっただけで、現代には関係ないなどと言えるだろうか?
 否である。それらの出来事は現代にもいつ起きても不思議ではない。

   地球が太陽の周りを回っていることに気付いた16世紀のガリレオ・ガリレイ
 の主張に対して、キリスト教は、宗教裁判までして何ゆえに追い詰める必要が
  あったのか? 何の権利があって宗教は、そういうことができるのか?

 経典、聖書、教祖の発言、すべてが絶対であり、正しいと考える人々は現代でも
 多数存在する。強烈なマインド・コントロールの力を宗教は有する。


 
アメリカの教育でも、生物学においてインテリジェント・デザイン(神の意図)
 の考えが入りこみ、この点に固執しはじめた。
 こうなってしまうと、まともに考えることはできなくなる。
 科学の基礎に超越的な部分を入れてはいけない。
 信仰の部分を、科学の基礎に導入すれば激しい混乱が起きるだろう。
 いつしか、その信仰に都合の良い科学的な結果のみが選択されるとも限らない。

         
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* そもそもアメリカで、インテリジェント・デザインが盛んに強調されるのも
   唯物論者、共産主義者がまだ残っている為なのだ。それらに対抗する為に
   インテリジェント・デザインをが支持する人がいまだに存在する。
   その点において、インテリジェント・デザイン支持者には、同情もできる。

* 宗教においては、インテリジェント・デザイン(神の意図)を信じようが、
   信じまいがそれは自由だ。それは信仰であるからだ。



 ● 国家のほうが余程うまくいく

 
宗教団体の中には、国家を非難する所もあるが、宗教と国家を見た場合、
 遥かに国のほうがうまく機能している。 特に宗教団体でも、宗教信者が少なく
 発展段階にあるところなどが国の政治、行政の行き届かない面を非難したり
 するが、実際に宗教団体も信者の数が増えてくれば、国に理解を示し始める。
 運営の難しさに気付きはじめるからだ。

 宗教団体でも信者数が100万人も越えてくれば、国の政治に理解を示す。
 多くの宗教が、国家間の争いや国内の権力闘争や経済的の格差の問題に
 ついて述べるが、これらは規模が違うだけで、宗教内部にも存在する問題だ。
 次期、教祖をめぐって教団内部が分裂したなどという話は良く聞く話だ。

 国単位の規模の人々を動かそうとすれば、宗教団体では務まらない。
  数が多いだけではない。そこには大きな利益も絡む。
 国家の運営には、数十兆円の予算、その使い道の1つ1つに利益が絡み、
 その為に権力が絡む。宗教団体が安易に国家の運営を行えば、多くの不満と
 権力争いが発生しない保証などはどこにもない。
 1億を越える人々の生活・教育・仕事をどの宗教が国家に代わって運営できると
 いうのだろうか? 国家の歴史は、その為に多くの経験を積んできた。
 苦しい経験も多々あった。イギリスのジョンロックに始まる三権分立、
 近代に発生した資本主義、さらに大戦争後の民主主義の普及、近代法の普及
 さらには、その国ごとの風習、そういう国々がそれでもなるべく戦争をせずに
 経済的摩擦で留まっているのは、先人の多くの挑戦があり勇気があった。
宗教よりは遥かに国家同士のほうが機能している。

         
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* 国家、政府などというのは必要悪である。
 人間の心に他人の物を奪うという心がなければ、本来、国家などというものは
 必要ではない。なれど他人のものがどうしても欲しいという欲求を人間はもつ。



 ● 古代ギリシャの壁の恩恵

 
宗教団体がどれほど、自分達は素晴らしいと言おうが、宗教団体の前には
 越えられない壁が存在する。古代ギリシャ・古代ローマである。
 古代ギリシャ人、ローマ人が生み出した詩、文学、芸術、科学、建築術、
 どれをとっても人間が生み出した最高峰といえる。

 世界中に存在する宗教団体が”これが本当の神の啓示である!”とか
 ”我々の団体こそ神に守られている!”とか”神の寵愛を受けているとか!”
  仮に、そういうことをたくさん述べたとしても 
 『それでは古代ギリシャを、古代ローマを越える芸術作品を作れるのか?』
 と問えば皆、沈黙ばかりだろう。

