宗教と物理学。物理学は自然を対象とする。だが宗教は自然を安易に扱いすぎるのだ。物理学者は宗教を越えなくてはならない
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宗教と物理学

 物理学は自然を相手にする。自然の姿を論理的に説明することを仕事にする。
 しかし、もたらされた結果は自然の1面に過ぎない。
 されど、宗教は自然を安易に扱いすぎる!

 
● 知性は後から生まれた

 知性は自然より後に生まれたのだ。自然は知性よりも先に存在する。

  
自然 > 知性   である。

 自然より後から生まれた知性。
 知性の形式は確かに自然の中で我々が生きるためにある程度、自然の形式に
 そって形式を備えはしたが、だからといって我々の認識で自然の姿を全て
 解明できる保証などない。
 
知性の形式にそって自然があるわけではないからだ。

 物理学を志すものはこのことを覚えておく必要がある。
 ここに物理学がどこまで発展していけるかの鍵がある。
 自然から学ぶ物理学の
限界と可能性もここにあるのだ。

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● 未来の物理学者の感慨@
 
 我々人類の知性の形式にそって自然があるわけではない。
 確かにそれは事実であるが、それでも物理学の進歩に伴い、22世紀の
 物理学者の多くがこう思うのだ。

 『 人間が論理的思考を誠実に正しく使用している限り、自然はそれに
  沿った解答を我々人類に展開してくれるのではあるまいか!?

 
自然はその姿の全容を我々に提示するのではあるまいか!?
 

 現在の物理学者の大多数はそんなことをまったく意識せずに物理学に
 取り組んでいるが、100年後の物理学者の多くはその点に関心を持つのだ。

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 ● 未来の物理学者の感慨A
 
 脳の徹底的な論理的練磨によって、想定され導かれた法則について
 自然界がそれに似たものを我々に提供してくれるのではないか!
 22世紀の物理学者の多くが自然に対してそういう感慨をもつ。

 『
 自然がついにはその根底を露呈するのではあるまいか?
 という天才
ゲーテの言葉は未来の物理学者の心に強く響く。
 だがゲーテはこうも言っている。
 『 
自然というのは結局のところ極められないのではなかろうか?

以下のことは何度でも心に留めておかなければならない。
我々の
知性の形式に沿って自然があるわけではない。
自然は知性が生まれる以前に存在し、知性などなくても自然は存在する。
我々の知性が自然の形式に沿うように懸命に形成されているといえる。
自然の全てを我々の知性の形式で理解できるとは決していえないのだ。

         
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 ●  自然と知性(人間)@
 
 先天的なアプリオリでもなく、実験して確かめられるアポステリオリでもない。
 そのどちらでも理解できないことがこの自然には存在する。

 自然は人間の知性では完全に理解できないものを含む。
 自然はあっけらかんと真理を表現しているというのに・・・・・。

 いつの時代も真の探求者は自然と知性に差を認めていた。
 つまり
自然 > 知性 である。
 人間の知性の形式で自然の形式がすべて理解はできないのだ。

 プラトン、カント、ゲーテ、ショーペンハウアー、皆そのように考えていた。
 だからこそ人間が理解できることを最大限、理解することに勉めた。

 いつの時代でも多くの民衆は、この差をなんとはなしに感じていた。
 だから、この差を色々な言葉で表現してきた。

     
 自然 - 知性 = 神秘
     自然
- 知性 = 奇跡
     自然
- 知性 = 一部の霊的作用

 自然と知性(人間)の差は、つまり人間の理解を超えた超越的な存在を常に
 予感させるのだ。

         
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 *量子力学の父と呼ばれた物理学者のニールス・ボーアも自然と知性の差
   を率直に認めていた。以下のように発言している。

『自然がいかにあるかを見出すことを物理学の任務だと考えることは誤りである。
 物理学は我々が自然について何を言うことができるかに関するものである。』


     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の深遠なる者達

        稲穂黄金の未来の宗教家へ
        稲穂黄金のこの世界



 ●  自然と知性(人間)A

 この差を許さないのが
一神教である。そしてユダヤ的世界観である。
 一神教では始めに神の意図ありきである。 絶対神がこの世界を創造し、
 まるで自然と人間も神の創作物の1部にすぎず両者は同列の位置に置かれる。
 だからユダヤ的世界観の根底には
自然 = 知性の考えが横たわる。
 自然と知性に差などあるはずがないと考えている。
 ユダヤ的世界観において神だけが突出しているのだ。

 だから、仮に自然と知性(人間)に差があるならば、その差は悪魔の仕業となる。
 ここに 
自然 - 知性 = 魔術 という図式が生まれた。

 人間が理解できない範囲の不可思議なことが悪魔の業=魔術と見なされ
 中世ヨーロッパで、魔術、霊的作用、呪いなどを使ったと噂された女を
 処刑にしたのだ。 世にいう
魔女狩りである。