 世界中のどの宗教団体であっても古代ギリシャ、古代ローマを越えることは
 不可能だと認めざるえない。彼らの作品と古代ギリシャ人・古代ローマ人の
 作品と見比べれば月とスッポンほどの差がある。
 古代ギリシャ、古代ローマは宗教が越えられない永遠の壁である。
 宗教が傲慢になるのを常に遮る叡智の壁である。 人類の宝である。

 どれほど、我々にこそ神が降りたと宗教が主張したとしても
 古代ギリシャ・古代ローマ人がもたらした物(芸術・学問)と同等
 の物を生み出さなければ
、世界中の人々は賛同しない。

 古代ギリシャ・古代ローマの作品を見直したことで、ヨーロッパにルネサンス
 がもたらされたのは偶然ではない。

         
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● 探究心の発露

 今まで宗教の欠点について述べてきたが、最後に良い面を述べよう。
 確かに宗教は大多数の人々の中に、探究心の火をともす。
 その切っ掛けを与える。
 今まで学ぶことをまったく知らなかった人々に、宗教は知的刺激を与える。
 ある人は、その刺激で学問の道に目覚めさせることもある。
 宗教には、その役割がある。
 ある人々は、内容を少し理解しただけで優越感へと向かう人もいるが、
 中には真に目覚めて学問の道を真剣に進む者もいるものだ。

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 ● 民衆には宗教が必要である

 民衆には確かに宗教が必要である。この世は不安と苦に満ちている。
 人間自身の中に、抜きがたい愚かさが潜んでもいる。
 自分が得られてそれで満足すれば良いのだが、今度は自分だけが得たいと
 望みはじめる。最初は得られれば充分と考えていたのに、得た後ではそれを
 得るのは自分だけであり、他の人々は手さえ触れることもできず、自分のみが
 所有したいと望む。

 優越感に浸れれば、今度は他の人々を見下すようになる。
 嫉妬、強欲、独占欲、ひがみ、妬み、いじわる、などどれほど科学が発達
 しようと人間には抜きがたい性質を持つ。人間は確かに救われがたい。
 富が増えて、豊かに生活ができても、それで感謝せずにそれ以上を
 望むようになる。時に、貪欲に富を集めようとする。
 豊かで多くの物が手に入れば、救われるかと思いきや、他人が持っていない物
 が今度は所有したいと望む。優越感がいつでも顔を出してくる。

  /仕事に生き甲斐をもつ/なりたい職業に就く/自己実現をする
  /
夢をかなえる/経済的成功を手に入れる

 
確かに、それはそれで良いこともある。
 それらをもたらす為に、成功哲学を学ぶのも悪くはない。良いだろう。
 だが
成功哲学程度では決して解決しないことがこの世界にはある。
 この世界に生きる目的は決して、経済的成功を得ることでもなく、名声を得る
 ことでもなく、人々の信頼を得ることでもなく、また長生きすることなどでもない。

         
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 ● 成功哲学と宗教

  サラリーマンに人気のある成功哲学だが、成功する為の考えを理解し、
 ある出来事に対する自分の心の受け取り方を変化させることで、自分の行動
 を変えて、それを習慣の力によって自分の体になじませていく作業は、
 確かにその人の経済的な成功をもたらすだろう。
 それによって経済的成功を収めるのも結構である。
 経済的な富、社会的な名声、人々の信頼を得れば、生活もさぞ快適であろう。
 確かに衣食住を整えられることは重要である。誰も否定はしない。

 だが、それだけに留まるならば決して生きるという意味を何も理解せずに
 この地上での生が終わったということになる。

 もたらされた結果が良かったとしても、自分を真に変えたことにはならない。
 確かに豊かになれば快適であるし、それなりの自信も生まれもしよう。
 豊かであれば、問題も緩和されやすい。

 だが死を前にすれば人間は真に見つめざる終えない。
 いずれ全てのメッキは、はがされる。
 死を前にしたときに、人生とは、成功哲学が述べているような内容など
 とはまったく異なることを知る。
 人生において何を真に学び、何を真に実践するかを真に知ることになる。
 
死を前にするお年寄りが成功哲学など本気で学ぶだろうか?