         
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の宗教家へ
        稲穂黄金の浅はかなる者達



 ● ユダヤ的世界観と一神教

 中世のキリスト教にユダヤ的世界観が流れ込んだ。
 その為、聖書で把握できないものが許せなかった。
 中世キリスト教は霊的なものを悪魔と業とみた。

 ユダヤ的世界観が流れ込んだ宗教は暴走する。

『キリスト教は人智で把握できない霊的作用に対して潜在的な恐れをもつ 』
と心理学者ユングが言っているのはこのことである。

 古代から続くユダヤと賢者の戦いについて既にショーペンハウアーが詳細に
 述べている。ユダヤ的世界観の危険性についても詳細に述べている。
 ユングもショーペンハウアーの宗教の章について熟読したのだろう。
 それにしても
ユングの述べていることはショーペンハウアーを学んだ者から
 すれば一目瞭然
である。
 ユングがやろうとしたことは手取り足取り良くわかるものである。


         
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   * フロイト、ユングの業績を真に知りたければショーペンハウアーから
      学ぶと良い。 フロイトもユングもショーペンハウアーが語ったことを
      ヒントにし、彼らが構築し築き上げた学問の基礎にショーペンハウアー
      の見解を据えているのが見て取れる。


     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の心理学者へ
        稲穂黄金のユダヤと日本

        稲穂黄金の未来の宗教家へ



 
● この世界の正確な認識

 物理学で真の発展をもたらすものはこの世界を正確に認識することである。
 この世界の姿を正しく認識し、その世界観をもって、その世界観に合ったモデル
 ケースを創造し、実際にそのモデルケースを数式化する作業に取り組むのだ。

  アインシュタインは観察者にとって、見ている光の動作の表れ(速度)は
 普遍的なものであるとみなした。その為になら時間と空間を曲げた。
 そういう世界を創造し、方程式化し法則化していったのだ。

 宗教(一神教)のように始めに神の意図ありきで述べられるなら、この世界の
 探求も
どれほど単純で簡単なことであろうか!事実は異なるのだ。

 宗教に媚びて絶対者、絶対精神、理性の支配などと言い出したフィヒテや
 シェリング、ヘーゲルなどの似非者達。
 トンチンカンでナンセンスな説明で解決できるほどこの世界は単純ではない。

 真に物理学の道を進む者は文科系の似非哲学学者の言に惑わされず
 また、この世界の真の姿がわかったような面をする中途半端な宗教家の
 世界観の言にも惑わされないことだ。
 ひたすら真理の道を突き進むのだ。

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 ● 宗教を越える必要がある@

  真に物理学の道を進む者は
宗教を越える必要がある

 人間が科学で成し遂げられることには、神は手を貸さぬだろう。
 人間が科学で成し遂げられない(
超越的な)ことに、神は手を貸すだろう。

 だからこそ、学問を勉める必要がある。
 古来から優れた神霊家、宗教家が皆、学問を積み、研鑽を図るのも人間が
 論理的に形成した学問を真に知ることで、それを越える超越的なものが
 何者であるのか知ることに繋がるからだ。

 人智を超えた存在(何者か)は人智の限りを
  尽くしたところに降りるのではないか!
by 稲穂黄金

 最澄、空海、日蓮、親鸞、法然などの仏教の偉人は皆、圧倒的な学識があった。
 戦前の出口王仁三郎とてそうであった。彼は最高レベルの哲学を意識していた。
 その哲学の賢知でさえ到達しがたい領域に、彼は近づこうとした。

       
平田篤胤もまた、この世界を真剣に生きた。
        
       
平田篤胤ひらたあつたね) 現代では、彼に関する本も多くなった。

 江戸時代の平田篤胤は、この世界の彼方にあるだろう世界を夢想し、その為
 にはこの我々の世界を正確に把握することこそが、彼方の世界(神界、霊界)を
 知りうることに繋がると信じ、この世界の探求を続けたのだ。
 彼はその覚悟を終生、貫いて生きた。

 皆、進むべき道は違えど、目的地は一緒であった。
 皆、まぎれもない真の求道者であった。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の求道者へ
        稲穂黄金の未来の神霊家へ



 ● 宗教を越える必要があるA

 だからこそ物理学者は宗教を越えなくはいけない。

  『 神を信じることは難しいが、神を信じないのは愚かなことだ。 』 
  と述べた有名な言葉がある。一流の探求者ヴォルテールの言葉だ。

  宗教関係者はこの言葉を、ことさら取り上げて宗教の正当性を述べる。
 しかしこの言葉には以下の意味も含んでいる。
  『 神を盲信することは簡単だ。何も勉強しなくて良いのだから。 』
 ほとんどの宗教信者がそうであるように暗黙的に宗教を信仰することは簡単だ。