 イエス・キリストはこの地上に
成功する為に生まれてきたのではない
 もし成功哲学が述べるような成功が最上の成功ならば、イエスの生涯は
 失敗そのものだ。
  もし仮に成功哲学が述べるような成功が最上ならば、釈尊は釈迦族の王子
 として国を盛り上げ、妻子・家臣を大切にし、経済を富ませ、その国に住まう民衆
 を幸せに導くことに専念しただろう。その道を歩いたことだろう。
  なれど釈尊の道は、そういうのとはまったく異なった道であった。
 釈尊は
成功を得る為にこの世界に生まれてきたのではないのだ。

 人を真に救うには、宗教の力が必要なのである。

         
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* 近代に生まれた成功哲学は、ナポレオン・ヒルにしても、その他の人々
   にしても必須の前提条件が存在する。
   それは全て資本主義下においての成功という前提条件がある。
   何度もいうが、別に成功哲学の意義を否定しているわけではない。
   経済的な成功はそれはそれで良いことだ。


 (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の成功哲学



 ● 大和の心と宗教

 
真に必要なのは宗教である。
 人間の性格は不変である。変えがたい人間の性格。変えがたいからこそ
 いつの時代も宗教は人々に求められた。宗教にはそんな人間に対する許しが
 あり、救いがある。変えがたい人間の性格の欠点に温かき愛を投げかける。

 輪廻という思想がある。輪廻とはこの世で苦しみ、この世で勤めを果たせば
 来世はもっと良い環境に生まれるという考えだ。
 そうやって何度も輪廻を繰り返している内にとうとう、生まれ変わらなくても良い
 こととなる。その時、肉体を離れて、真にあの世の住人になるという考えだ。

 なれどあの世の住人になれない人々も多数存在する。
 天は、地上で苦しみにあえぐ人々に本当に素晴らしい宝物を与える。
 何度も何度も輪廻を修行することを繰り返す必要がある民衆の為に、
 真に優れた人をこの世界に送り出す。

 イエス・キリストも釈尊も空海も日蓮も親鸞も皆、民衆と共に生きた。 
 これらの人々は、慈しみと優しい目をもち、我々を常に励まし一歩一歩と力強く
 進む姿を我々に見せる。多くの民衆は彼らに励まされ、勇気を与えられる。


 宗教は人類は皆一体であるという安心感を与える。
 なぜなら宗教は以下のことを教えるからだ。
 人類は他の人や国に勝つことを最上の目的にしているわけではなく、
 
人間1人1人が、この世界と対峙していることを教えるからだ。

 貧富の差はある。知的レベルも異なる。容姿も異なる。考え方も異なる。
 真剣さも異なるが、一人一人がその程度に応じてこの世界と対峙する。

 そして同じ人間としてこの世に生をもたらされたこと。
 同じ時代にもたらされたこと。色々あるが、それでも共に生きていくこと。
 苦労も共有すれば楽しくなること。それらのことを宗教は教える。

 真の宗教は知っている。
 一人一人が対峙すべき、この世界が容易ならざるものであることを!!
 だからこそ、真の宗教は必ず
大和だいわ=やまと)の心をもつ。

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 ● 宗教家の道

 宗教家は、真に生きることに目覚めた人々を励ますことにある。
 その道は非常に厳しい。愛が先立たなければどうしてその道を歩けよう。
 真に学問を学び、この世界の在りようを真に知らねば、この世界で生きて、
 苦しむ多数の人々の疑問に答えることすらできぬ。

 確かに貧しいことはつらいことである。
 人に相手にされないことも確かに、寂しいことである。
 がしかし、真に生きることに目覚めた人は、そのようなことで苦しむのではない。
 人々は成功できないから苦しむのでは決してない。

 確かにこの世界には、色々な段階のレベルの人々が混在して生きている。
 宗教家は、それらの全ての人々を救うことを使命とする。
 豊かな認識に溢れ、熱き風をこの世界に住む人々に送ることにある。

 宗教家の道は命を懸ける道となる。
 その道は決して安易ではなく、多くの困難にも見舞われる。
 途中で力尽き、誰にも見取られずに終わることもある。

 なれど宗教家こそ、真の勇者である。 
 宗教家の人生こそ、この地上に
人間が生きた証なのである。

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