        
彼は一流の探究者であり、かつ自由人であった。
         
           
ヴォルテール

 論理をもって基礎とする物理学者は知らなければならない。
 
神の存在を論理的に証明することは不可能であることを。
 200年以上前に、天才カントによって既に証明されたのだ。

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 * ここでは、もちろん宗教の意義と役目を批判しているわけではない。
   宗教とは大衆のものであるからそれはそれで良いのだ。また真の宗教家は
   神霊家でもあるだろう。その場合の認識手法は科学とは大きく異なる。


       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の神霊家へ



 ●  宗教と物理学

 起こりうる現象を決して神の業とはみずに、人間に与えられた論理的思考で
 徹底的に考えて考えて考え抜いたあげく、実験で検証し検証し検証したあげく
 それでも理解不能、奇跡に思えることを神の業(わざ)だと想い馳せることは
 許されるのだと愛すべき天才ゲーテは言っている。

 その高みに到達するに至ったら何を信じようが自由であろう。 
 その地点に到達した
道そのものが神の道ではなかろうか!?
 
 物理学の道を進むものはその覚悟が必要だ。
 科学者が真に探求し、人智のあらん限りを使って勉めるときにその対極に
 存在する宗教も一段と光輝くことだろう。

 科学の進歩は、影に隠れた似非宗教の正体をあからさまに見せるだろう。
 科学の光がそれを見抜き、似非宗教の正体を白日のもとにさらす。
 そして科学の光は、真の宗教を照らし出す光となるだろう。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の宗教家へ



 
● 天才ゲーテの世界観

 愛すべき天才ゲーテはこの自然についてこう述べた。
 
 『 自然は
天秤の分同をほんの少し変えるだけで微妙に揺れ動き、そうして
   周り(前後・上下・以前以後)で生じた関係によって、この世界で生起
   するあらゆる現象は制約を受けあうのだ。 』
 

 量子理論、カオス理論、複雑系を真に探求する現在の物理学者ならこの意味、
 この凄さを改めて感じることだろう。
 ゲーテは200年以上前にこの世界を正確に把握していたのだ。

 
ゲーテの色彩論を一行でも読めば、そこに天才のみに与えられた光の輝きを見るだろう。
   
  愛すべき天才・ゲーテ    
 あの偉大な古代ギリシャ人、古代ローマ人が
諸手で迎え入れる数少ない人の1人である。

 そのゲーテが長い歳月を費やして色彩論を完成させた。
 だが、その当時の科学者はそのゲーテの色彩論を一笑に付したのだ。

 その当時の科学者の間ではニュートンの光学理論が全盛であった。
 それは外的で単調な光学理論であった。
 いつでも
科学者は計算できればそれで満足であるからだ。

 この影響は現代も続く。
 今でも科学者の多くが、光の中に色が存在すると真剣に考えている。
 しかし真相は光の中に色はなく、人間の目に光が作用して色は作られる。

 22世紀になって光の中に色が存在すると言えばきっと笑われる。
 100年後の22世紀になっても、ゲーテの色彩論の真の意味が理解されて
 いないなら科学の進歩もそこまでということだ。


         
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金のゲーテ



 
● 天才ゲーテの高みへ@

 愛すべき天才ゲーテはこう述べた。
 『 究明できるものは究明する一方で、究明できないものに対しては
   静かに敬意を表すことである
 』

 カントの理性批判によって神が存在することを論理的に証明することが
 できないことが明らかにされた。
 だから真理を探究する真の哲学が神や絶対者から始まることはない。

 宗教信者のように始めに神有りきで、神がこの世界をもたらしたという単純な
 考えで満足できるならどれだけ楽なことであろうか!?
 確かに民衆がそう考えることは許される。

 だが真理を探究する者には許されない。
 真理の探求の先端を走る物理学者には許されないのだ。

         
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金のゲーテ



 ● 天才ゲーテの高みへA

 あなたが真剣に探求して探求して、それでも届かない何者かを感じたとき、
 それを信じることは許されるのだとゲーテは述べた。

 誰もがいつしかその高みに到達したいと望む。
 しかし現実に、その高みに到達できるものは極々少数である。

究明できるものは究明する必要がある。
安易な妥協は信じる存在さえ最終的に駄目にする。
 
 いつの時代も実験と検証を繰り返してきた誠実な者の名は物理学者。
 究明が必要なものはこの世に溢れている!
 未来の若き物理学者達よ!進むのだ!

         
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